| 若紫丸 | |||
| 藩名 | 土佐藩 | ||
| 藩主 | 山内容堂 | ||
| 船種 | 砲艦 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | 無 | ||

1867年に土佐藩の参政「後藤象二郎」が長崎の土佐商会を任されている「岩崎弥太郎」に要請し、弥太郎が英国商人グラバーより7万5千ドルで購入した小型砲艦です。
のちにイカロス事件(長崎イギリス人殺傷事件)で同藩の「横笛丸」と「若紫丸」が、事件翌日に長崎港を出港したことで英国領事館より「海援隊士」が嫌疑を受けました。結局、この嫌疑は後藤象二郎、坂本龍馬の周旋で程なくはれました。
所属した土佐藩と、中岡慎太郎
この軍艦・若紫丸を運用したのは、土佐藩(山内家)です。坂本龍馬と並んで土佐が生んだ志士が、中岡慎太郎でした。
中岡は土佐を脱藩して志士活動に身を投じ、薩摩と長州を結ぶ薩長同盟の周旋に龍馬とともに奔走しました。武力討幕をめざして陸援隊を組織し、行動派として頭角を現します。しかし慶応三年(1867)、京都・近江屋で龍馬とともに何者かに襲われ、命を落としました。若紫丸は、その中岡を生んだ土佐の一隻です。
幕末軍艦一覧リスト
南海丸とは、名前が紛らわしい関係にあります
平野富二の伝記研究のサイトによれば、若紫は原名を「ナンカイ」といい、イギリス商人グラバーの仲介で上海で造られた小型の砲艦でした。慶応三年六月、長崎でグラバーから土佐藩へ引き渡されています。ところが当サイトには南海丸のページが別にあり、そちらは千八百五十六年に上海で造られた四百十二トンの船で、原名は「シャンハイ」、文久三年にイギリス商人ウィルキンソンから十一万五千ドルで買った土佐藩最初の蒸気船とされ、慶応二年十二月に売られています。買った年も相手も値段も違いますので、別の船とみるのが自然です。ただしイカルス号事件を扱った資料では、日本語のものが「南海丸」、英語のものが「若紫」と書いていて、そこでは同じ船を指している可能性があります。名前が紛らわしく、資料によって扱いが分かれます。
イカルス号事件で、疑いをかけられました
慶応三年七月六日の夜、長崎の丸山でイギリス軍艦イカルス号の水兵二人が斬られました。火夫のロバート・フォウドと、大工のジョン・ハッチングズです。殺されたのは深夜、午前零時から二時のあいだとみられています。この直後に土佐藩の船が長崎を出たことから、海援隊に嫌疑がかかりました。出ていったのが横笛丸と、この若紫、つまり南海丸です。犯人を乗せて逃がしたのではないか、というわけでした。
イギリス公使が、高知まで来ました
イギリス公使のハリー・パークスは老中の板倉勝静へ強く申し入れ、千八百六十七年九月三日には軍艦バジリスク号で高知へ乗り込み、土佐藩主に賠償を求めました。応接にあたったのは後藤象二郎です。高知市の説明も、後藤がパークスの脅しに屈せず再調査の約束を取りつけた、としています。九月九日には坂本龍馬が、パークスの補佐官アーネスト・サトウらとともに長崎へ同行しました。嫌疑が取り下げられたのは十月四日、海援隊が関わった証拠がないという理由です。
真犯人が分かったのは、一年あとでした
下手人は筑前藩士の金子才吉でした。家老の陪臣の次男で、洋学の修業中だった人です。犯行の二日後、慶応三年七月八日の深夜に自分の腕をかき切り、死にきれずに喉を突いて自ら死んでいます。四十二歳でした。福岡の長栄寺に葬られたのが七月十一日ごろ。これが分かったのは翌慶応四年の秋で、事件から一年あまり経っています。この船に乗っていた人たちは、その一年のあいだ、犯人の逃がし役を疑われたままだったことになります。
この船に乗っていた機関手
事件のとき若紫に乗り組んでいた一等機関手が、平野富次郎です。のちに平野富二と名を改め、石川島造船所を興しました。慶応三年三月から十二月まで、月に二十五両で夕顔、空蝉丸、そしてこの若紫の機関を見ています。事件では参考人として取り調べを受けました。
若紫丸を船の型と持ち主から読む
若紫丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「砲艦」。沿岸を守る小型の砲艦です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している土佐藩の船は、この若紫丸を含めて10隻あり、そのうち帆船は3隻です。同じ土佐藩の船には、夕顔丸(輸送船)、箒木丸(輸送船)、羽衣丸(スクーナー級輸送船)、南海丸(スクリュー汽船)、蜻蛉丸(スクリュー汽船)、胡蝶丸(輸送船)、乙女丸(輸送船)、空蝉丸(輸送船)などがあります。
持ち主の土佐藩の幕末をふり返ると、大政奉還を建白。戊辰戦争では板垣退助の率いる新政府軍。若紫丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
持ち主の土佐藩—岩崎弥太郎と三菱のはじまり
土佐商会と岩崎 若紫丸を買い入れた慶応三年(1867)、土佐藩の長崎の出先「土佐商会」を任されていたのが、のちに三菱を興す岩崎弥太郎です。岩崎は土佐の地下浪人の家に生まれ、吉田東洋に才を認められて藩の役につきました。長崎では、藩の国産品を売り、汽船や武器を買う取り引きを一手に引き受けています。
三菱へ 廃藩置県の前後、土佐藩の商いと船は岩崎のもとに引き継がれ、九十九商会、三菱商会へと姿を変えていきました。土佐藩の船と商いは、明治の日本を代表する会社の出発点となったのです。



