福井藩(越前藩)/松平家32万石:松平茂昭 前藩主慶永(春嶽)とともに、大政奉還・鳥羽・伏見の戦い後は新政府軍に与した越前藩

目次

福井藩(越前藩)の歩み

慶長六年(1601年)に「関ヶ原の戦い」の功により、徳川家康の次男「結城秀康」が越前一国六十七万石を与えられ、柴田勝家の築いた「北ノ庄城」を約6年かけて大改修し居城とします。その後秀康は結城姓を松平に復し越前松平家を興します。

福井藩(越前藩)/場所・アクセス・地図 松平家32万石:松平慶永 大政奉還・鳥羽・伏見の戦い後は新政府軍に与した越前藩【幕末維新写真館】

幕末の藩主「松平慶永(春嶽)」は田安徳川家から養子に入った藩主で、「橋本左内」を起用したり、肥後藩(熊本藩)から「横井小楠」を招聘して藩政改革をおこないました。井伊直弼の「安政の大獄」により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与しています。

戊辰戦争が開戦となる前までは、一橋慶喜を擁護していたが時代の流れと共に薩長主導の新政府軍に加わりました。

明治二年(1869年)には版籍奉還が行われ、明治四年(1871年)の「廃藩置県」により福井藩は廃藩となり福井県、足羽県となり、さらに敦賀県を経て石川県に併合されるが、のち旧越前および若狭が福井県として成立しその中心部となりました。

将軍になれなかった家康次男の、その後

福井藩の藩祖結城秀康は、徳川家康の次男です。

兄の信康は自刃し、家康の跡を継いだのは弟の秀忠でした。秀康は豊臣秀吉の養子となり、次いで下総の名門・結城家を継ぎ、関ヶ原ののち越前六十八万石を与えられます。

—順番でいえば将軍になっていてもおかしくなかった人が、越前の大名として一生を終えました。越前松平家がのちのちまで御家門のなかでも特別な家格を保ったのは、この由来によります。

そしてその特別な家格が、幕末に効いてきます。「越前の殿様なら、将軍にも朝廷にも物が言える」—松平春嶽が幕末政局のど真ん中に立てたのは、実力だけではなく血筋の力でもありました。

★春嶽が就いた三つの席

幕末の松平春嶽は、日本の中枢に三度出入りしています。

  • 安政五年、将軍継嗣問題―一橋慶喜を推して井伊直弼と対立し、隠居・謹慎させられます。翌年、腹心の橋本左内が斬首される
  • 文久二年、政事総裁職―直弼の死後に復権。将軍後見職の慶喜と組み、参勤交代の緩和など幕政改革にあたる
  • 参預会議・四侯会議―島津久光、山内容堂、伊達宗城らと並び、雄藩による合議で国を動かそうとする

ただし、そのいずれも長続きしませんでした。春嶽が構想した「公議政体」―諸侯の合議で国を運営する形は、ついに実現しません。現実の維新は、薩長による武力倒幕として進みました。

それでも、彼が集めた人材が残した仕事は大きい。三岡八郎(由利公正)が起草した「議事之体大意」は五箇条の御誓文の原文になり、その第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」は春嶽が生涯追いかけた合議の理想そのものです。

—春嶽は政局に負け続けて、思想だけが勝った人でした。

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戊辰戦争のはじめ、福井藩は旧幕府側にいました

福井藩は「新政府側についた藩」として語られますが、『福井県史』通史編5はもっとそっけない書き方をしています。「福井藩は戊辰戦争当初、旧幕府側に加担していました」。慶応四年の福井藩がどう新政府側になったのかを、日付で追ってみます。

六十八万石から三十二万石へ ― 二度の改易

まず石高の話から。三十二万石という数字は、この藩が最初から持っていたものではありません。

結城秀康の入封高は六十八万石(六十七万石とする資料もあります)。それが二代忠直の元和九年(1623年)の改易で崩れます。忠直は豊後へ配流となり、嫡子光長は越後高田藩二十五万石へ移され、代わって忠直の弟忠昌が越前へ入りました。寛永元年(1624年)四月、北庄五十万五千二百八十石。寛永十四年(1637年)に木本領二万石を加えて五十二万五千二百八十石になっています。

このとき忠昌の弟たちが越前国内で大名になりました。直政の大野藩、直基の勝山藩、直良の木本藩、そして付家老の本多成重が丸岡藩です。のちに吉江藩や高森藩も分かれます。越前一国が一つの藩だった時代は、これで終わりました。

二度目の打撃が貞享三年(1686年)、六代綱昌の改易です。ここで一気に二十五万石まで落ちます。六十八万石で始まった家が、百年足らずで三分の一になったわけです。

そこから少しずつ戻していきます。享保六年(1721年)に三十万石、文政元年(1818年)に十一代治好が二万石を加増されて三十二万石。この三十二万石が幕末まで続きました。

ただし財政は別の話です。天保九年(1838年)に十一歳の春嶽が藩主になったとき、藩が抱えていた借財は『福井県史』の表現で「古借新借惣高九十万両余之借財」。三十二万石の藩に九十万両の借金があったことになります。

「北ノ庄」から「福居」、そして「福井」

地名の話も整理しておきます。

柴田勝家が織田信長の命で入ったのは「北ノ庄」で、勝家は九重の天守を持つ北ノ庄城を築きましたが、天正十一年(1583年)に秀吉に滅ぼされました。福井市の発掘調査は平成五年度から六回にわたって行われ、文献でしか伝わっていなかった北庄城を初めて確認しています。堀幅は約二十五メートル、十六世紀後半の越前焼の擂鉢や甕、焼けた土壁が出土し、石垣は福井城の築城時に破壊されて基礎だけが残っていました。市の報告は「結城秀康が遺構を大胆に改変し福井城を造営していった様子も地層の切り合いの中で確認」できるとしています。

その「北ノ庄」が改まるのは寛永元年(1624年)七月十九日、忠昌の入部にともなってです。『家譜』は「北庄を福居に改める」と記しており、『福井県史』も同時期の文書に「福井庄御奉行所」「福居庄」が混在することから、正式には「北庄を福居庄に改めた」と考えられると整理しています。つまり「福居」がさきで、「福井」はあとです。

改めた理由について、福井県立歴史博物館の講座資料は「北は敗北を意味し不吉」だったためと説明し、あわせて福井城天守台の井戸「福の井」が由来とされ、「祝福の井」と解されるとも述べています。二つの説明は排他的ではなく、県の資料は両方に触れています。

慶応四年、鎮撫使が福井に来ます

さて本題です。『福井県史』通史編5「北陸道鎮撫使の下向」が伝える経過は次のとおりです。

慶応四年一月十五日、高倉総督が若越七藩に朝廷帰順の勅書を発します。一月二十五日に鎮撫使一行が小浜へ入り、二月十五日に福井へ到着して西本願寺掛所に入りました。二月二十日には佐賀藩兵も加わり、二月二十八日に福井を発っています。

この滞在中、福井藩は「朝命に服する三件の誓約の請書」を提出させられ、旧幕府領の調査と、越前国内の代官支配地の取締りを命じられました。

つまり福井藩が新政府側になったのは、自発的な討幕ではありません。鎮撫使が城下に入り、誓約の請書を出して統制下に置かれたという形です。春嶽自身は前年十二月九日の小御所会議で、山内容堂とともに徳川慶喜の朝議参加を要求して討幕派に激しく反対し、押し切られていました。公議政体派として最後まで徳川を政局に残そうとした藩が、二か月後には鎮撫使に請書を出している。これが慶応四年の福井藩です。

越後口へ二千三十四人

出兵の記録は具体的に残っています。『福井県史』通史編5「戊辰戦争への出兵」によると、福井藩の出兵先は越後口(会津征討)でした。

五月二十二日に出兵命令、六月二十四日から二十六日に出動。初次は千二百人。七月四日には家老が率いる六小隊を追加投入しています。越後口での兵員総数は二千三十四人、戦死十人・負傷三十二人。十一月に帰還しました。

比べると小浜藩は六月十八日命令・七月五日出発で総勢三百余人、総計三百四十八人、戦死一人・負傷三人で十月に帰還。丸岡藩などその他の若越諸藩は直接の出兵は命じられず、京都での警衛と敦賀湾警備に従事しました。大野藩は別に箱館戦争に関わっています。三十二万石の福井藩が、越前の諸藩のなかでは頭抜けて多くの兵を出したことになります。

城下にいた四人

春嶽の周りにいた人たちを見ておきます。

橋本左内。号は景岳。天保五年(1834年)生まれで、父は藩の奥外科医を務めた長綱です。大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修め、十五歳のときに『啓発録』を書きました。内容は五項目で「稚心を去る/気を振う/志を立てる/学に勉める/交友を択ぶ」。安政四年(1857年)一月に明道館の学監心得となって改革を進め、複数の塾と武芸稽古所を設けて欧米の学問を教えました。横井小楠を招いたのもこの人です。そして安政六年(1859年)十月七日、二十六歳で斬首されます。

横井小楠。熊本藩の人で、安政五年(1858年)に福井藩主の賓師として招かれ、政治顧問になりました。万延元年(1860年)に『国是三論』を成し、開国通商・殖産興業・富国強兵を説いています。明道館で講義しながら経済政策を提唱し、文久二年には春嶽の政事総裁職就任にあわせて参勤交代制の廃止など幕政改革を主導しました。明治二年一月五日、京都で暗殺されます。

由利公正(三岡八郎)。文政十二年(1829年)生まれ。小楠の影響で藩財政を研究し、安政五年に小楠に同行して九州へ赴き、長崎に越前蔵屋敷を建ててオランダ商館とのあいだで生糸販売の特約を結びました。藩札を発行して生糸の生産者に融資し、九十万両の負債を十年で黒字化しています。売り先は横浜ではなく長崎です。

その由利を、慶応三年十一月に坂本龍馬が福井に訪ねてきます。新政府への参画を求めての訪問で、莨屋(たばこや)旅館で夜更けまで語り合ったと伝わります。龍馬の推挙で「御用金穀取扱方」に就任し、龍馬の船中八策をもとに「議事之体大意」を著しました。これが明治元年三月十四日公布の五箇条の御誓文の原型になります。由利は明治四年に第四代の東京府知事となり、明治五年二月の大火のあと、街路を拡げて煉瓦建築で不燃化する計画を実施しました。銀座煉瓦街です。

中根雪江(靱負)。文化四年(1807年)生まれ。春嶽の片腕として藩政改革と一橋慶喜の擁立運動を補佐した人で、残した記録が貴重です。『昨夢紀事』は春嶽と老中阿部正弘、徳川斉昭、島津斉彬らとの往復書簡を収めた日記体の史料で、嘉永六年六月四日から安政五年七月五日までの約五年間を扱います。本編十五巻は万延元年(1860年)完成。執筆を始めたのは、主君が安政の大獄で謹慎を命じられたあとでした。続編に『再夢紀事』二巻(文久二年四〜八月)と『続再夢紀事』二十二巻(文久二年八月〜慶応三年九月)があります。明治十年十月没。

明道館から藤島高校まで

藩校明道館は、安政二年(1855年)に春嶽が前身の正義館を改革して設けたものです。科目は経書、兵書武技、史、歴史諸子、典令、詠歌詩文、習書算術暦学、医学、蘭学の九科。朱子学を主体としながら蘭学科を置き、外塾と洋書習学所も設けました。方針は横井小楠の『学校問答』に拠る「学政一致」です。

明治二年に「明新館」と改称して福井城内へ移転し、旧制福井中学校、福井尋常中学校を経て、現在の福井県立藤島高校に続いています。明道館の跡地は福井市大手三丁目で、いまはビルの片隅に小さな石碑が建つだけです。

府中の本多家は「藩」ではありませんでした

越前には、福井藩の家老である本多家が府中(現在の越前市)に領地を持っていました。これがどう扱われたかが、この藩の構造をよく示しています。

明治二年の版籍奉還で諸藩主は華族に列しましたが、当時の本多副元は「福井藩の陪臣であるとの理由で、士族に格づけされてしまった」のです。

これに旧家臣と領民が納得しません。元家老の松本晩翠らを中心に本多家の昇格運動が起こり、明治三年五月に民部省へ越訴して謹慎処分を受け、同年八月七日に武生騒動という打ちこわしに発展しました。府中の本多家は最後まで「藩」ではなく、福井藩の家老の家だった。三十二万石という数字の内側には、こういう関係が入っていました。

なお敦賀藩(鞠山藩)は小浜藩の支藩で酒井家一万石、福井藩とは系統が違います。明治三年九月に本藩の小浜藩へ合併されました。

福井城と、春嶽が名づけた庭

福井城の天守は高さ三十七メートル、四層五階でした(五層ではありません)。築城の完成は慶長十一年(1606年)とされ、藩の中心として十七代・約二百七十年続きます。天守は大火で焼失し、以後再建されませんでした(焼失年を寛永十二年とする記述は広く見られますが、自治体公式や『福井県史』年表では確認できません)。

現在、本丸跡には福井県庁舎が建ち、県警本部などもこの一帯にあります。残っているのは足羽山産の笏谷石で築かれた石垣と堀で、福井県は「本丸の石垣と内堀が四百年以上残っている」としています。

復元と整備はこの二十年で進みました。平成十七年に天守台跡の散策整備と石垣ライトアップ、平成十八年に「福の井」を水深五・七メートルで整備、平成二十年(2008年)三月二十九日に御廊下橋が復元(長さ十四・五メートル、橋脚はクリ材、上屋はヒノキ。明治初期の古写真に基づいて再建)、平成三十年(2018年)三月二十四日に山里口御門が完成。いまは坤櫓の復元プロジェクトが進み、令和九年度の完成が予定されています。

そして養浩館庭園。もとの名は御泉水屋敷で、江戸初期から後期にかけて造られた福井藩主松平家の別邸です。昭和五十七年(1982年)七月二十六日に国の名勝に指定されました。

この庭に「養浩館」という名をつけたのは、明治十七年(1884年)の松平春嶽です。維新後も松平家の所有地でしたが、太平洋戦争の福井大空襲で建造物が焼失し、文政六年(1823年)の「御泉水指図」をもとに整備して平成五年(1993年)に復元・公開されました。幕末の政局のど真ん中に立った人が、隠居してから庭に名前を贈っている。福井で春嶽に一番近い場所は、県庁の建つ本丸跡よりもこの庭かもしれません。

福井県は一度消えています

最後に県の変遷です。ここは少し複雑で、福井県は明治九年から十四年まで存在していません。

明治四年(1871年)十一月、敦賀県(二十三万石)と福井県(五十四万石)が置かれます。ところが同年十二月に福井県は足羽県へ改称。明治六年(1873年)に足羽県は敦賀県へ合併されます。福井県立歴史博物館の講座資料は、その理由として行政手続きの複雑さと「足羽県職員が旧福井藩士で占められていた」ことを挙げています。

そして明治九年(1876年)、嶺南は滋賀県へ、嶺北は石川県へ合併されました。県名としての福井県はここで消えます。

復活は明治十四年(1881年)二月七日、太政官第三号の布告によってです。県庁を足羽郡福井に置くことが同時に布告され、二月六日に石川県から、十二日に滋賀県から「土地人民」の引継ぎを受けました。県令の石黒務が三月二日に福井へ着任し、三月七日に佐佳枝上町の初等師範学校を仮庁舎として開庁しています。石川県内で加賀・能登・越中と越前の議員が対立し、千阪高雅権令が越前・若狭を一県とする分県を打診したことが背景でした。

最後の藩主松平茂昭は、越後糸魚川藩主松平直春の長男で、初名は直廉。天保七年(1836年)生まれで、安政五年(1858年)に春嶽が隠居させられた跡を継いで十七代藩主となり、茂昭と改名しました。春嶽の養嗣子です。明治十七年(1884年)に伯爵、明治二十一年(1888年)に侯爵。明治二十三年七月二十五日没、五十五歳。春嶽もその一か月ほど前、明治二十三年六月二日に六十三歳で亡くなっています。

福井藩をもっと詳しく

本家と分家・親戚の家

結城秀康の子孫は越前の外へも広がり、「越前松平家」とよばれる一門になりました。二代忠直の改易のあと、嫡子光長の家は越後高田藩に移りましたが、越後騒動で改易されます。のちに養子の宣富(長矩)が美作の津山藩主として家を再興し、津山松平家となりました。

忠昌の弟たちの家も、のちに越前を出ていきます。大野藩から始まった直政の家は出雲の松江藩、勝山藩から始まった直基の家は最後は上野の前橋藩、木本藩から始まった直良の家は播磨の明石藩に落ち着きました。松江藩からはさらに広瀬藩・母里藩が分かれています。最後の藩主松平茂昭の実家である越後糸魚川藩(のち清崎藩)も、越前松平家の一門です。

福井藩の内側でも分家が置かれました。松平昌親の吉江藩(二万五千石、今の鯖江市)は、延宝二年(1674年)に兄の光通が亡くなると、その遺言で昌親が本家を継いだため本藩に吸収されました。松平昌勝の松岡藩(五万石)も、享保六年(1721年)に本家の吉邦が亡くなり、その遺命で松岡藩主の昌平(のちの宗昌)が本家を継いだため廃され、福井藩に合わせられています。分家が本家の跡継ぎを出し、そのたびに領地が本家へ戻る、という形がくり返されました。

日本で最初の藩札

福井藩は、藩札の歴史でも名前が出てくる藩です。コトバンクの各辞典は、藩札は寛文元年(1661年)に越前福井藩が発行した銀札が最初だとしています。藩が独自に出す紙幣は、こののち各地の藩に広がり、なかでも銀札が圧倒的に多かったといわれます。幕末に由利公正が藩札を使って生糸の生産者に資金を回した話は本文にありますが、福井藩はそれより二百年ほど前から紙の札を扱っていたことになります。

幕府領の預かり

石高が減ったあとの福井藩は、越前国内の幕府領(天領)を預かって治める役目も負いました。吉邦の時代に十万石あまりの天領を預所として付けられ、宗矩の時代には越前国内の天領すべてが預所になったとされます。幕末には南条郡・今立郡・丹生郡・大野郡・坂井郡の幕府領を管轄していました。

藩主家の子孫・明治以降

茂昭の跡は長男の松平康荘(慶応三年〈1867年〉〜昭和五年〈1930年〉)が継ぎ、二代目の侯爵となって貴族院議員を務めました。康荘はイギリスのサイレンセスター王立農学校で農学を学び、福井城内に農事試験場(松平農試場)を設けて果樹や園芸に取り組んでいます。大日本農会の会頭や帝国農会の会長も務め、明治四十三年(1910年)の日英博覧会には柿の栽培をまとめた英文の資料を出品しました。政治の人だった春嶽の家から、農業の人が出たわけです。三代目の侯爵康昌は宮内省に勤め、内大臣の秘書官などを務めました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の三十二万石のこの藩はおよそ七千五百二十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。戊辰戦争で越後口へ出した二千三十四人は、この目安のおよそ三割にあたります。

参考:Wikipedia「福井藩」「越前松平家」「越前松岡藩」「吉江藩」「松平康荘」、コトバンク「藩札」

場所・アクセス・地図

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    福井の現地を歩いた記録

    福井藩(越前藩)の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の二本です。

    残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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