【現地取材】三春城と三春藩 ― 伊達政宗の妻・愛姫の里、そして「三春狐」の裏切り

福島県三春町、町の中心にそびえる大志多山(おおしたやま)の上に、三春城跡(みはるじょうあと=舞鶴城)があります。その美しい姿から「舞鶴城」とも呼ばれたこの城は、戦国の名族・田村氏――伊達政宗の正室愛姫(めごひめ)の実家の城であり、幕末には秋田氏五万石の居城でした。そして戊辰戦争では、同盟を裏切って新政府軍を先導し、「三春狐(みはるぎつね)」とそしられた城でもあります。東北の戊辰をめぐる現地取材、その締めくくりとして、この城を歩きました。

目次

田村氏の城 ― 伊達政宗の妻・愛姫の里

現地の案内板によれば、三春城は永正元年(一五〇四年)に戦国大名・田村義顕(たむら よしあき)が築いたと伝わる、中世から近世にかけての城です。続日本100名城にも選ばれています。田村氏は義顕・隆顕・清顕(きよあき)と三代続きますが、天正十四年(一五八六年)に清顕が跡継ぎのないまま世を去ります。その一人娘こそ、のちに伊達政宗の正室となった愛姫でした。つまり三春は、独眼竜・政宗の妻の生まれ育った里なのです。城跡には今も「愛姫生誕之地」の碑が静かに建っています。

「愛姫生誕之地」の碑。三春は伊達政宗の正室・愛姫の里
「愛姫生誕之地」の碑。三春は伊達政宗の正室・愛姫の里

秋田氏五万石 ― 江戸期の三春藩

江戸時代に入ると、三春城には松下氏などを経て、寛永二十一年(一六四四年)に秋田俊季(あきた としすえ)が入封します。秋田氏はもと出羽の名族で、以後十一代にわたり明治維新まで三春五万石を治めました。本丸・二の丸・三の丸を階段状に配した山城で、今も本丸跡の石柱や石段、石垣、土塁がひっそりと残り、往時の縄張りをしのばせます。

戊辰戦争 ― 「三春狐」の寝返り

幕末の三春藩は、藩主秋田映季(あきた あきすえ)のもと、当初は奥羽越列藩同盟に加わっていました。ところが、板垣退助・伊地知正治の率いる新政府軍が迫ると、慶応四年(一八六八年)七月二十六日、三春藩は戦わずして降伏します。しかも単に恭順しただけでなく、新政府軍の道案内役として、二本松・会津方面への進撃を助けたとされます。この素早い変わり身が、同盟諸藩から「三春狐」とそしられる由来となりました。

三春の降伏がもたらした影響は小さくありませんでした。隣の二本松藩は孤立を深め、わずか三日後の七月二十九日に落城――少年隊の悲劇が起こります。会津への進撃も一気に早まりました。三春自身は戦火をほとんど免れましたが、その一方で、二本松や会津をはじめ多くの藩の兵に甚大な被害が及ぶ結果となったのです。裏切りと見るか、領民を戦火から守る現実的な決断と見るか――評価の大きく分かれる選択でした。

海の一族がたどり着いた山の城 ― 秋田氏の来歴

三春を五万石で治めた秋田氏は、もとをたどれば津軽・十三湊(とさみなと)を拠点に日本海の交易を握った安東氏の末裔である。当主・実季(さねすえ)の代に「秋田城介(あきたじょうのすけ)」の古い官職にちなんで安東から秋田へと名を改めた、海の一族だった。ところが関ヶ原ののち常陸・宍戸へ移され、さらにその子・俊季(としすえ)の代、正保二年(一六四五)に奥州の山あいのこの地へと入る。潮の香りのする湊の一族が、いくつもの峠を越えて阿武隈の丘陵に城下を構えた――そう思って城山に立つと、三春という土地のたたずまいが少し違って見えてくる。以後、秋田氏は十一代にわたって幕末までこの城を守り続けた。

会津のような大藩でもなく、二本松ほどの構えもない小藩である。だからこそ幕末の三春は、力でどちらかに与するのではなく、藩の生き残りをかけて必死に情勢を読み続けることになる。その難しい舵取りが、のちの「三春狐」という言葉につながっていく。

「三春狐」再考 ― 郷士・河野広中と、もう一つの無血開城

三春は奥羽越列藩同盟をあっさり抜け、新政府軍を城内に招き入れて無血で開城した。同盟に殉じた白河・棚倉・二本松の側から見れば、これはまぎれもない寝返りであり、「三春狐にだまされた」と長く恨まれた。三春の降伏で新政府軍の進路が開け、二本松の孤立と落城、そして会津への進撃が早まったのは事実で、その代償を近隣の藩と兵が払わされたことは、正直に記しておかなければならない。

ただ、城下を歩き、資料館の説明を読むと、この一件が単なる裏切りという一言では片づけられないことも見えてくる。三春にはもともと尊皇の気風が強く、郷士・河野広中(こうの ひろなか)を中心とする一団は、藩が同盟に引きずり込まれる前から新政府への恭順を説いていた。棚倉城が落ちると、彼らは土佐藩の断金隊(だんきんたい)――板垣退助の配下で、隊長は美正貫一郎(びしょう かんいちろう)――と接触し、命がけで談判して三春の尊皇の意を伝えた。小藩が大藩に挟まれて生き延びるための、綱渡りのような選択だったのである。同盟側から見れば裏切り、三春から見れば筋を通した恭順。どちらも本当で、幕末の東北の複雑さがこの小さな城下に凝縮している。

皮肉なことに、三春への攻撃を止めた美正貫一郎は、その判断を「臆病」と疑われ、汚名をそそごうと戦場へ出て命を落とした。彼を悼む思いは、のちに城下の一角に祠として残された。

幕末が育てた自由民権の火 ― 河野広中のその後

三春の物語は、戊辰の開城で終わらない。むしろここからが面白い。恭順に奔走した河野広中は、維新後、この地を舞台に自由民権運動の先頭に立つ人物へと成長していく。板垣退助らの土佐とつながった縁は、そのまま自由と民権を求める思想の水脈となり、三春は東北における自由民権運動の一大拠点となった。広中は明治十五年(一八八二)の福島事件で投獄されながらも屈せず、のちには衆議院議長にまで上りつめる。

幕末に小藩が下したぎりぎりの決断が、次の時代に「民の権利」を叫ぶ運動へとつながっていく。城跡の静けさからは想像しにくいが、この丘のふもとから近代日本を動かす思想がわき上がっていったのだと思うと、三春という土地の奥行きに改めて驚かされる。

城下に残る三春人形と滝桜

三春はまた、素朴で愛らしい郷土玩具の里でもある。城下近くの高柴デコ屋敷では、いまも三春駒(みはるごま)や三春張子(はりこ)の人形が手作りで受け継がれている。黒と赤の勇ましい木馬・三春駒は、子どもの成長を願う縁起物として全国に知られ、日本の郷土玩具を代表する一つに数えられる。城を歩いたあと、こうした人形に出会うと、武家の歴史とはまた別の、この土地に暮らした人々の温もりが伝わってくる。

そして春――三春の名を全国にとどろかせるのが滝桜である。樹齢千年を超えるとされるベニシダレザクラの巨木は、日本三大桜の一つに数えられ、滝のように枝垂れる花の下には毎年おびただしい人が集まる。城が「舞鶴城」と呼ばれた優美なこの町には、桜がよく似合う。戊辰の記憶を胸に静まる城跡と、千年を数える一本桜。三春は、時間の長さの違うものが同じ丘の上で静かに重なり合う、そんな不思議な奥深さを持った城下町だった。

静かな城跡を歩いて

本丸跡の石柱や苔むした石段をたどると、田村氏、愛姫、秋田氏、そして戊辰の寝返りと、幾層もの歴史が積もっているのを感じます。ただ、これほどの物語を秘め、続日本100名城にも選ばれた史跡でありながら、案内や整備はやや控えめで、もう少し手を入れてもよいのではないか――そんな思いも正直よぎりました。それでも、木立に包まれた静かな山上からは、田村地方を見渡す穏やかな眺めが広がり、時代に翻弄されながらも生き残った小さな藩の歩みを、しみじみと思い返す現地取材となりました。

三春城跡(舞鶴城公園)へのアクセス・地図

三春城跡はJR磐越東線・三春駅から少し離れた大志多山にあり、舞鶴城公園として自由に散策できます。日本三大桜のひとつ「三春滝桜」で知られる町でもあります。

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