| 南海丸 | |||
| 藩名 | 土佐藩 | ||
| 藩主 | 山内容堂 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 4門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 100馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
1856年に上海で建造された蒸気内車で大砲が4門装備されていました。原名は「シャンハイ(上海)」長31間・幅5間・412トン。1863年に英国商人ウィルキンソンより11万5千$で購入した土佐藩最初の蒸気船です。しかし、慶応二年十二月に売却しました。
所属した土佐藩と、岩崎弥太郎
この軍艦・南海丸を運用したのも、土佐藩(山内家)です。土佐藩の海運と商いを担った人物が、のちの三菱の創業者・岩崎弥太郎でした。
岩崎は土佐藩の長崎商会や、坂本龍馬の海援隊の会計を任され、船と物資をさばく実務で頭角を現します。維新後は藩の船を引き継いで九十九(つくも)商会を興し、これをやがて三菱財閥へと育て上げました。志士たちの活動を支えた才覚が、近代日本の大企業へと結実したのです。南海丸は、その土佐藩の一隻です。
幕末軍艦一覧リスト
土佐藩で最初の蒸気船でした
南海丸は千八百五十六年に上海で造られた船で、原名を「シャンハイ」といいます。長三十一間・幅五間で四百十二トン、百馬力、大砲を四門積んでいました。土佐藩が文久三年にイギリス商人ウィルキンソンから十一万五千ドルで買ったもので、この藩がはじめて持った蒸気船です。ところが慶応二年十二月に売られています。手元にあったのは三年ほどでした。
若紫丸と、名前が紛らわしい関係にあります
当サイトには若紫丸のページが別にあります。平野富二の伝記研究のサイトによれば、若紫は原名を「ナンカイ」といい、グラバーの仲介で上海に造らせた小型の砲艦で、慶応三年六月に長崎で引き渡されました。南海丸が原名シャンハイで慶応二年十二月に売られ、若紫が原名ナンカイで慶応三年六月に来ています。買った年も相手も値段も違いますので、別の船とみるのが自然です。ただしイカルス号事件を扱った資料では、日本語のものが「南海丸」、英語のものが「若紫」と書いていて、そこでは同じ船を指している可能性があります。名前が入れ違っているようにも見え、資料によって扱いが分かれます。
十一万五千ドルという値段
比べておきます。同じ土佐藩の夕顔丸が洋銀十五万五千ドル、乙女丸が一万七千ドル、羽衣丸が一万三千五百ドル。幕府が文久二年に買った順動丸が十五万ドルでした。南海丸の十一万五千ドルは、藩がはじめて買う船としてはかなりの奮発です。二十万石余りの藩が、蒸気船一隻にこれだけ出しました。
名前が、源氏物語から外れています
土佐藩の洋式船は若紫丸、夕顔丸、空蝉丸、箒木丸、胡蝶丸、乙女、紅葉賀と、『源氏物語』の巻名で揃えられていました。南海という名は、その並びから外れています。この船を買ったのが文久三年ですので、源氏の巻名で揃えるようになったのはそれより後だったのかもしれませんが、そう書いた資料は見あたりませんでした。
参考資料:Wikipedia日本語版「南海丸」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
持ち主の土佐藩—「酔えば勤王、醒めれば佐幕」
山内容堂 南海丸を買い入れた文久三年(1863)、土佐藩を動かしていたのは前藩主の山内容堂でした。容堂は酒と詩を好み、「鯨海酔侯」と名のった人物で、その立場は「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と皮肉られるほど揺れ動いて見えました。朝廷を重んじながらも、徳川家への恩義を忘れなかったためです。
同じころの土佐 この年、容堂は江戸から土佐へ戻り、土佐勤王党への締めつけを強めていきます。一方で容堂は、のちに大政奉還の建白を出して、徳川家を守りながら新しい政治へ移る道を探りました。土佐藩の船は、こうした容堂の時代に増えていきました。

