新選組の切腹・粛清一覧—局中法度で死んだ隊士は誰だったのか

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新選組は、敵よりも味方を多く斬った—そう言われることがあります。実際、隊の中での切腹や暗殺で命を落とした隊士は少なくありません。この記事では、史料や研究でわかっている範囲で、隊の内部で処断された主な隊士を時代順にまとめます。

目次

そもそも「局中法度」はあったのか

「士道に背くまじきこと」「局を脱するを許さず」—有名な局中法度の五か条は、昭和三年の子母澤寛『新選組始末記』で広く知られるようになりました。当時の記録から、隊に厳しい決まりがあったことはうかがえますが、この五か条がそのままの文言で定められていたかは確かめられていません。

そのため、下の一覧の隊士がみな「法度の何条に違反した」と記録されているわけではありません。理由がはっきりしない死も多く含まれています。

隊の内部で処断された主な隊士

年月日隊士死に方理由とされること場所
文久三年三月二十五日殿内義雄斬殺浪士組の京都残留組の中での主導権争い京都・四条大橋
文久三年四月二十四日家里次郎切腹残留組の主導権争い大坂
文久三年九月(十三日とされる)新見錦切腹局長・副長としての不行跡京都・祇園
文久三年九月(十六日夜・十八日説あり)芹沢鴨・平山五郎暗殺乱暴狼藉壬生・八木邸
文久三年九月二十六日楠小十郎・荒木田左馬之助ほか斬殺長州の間者とされた壬生の屯所
文久三年十二月二十七日野口健司切腹はっきりしない壬生
元治元年九月六日葛山武八郎切腹近藤の非行を訴えた建白の責任を負わされたとも京都
元治二年二月二十三日山南敬助切腹脱走壬生・前川邸
慶応元年(九月とされる)松原忠司死去(切腹説)はっきりしない(心中の話は後の創作とされる)京都
慶応元年七月ごろ(脱走)酒井兵庫斬殺と伝わる脱走不明
慶応二年二月十二日河合耆三郎切腹隊の金の不足などの説西本願寺の屯所
慶応二年四月一日谷三十郎急死(暗殺説あり)はっきりしない京都・祇園社の石段下
慶応二年六月二十三日柴田彦三郎切腹無断の金策と脱走西本願寺の屯所
慶応三年六月十四日茨木司・佐野七五三之助・富川十郎・中村五郎自刃幕臣取り立てへの反発、脱退の願いが通らず京都守護職屋敷(会津藩邸)
慶応三年六月二十二日武田観柳斎斬殺薩摩との内通を疑われた竹田街道・銭取橋のあたり
慶応三年十一月十八日伊東甲子太郎・藤堂平助・服部武雄・毛内有之助斬殺隊を離れた御陵衛士の討伐(油小路事件)油小路七条のあたり

※日付は旧暦(和暦)です。説が分かれるものは「とされる」「説あり」と書いています。名前にリンクのある隊士は、個別のページで詳しく読めます。

時期ごとに見ると

文久三年—主導権争いの年

浪士組が京都に残ったばかりの文久三年は、誰が隊を率いるのかをめぐる争いの年でした。殿内義雄・家里次郎が消され、九月には芹沢鴨・新見錦の一派が除かれて、近藤勇と土方歳三の体制が固まります。同じ月には、長州の間者とされた隊士たちも斬られました。

元治・慶応初め—規律の締めつけ

池田屋事件で名を上げたあと、隊は大きくなり、規律が厳しくなります。近藤を訴えた葛山武八郎、脱走した山南敬助、隊の金を預かった河合耆三郎、無断で金を集めた柴田彦三郎—理由はさまざまですが、隊を乱すと見なされた者は許されませんでした。

慶応三年—思想の分かれ目

慶応三年には、隊の進む道そのものが割れます。幕府の家臣に取り立てられることを拒んだ四人の自刃、内通を疑われた武田観柳斎の暗殺、そして隊を離れた伊東甲子太郎ら御陵衛士を討った油小路事件。尊王の志で集まった隊士たちと、幕府の組織になっていく新選組との食い違いが、血で決着をつけられた年でした。

数字で見る新選組の内部処断

上の一覧に挙げた隊士は、楠小十郎と同じ日に斬られた御倉伊勢武を含めて二十五人です。なお、隊内で斬られたと伝わる佐伯又三郎や田中伊織のように、経緯や日付がはっきりせず一覧に入れていない人もいます。処断された隊士の総数は資料によって変わります。年ごと、死に方ごとに数えると、次のようになります。

年人数おもな出来事
文久三年(1863)9人殿内・家里の排除、芹沢派の粛清、長州の間者とされた者の斬殺
元治元年(1864)1人建白に加わった葛山の切腹
元治二年・慶応元年(1865)3人山南の切腹、松原の死、酒井の脱走
慶応二年(1866)3人河合・柴田の切腹、谷の急死
慶応三年(1867)9人四人の自刃、武田の暗殺、油小路事件
死に方人数
切腹(命じられたもの)7人
自刃(幕臣取り立てを拒んだ四人)4人
斬殺・暗殺12人
死因がはっきりしない2人

ここから分かるのは、処断が隊のはじめと終わりに集中していることです。文久三年と慶応三年の二つの年だけで、十八人にのぼります。一方、池田屋事件から慶応二年までの「隊が大きくなった時期」には、一年に数人ずつ、掟を破った者が処断されています。

二つの山が意味するもの

はじめの山—誰が隊を握るか

文久三年の九人は、ほとんどが派閥争いと間者狩りによるものです。殿内義雄・家里次郎の派、芹沢鴨の水戸派が次々に除かれ、長州の間者とされた者も斬られました。この年の処断は、掟を守らせるためというより、近藤勇と土方歳三が隊を握るための戦いだったといえます。

終わりの山—どこへ向かうか

慶応三年の九人は、隊の進む道をめぐる分かれ目で死んでいます。幕府の家臣になることを拒んだ四人、薩摩に近づいたとされた武田観柳斎、伊東甲子太郎ら御陵衛士。尊王の志を持って集まった人たちが、幕府の組織として生きる新選組と折り合えなくなった年でした。

あいだの時期—規律の維持

二つの山のあいだに処断された人たちは、脱走、無断の金策、隊の金の問題など、隊の掟に関わる理由で死んでいます。隊士が百人を超える大所帯になり、屯所が西本願寺に移ったころです。新しく入った隊士が多い中で、掟を破った者を処断して見せることが、隊をまとめる手段になっていたと考えられます。

処断に関わった隊士たち

処断を実際に行った側の名も、いくつか伝わっています。楠小十郎を斬ったのは原田左之助、野口健司の介錯は安藤早太郎、柴田彦三郎の追っ手には近藤芳助らが加わりました。検視に来た大石鍬次郎に、切腹した佐野七五三之助が斬りかかったという話も残ります。斬る側と斬られる側は、同じ屯所で寝起きした仲間でした。処断の多くは、昨日までの同僚の手で行われたのです。

掟はいつも同じように当てはめられたのか

「隊を抜けた者は切腹」という掟は、新選組の厳しさの象徴としてよく語られます。けれども隊士一人ひとりの歩みを見ていくと、隊を離れながら命を落とさなかった人も少なくありません。

隊士隊の離れ方その後
三浦啓之助脱走佐久間象山の子で、追われることなく明治まで生きる
馬越三郎土方歳三から金を渡されて隊を離れる明治にガラス商になったと伝わる
松本捨助会津で土方から帰るよう命じられる大正まで生きる
谷万太郎兄の死後に隊を離れる大坂で道場を続ける
山南敬助脱走大津で連れ戻され、切腹
柴田彦三郎無断の金策と脱走但馬で捕らえられ、屯所で切腹

こうして並べると、掟の当てはめ方には、隊士の家柄や後ろ盾、隊の中での立場、そして時期が大きく関わっていたことが分かります。天下に名の知られた学者の子は追われず、隊を乱すおそれのある若者は金を渡して去らせ、家を継ぐべき縁者は戦場から帰す。一方で、総長の山南や後ろ盾のない平隊士の柴田は、掟どおりに裁かれました。

とくに山南の切腹は、隊の最高幹部でさえ例外ではないことを隊士たちに示すものでした。掟の厳しさは、すべての隊士に同じように向けられたというより、「ここぞ」という場面で見せしめとして強く働いたと見るほうが、実際の姿に近いのかもしれません。その意味で、新選組の規律は、紙に書かれた条文というより、局長と副長の判断そのものだったといえます。

処断された隊士が眠る場所

処断された隊士の多くは、屯所に近い光縁寺に葬られました。芹沢・平山は壬生寺、河合も壬生寺に墓があります。四人の自刃者と油小路の四人は、のちに御陵衛士ゆかりの戒光寺へ移されました。墓所の違いには、その人が死後どう扱われたかが表れています。詳しくは光縁寺に眠る新選組隊士たち、新選組の墓所めぐりをご覧ください。

あわせて読みたい

新選組をもっと知る本

局中法度や隊内の粛清の話の多くは、子母澤寛の聞き書きと、永倉新八の回想にさかのぼります。

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参考にした資料:子母澤寛『新選組始末記』、永倉新八『新撰組顛末記』『浪士文久報国記事』、宮川信吉書簡、光縁寺の過去帳・墓碑銘にもとづく諸研究。

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