【現地取材】長浜城跡を歩く——秀吉が免じた年貢三百石は、幕末まで生きていた

近江をまわる旅の最後に、長浜城へ行きました。

正直に書くと、この城には幕末がありません。元和元年に廃城になっていて、江戸時代の大半を通じて城は無い。いま建っている天守も、昭和五十八年の模擬天守です。

ところが本丸跡を歩いていて、一枚の説明板の前で足が止まりました。「旧長浜領境界碑」。そこに書かれていたのは、まぎれもなく幕末まで続いた話でした。

「長浜城本丸跡」の石碑。柵の向こうは手入れされた松と庭である
「長浜城本丸跡」の石碑。柵の向こうは手入れされた松と庭である
目次

秀吉が、初めて城主になった城

ここは羽柴秀吉が初めて一国一城の主になった城です。

浅井氏を滅ぼした功で織田信長から旧領を与えられた秀吉は、それまで今浜と呼ばれていたこの地に城を築き、信長の一字をもらって「長浜」と改めました。

足軽から成り上がった男が、初めて自分の町を持った。——のちの天下人の出発点が、この琵琶湖畔です。

館内の顔ハメ看板。「初代長浜城主 豊臣秀吉」と大きく書かれている
館内の顔ハメ看板。「初代長浜城主 豊臣秀吉」と大きく書かれている

秀吉が去ったあとは、柴田勝家の甥の柴田勝豊、そして山内一豊——のちに掛川城主となり土佐藩の初代となる男です——さらには石田三成も城主をつとめています。

関ヶ原ののち、慶長十一年に内藤信成が駿河府中から入って長浜藩が立藩されました。目的ははっきりしていて、大坂の豊臣秀頼を監視するためです。幕府はこの転封にあたり、長浜城の修築費として白銀五千枚を与えています。

そして元和元年、大坂の陣で豊臣が滅ぶと、信成の子・信正は摂津高槻へ移され、長浜藩は廃藩、長浜城は廃城となりました。——豊臣を見張るための城でしたから、豊臣が消えれば要らないのです。

取り壊された長浜城の資材は、彦根城へ運ばれました。あの天秤櫓は長浜城の大手門を移したものだと『井伊年譜』は伝えています。

——佐和山城も、北ノ庄城も、そして長浜城も。この旅でまわった城は、どれも次の城の材料になっていました。

★ここが幕末 ― 秀吉の免税が、二百八十年続いた

「旧長浜領境界碑」の説明板。長浜という町の性格が、この一枚に凝縮されている
「旧長浜領境界碑」の説明板。長浜という町の性格が、この一枚に凝縮されている

説明板の書き出しは、こうです。

「長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた」

秀吉は自分が初めて城主になった町に、年貢の免除という破格の特権を与えました。そして——ここからが大事なところです。

「この特権は徳川幕府にも認められ」

——徳川は、豊臣を滅ぼしました。大坂城を焼き、秀頼を死なせ、豊臣の名を歴史から消そうとした。この長浜城でさえ、豊臣が消えたとたんに廃城にしている。

それでも、秀吉が長浜の町人に与えた免税だけは、そのまま認めたのです。

つまり長浜の町屋は、江戸時代を通じて、幕末まで、秀吉の恩恵で年貢を免除され続けたということになります。二百五十年以上です。

説明板は続けます。他の地域と区切るための石碑が、江戸時代のはじめに長浜町のまわりに三十数本建てられた。「これより東 長浜領」「これより南 長浜領」——その境界の内と外で、税が違ったわけです。

いま残るのはわずか十余本。もとの位置にあるものは数本だけ。

この石碑が語っているのは、単なる町の境界ではありません。幕末の長浜がなぜ豊かだったかの答えです。

だから、町人が主役の町になった

長浜には有名な曳山祭があります。豪華な曳山の上で、子どもが歌舞伎を演じる。いまはユネスコの無形文化遺産です。

その起源として伝わるのが、秀吉に男子が生まれたとき、町人に砂金を与えた。町人はそれで曳山を作った——という話です。

ただ、これは正直に書いておかなければいけません。この伝説は、史実としては裏づけが取れていません。地元の博物館自身が、そう説明しています。

それでも、この伝説が長く語り継がれてきたことには理由があります。長浜の町人が、江戸時代を通じて秀吉を敬い続けたのです。その背景にあったのが、まさにあの年貢免除の特権だったと考えられています。

——徳川の世で、二百五十年にわたって「豊臣秀吉のおかげ」を実感し続けた町。そんな場所は、日本にそう多くありません。

そして免税されたぶんの富が、町人の文化になった。武士の城が消えたあと、この町を作ったのは町人でした。——だから長浜は、城下町ではなく「町人の町」として幕末を迎えたのです。

幕末の長浜、そして井伊家

曇り空の下の模擬天守。昭和五十八年に建てられた長浜城歴史博物館である
曇り空の下の模擬天守。昭和五十八年に建てられた長浜城歴史博物館である

城が無くなったあとの長浜がどこの支配下にあったかというと、近世を通じて幕府領や彦根藩領などが入り組む土地でした。

ここでまた井伊家が出てきます。

長浜城の大手門は彦根城の天秤櫓になり、佐和山城の石垣も彦根城に運ばれ、そして長浜の町の一部も井伊家の目の届く範囲にあった。幕末の湖北は、どこを掘っても井伊家に行き当たります。

そしてもう一つ。この長浜市内には、国友があります。幕府御用の鉄砲鍛冶の村で、国友一貫斎が作った反射望遠鏡の二号機は、いまこの長浜城歴史博物館に収蔵されています。

——秀吉が初めて持った町に、日本で初めて宇宙を覗いた男の望遠鏡がある。この町は、思っているよりずっと重層的です。

三成のTシャツを買った話

空が晴れてきた午後の長浜城。妻と
空が晴れてきた午後の長浜城。妻と

この日、私は午前中に佐和山に登っていました。完全な山道で、標識も手書き。登りきったころには汗だくになっていました。

そのまま長浜に着いて、売店を覗いたら——石田三成のTシャツがありました。

迷わず買いました。汗をかいた身に、ちょうどよかったのです。

あとから気づいて、少しおかしくなりました。

三成のTシャツを買った場所は、秀吉が初めて城主になった城です。そして三成自身も、一時この長浜城の城主をつとめている。さらにその三成の佐和山城は、井伊家に壊されて彦根城になり、長浜城もまた同じ彦根城の材料になった。

——秀吉と三成と井伊家が、Tシャツ一枚のところで全部つながっている。

こういう偶然があるから、城跡めぐりはやめられません。

歩いてみて

正直、長浜城には「城としての見どころ」はほとんどありません。天守は昭和の建築で、石垣も本丸跡の石碑のまわりに少し残る程度です。

それでも、この城跡は近江の旅の締めくくりとして完璧でした。

安土で信長の摠見寺が嘉永七年に焼けた話を読み、国友で一貫斎の望遠鏡を知り、彦根で井伊直弼の埋木舎を思い、佐和山で汗をかいて、最後にこの長浜で「秀吉の免税が幕末まで続いていた」と知る。

近江という土地は、戦国の話をしているつもりが、いつのまにか幕末に着いてしまうのです。城は壊されて次の城になり、村の鍛冶屋は望遠鏡を作り、町人は三百年前の天下人に感謝し続けていた。

——「幕末に関係ありますか」と聞かれるたびに、私は結局「あります」と答えることになりました。

アクセスと地図

長浜城歴史博物館(長浜城跡・豊公園)/滋賀県長浜市公園町。JR長浜駅から徒歩七分ほど、琵琶湖のほとりです。公園は自由に入れ、本丸跡の石碑と「旧長浜領境界碑」の説明板は無料で見られます。

天守(博物館)は有料で、最上階が展望台になっています。湖と伊吹山、そして竹生島まで見渡せます。国友一貫斎の反射望遠鏡も、ここの収蔵品です。

城跡だけなら三十分。黒壁スクエアの町並みや曳山博物館とあわせるなら半日みてください。車なら国友まで十数分、彦根までは三十分ほどです。

あわせて読みたい

この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「旧長浜領境界碑」
  • 長浜城歴史博物館

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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