水戸は、幕末を語るうえで避けて通れない町です。ここで生まれた思想が、桜田門外の変を起こし、天狗党の挙兵を起こし、そして最後の将軍を出しました。
ですがその同じ思想が、この藩自身を食い尽くしてもいます。

日本中に火をつけて、自分が焼け落ちた藩
水戸城は幕末まで御三家の居城でした。ですからこの記事に「幕末には城でなかった」という断り書きは要りません。むしろ問題は逆で、幕末が濃すぎるのです。
- 弘道館——徳川斉昭が創った、敷地面積で全国最大の藩校です。ここで学んだ少年が、最後の将軍・徳川慶喜になりました
- 吉田松陰が留学した町——嘉永四年、松陰は一か月余りここに滞在し、会沢正志斎に師事しています
- 藤田幽谷・東湖の父子——生誕の地が二つとも城下に残ります。東湖の思想が全国の志士を動かしました
- そして弘道館戦争——明治元年十月、水戸の武士同士が、この藩校を挟んで撃ち合いました
思想を輸出して、内戦で自壊した。それが幕末の水戸です。
大手門と、二の丸角櫓

大手門は令和二年(2020年)に木造で復元されました。二の丸角櫓は令和三年(2021年)です。私が訪ねたのは、どちらも建ったばかりの頃でした。


水戸城には天守がありませんでした。正確には御三階櫓という三層の建物がありましたが、これは昭和二十年八月二日の水戸空襲で焼失しています。いま城域に建つのは、令和になって復元されたこの二つだけです。
そのかわり、この城には見るべきものが別にあります。土です。

水戸城は石垣をほとんど使わない土の城です。台地の尾根を掘り切って、本丸・二の丸・三の丸を階段状に並べました。写真の堀は、いまは道路が通っていますが、もとは深い谷です。本丸と二の丸のあいだの堀にいたっては、堀底をJR水郡線が走っています。城の堀が鉄道の敷地になった例は、そう多くありません。
水戸観光コンベンション協会はこの城を「国内最大規模を誇る土造りの城」と紹介しています。関東の城は土でつくる——真壁城や児山城で見たのと同じ思想が、御三家の城でも貫かれていました。
なお現存する建造物は、佐竹氏時代のものと伝わる薬医門ただ一つで、いまは旧本丸にあたる県立水戸第一高等学校の敷地内に移築されています。
弘道館——慶喜が学び、慶喜が謹慎した場所
三の丸に、弘道館があります。徳川斉昭が天保十二年(1841年)八月に仮開館し、安政四年(1857年)に本開館した藩校です。敷地はおよそ十万五千平方メートル。藩校としては全国最大の規模でした。初代教授頭取は会沢正志斎です。
いま残るのは正庁・至善堂・正門で、いずれも重要文化財。敷地全体が特別史跡に指定されています。

徳川慶喜は天保九年、生後七か月で江戸から水戸へ移されました。そして弘化四年(1847年)に一橋家相続を命じられて江戸へ出るまで、およそ九年をここで過ごしています。弘道館が仮開館したのが天保十二年ですから、少年期の数年をこの学校で送ったことになります。会沢正志斎らに学問と武術を習いました。
そして話には続きがあります。

慶応四年(1868年)四月十一日の明け方、慶喜は上野寛永寺を出発しました。江戸開城の合意にもとづく移居です。四月十五日に水戸へ着き、弘道館の至善堂で謹慎しました。七月十日に駿府への転居を命じられ、十九日に水戸を発つまで、およそ三か月です。
自分が学んだ学校の一室で、将軍職を失った男が謹慎していました。二十年前にここで漢籍を読んでいた少年が、徳川十五代の最後を背負って戻ってきたことになります。
弘道館戦争——藩校を挟んで、水戸の武士が撃ち合った
慶喜が水戸を発ったのが七月十九日。その二か月半後に、この場所は戦場になります。
会津で敗れた諸生党——市川三左衛門に率いられた水戸の保守派が、九月二十九日、城下へ攻め寄せて弘道館を占拠しました。迎え撃ったのは、水戸城側に拠った本圀寺党と天狗党の残党です。
明治元年十月一日、大手門を挟んで戦闘が始まりました。翌二日の夜に諸生党が退却するまでに、反諸生党側で八十七名、諸生党側でおよそ九十名が死んでいます。弘道館は正門・正庁・至善堂を残して焼けました。
いま残る正門の柱には、城側から撃たれたと思われる弾痕があります。
戊辰戦争の各地の戦いは、たいてい旧幕府軍と新政府軍の戦いです。ですが水戸のこれは違います。同じ藩の武士同士が、自分たちの学校を挟んで撃ち合いました。諸生党はこの五日後、下総の八日市場でも敗れて壊滅します。市川三左衛門は逃亡の末に翌年捕らえられ、水戸で処刑されました。
斉昭が作らせたもの

徳川斉昭が水戸藩主となったのは文政十二年(1829年)です。門閥にこだわらず藤田東湖や武田耕雲斎ら下士層を登用し、大規模な軍事訓練(追鳥狩)を行い、稗倉を設けて農村を救い、西洋兵器の国産化を進めました。弘道館が天保十二年、偕楽園が翌天保十三年の創設です。
寺院の梵鐘や仏像を没収して大砲に鋳直したのも斉昭です。その激しさが幕府に警戒され、安政五年には井伊直弼を無断登城で詰問して謹慎、翌安政六年に永蟄居。そして万延元年八月十五日、水戸で急逝しました。享年六十一。桜田門外の変から、わずか五か月後のことです。


水戸東照宮の境内に、奇妙なものが二両置かれています。安神車といいます。斉昭が作らせた鉄板張りの牛車型装甲車両で、上部と四囲を鉄で囲み、中に一人が入って小銃を発射できます。牛が牽き、人が押す。「日本最古の鉄製戦車」と呼ばれることもあります。
水戸市指定文化財です。ただし製作年も、実戦で使われたかどうかも、資料では確認できませんでした。戦災で被害を受け、いま残るのは鉄の部分と木部の一部だけです。
攘夷を唱えながら、その手段として西洋式の兵器を作る——斉昭という人の矛盾が、この鉄の箱によく出ています。龍岡城五稜郭や韮山反射炉を歩いたときにも感じたことですが、幕末の「攘夷」は、しばしば西洋技術の輸入とセットでした。
藤田幽谷と東湖——父と子の生誕地が、二つ並んでいる


案内板によれば、東湖は文化三年(1806年)三月十六日、父・幽谷の長男としてこの地に生まれたそうです。ここは寛政八年(1796年)に幽谷が藩から与えられた屋敷地で、敷地内には私塾青藍舎があり、東湖は父からここで学問を受けて育ちました。剣術や槍術の修行もここでしたといいます。
昭和二十六年に藤田家から水戸市へ寄贈され、いまは「みと好文カレッジ」の敷地になっています。「藤田東湖生誕の地」の碑と、東湖の産湯の井戸跡が残ります。


東湖は斉昭の側用人として藩政改革を支え、「弘道館記」の草案を書き、『弘道館記述義』『回天詩史』を著しました。その文章は全国の志士に読まれ、水戸学を水戸の外へ運び出します。
そして安政二年十月二日(1855年11月11日)の安政の大地震で、母を守るために梁を肩で受け止めて圧死しました。享年五十。桜田門外の変の五年前です。もし東湖が生きていたら、水戸藩は天狗党と諸生党に割れずに済んだのではないか——そう言われ続けてきた人物です。
吉田松陰が、一か月ここにいた

城下の一角に、こんな碑があります。説明板の内容がいいのです。
吉田松陰が水戸を訪れたのは、嘉永四年(1851年)十二月十九日から翌年一月二十日にかけて。この地にあった永井政介宅に約一か月余り滞在し、その間、会沢正志斎・豊田天功らの碩学に師事し、水戸の青年有志と交わって、水戸の学問の真髄を学んだ——と書かれています。
そして説明板は、こう続けます。その精神は、やがて長州藩の志士を奮起させ明治維新の原動力となった。
碑に刻まれているのは、松陰が水戸を去るにあたって永井政介の長子・芳之介に与えた詩です。
二十二歳の松陰がここで会沢正志斎に会っていなければ、松下村塾はどんな塾になっていたでしょうか。長州藩が幕末に果たした役割の源流の一部が、この常陸の城下町にあります。水戸は思想を輸出しました。それが、この町のいちばんの特徴です。

ちなみに水戸といえば黄門様ですが、幕末とのつながりはここでも切れていません。二代藩主・徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業が、水戸学という学問を生み、それが尊王思想となって幕末に噴き出しました。駅前のこの像は、遠回りに幕末の起点を示しています。
思想を輸出して、自分が焼けた
歩き終えて思ったのは、水戸という藩の割に合わなさでした。
桜田門外の変を起こしたのは水戸浪士でした。天狗党を挙兵させたのは藤田東湖の子・小四郎です。松陰は水戸で学びました。最後の将軍は水戸で育ちました。幕末の主要な出来事のほとんどに、水戸の名が出てきます。
それでいて、この藩は明治新政府で主導権を握っていません。薩摩藩でも長州藩でも土佐藩でもなく、水戸です。理由ははっきりしています。藩論が統一できず、内輪で殺し合ったからです。
元治元年の天狗党の乱では、捕縛された八百二十八名のうち三百五十二名が処刑されました。弘道館戦争では両派あわせて百七十七名が死んでいます。数え上げられる分だけでもこれです。
最後の藩主・徳川昭武は斉昭の十八男、慶喜の弟にあたります。慶応三年、将軍の名代としてパリ万博に参列した人です。明治二年に帰国して水戸徳川家を継ぎましたが、迎えたのは焼けた弘道館と、人のいなくなった藩でした。
【水戸城・弘道館・場所・アクセス・地図】
弘道館はJR水戸駅北口から徒歩八分ほどです。大手門・二の丸角櫓は弘道館から歩いてすぐで、大手門から二の丸へ抜ける道沿いに空堀を見下ろせます。薬医門は県立水戸第一高等学校の敷地内にあります。
安神車とカノン砲は水戸東照宮の境内、藤田東湖・幽谷の生誕地と吉田松陰水戸留学の地はいずれも城下の徒歩圏です。この一帯は歩いて半日で回れます。偕楽園は少し離れているので、あわせて行くなら時間に余裕を持ちたいところです。
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「藤田東湖生誕の地」
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
