| 中村五郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 下野宇都宮 | ||
| 終焉場所 | 京都 会津藩邸 | ||
| 終焉方法 | 自刃 | ||
中村五郎をもっと深く—十九歳、四人のうちいちばん若い自刃
新選組の幕臣取り立てを拒んで命を絶った四人の中で、いちばん若かった隊士です。
宇都宮から、十七歳で入隊
嘉永二年、下野国宇都宮の生まれです。慶応元年四月、土方歳三・伊東甲子太郎・斎藤一らが江戸で行った隊士募集に応じ、十七歳で新選組に入りました。同年五月十日に京都へ着いています。北辰一刀流を使ったといわれます。
幕臣取り立てを拒む
慶応三年六月、新選組は隊ごと幕府の家臣に取り立てられることになります。中村はこれに反発して隊を離れることを願いますが、認められませんでした。
慶応三年六月十四日
中村は茨木司・佐野七五三之助・富川十郎とともに、京都守護職の屋敷(会津藩邸)で自刃しました。十九歳でした。
中村五郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 嘉永二年(1849) | 下野国宇都宮に生まれる |
| 慶応元年(1865)四月 | 土方歳三・伊東甲子太郎・斎藤一らの江戸での隊士募集に応じる。十七歳 |
| 慶応元年五月十日 | 京都に着く |
| 慶応三年(1867)三月 | 伊東甲子太郎らが御陵衛士として新選組を離れる。中村は隊に残る |
| 慶応三年六月十日 | 新選組の隊士が、隊ごと幕府の家臣に取り立てられることになる |
| 慶応三年六月十四日 | 茨木司・佐野七五三之助・富川十郎とともに、京都守護職の屋敷で自刃する。十九歳 |
中村五郎を読み解く
慶応元年の江戸募集という入り口
慶応元年の江戸での募集は、土方歳三が自ら江戸へ下り、伊東甲子太郎や斎藤一も加わって行われました。伊東は前の年に門弟を連れて入隊したばかりで、北辰一刀流の道場主でした。中村が北辰一刀流を使ったと伝わることを考えると、伊東の縁で入隊した若者だった可能性があります。そうだとすれば、二年後に伊東らが御陵衛士として去ったあと、中村の心が新選組から離れていったのも自然な流れです。流派と入隊の縁については新選組隊士の剣術流派でも整理しています。
十七歳で京へ、十九歳で死ぬ
中村が京都にいたのは、慶応元年五月から慶応三年六月までの、わずか二年あまりです。京都の町は、長州征討をめぐる動きや将軍の上洛で騒がしく、新選組は屯所を西本願寺に移して百人を超える大所帯になっていました。宇都宮から出てきた十代の若者にとって、新選組は尊王攘夷の志を果たす場のはずでした。それが幕府の家臣として組み込まれることになったとき、若い中村はほかの三人と同じ道を選びます。
四人の中の最年少
ともに自刃した四人のうち、天保七年生まれの佐野七五三之助は三十歳を過ぎていました。富川十郎は二十四歳、中村は十九歳です。四人の中では中村がいちばん若く、隊士全体でも、十代で命を落とした隊士はごく少数です。四人が自刃に至った経緯と、その日に何があったのかについての説の違いは、茨木司のページで詳しく検証しています。
はっきりしないこと
中村が宇都宮藩の藩士の家だったのか、町人や農民の出だったのかは、はっきりしていません。自刃の場面についても、本当に自ら命を絶ったのか、斬られたのかをめぐって、いくつかの伝え方があります。
中村五郎と故郷・宇都宮をさらに掘り下げる
天皇陵を直した宇都宮藩
中村の故郷・宇都宮藩には、幕末の朝廷と深くかかわった一面があります。文久二年から、宇都宮藩は荒れていた歴代天皇の陵(みささぎ)を修める「文久の修陵」を幕府に願い出て、その工事を担いました。中心となったのは家老の戸田忠至で、のちに山陵奉行に任じられています。慶応二年末に孝明天皇が亡くなると、その陵の造営にも戸田がかかわりました。
御陵衛士は、その孝明天皇の陵を守ることを名目に新選組から分かれた集団です。宇都宮で育った中村が、天皇陵を守る衛士に心を寄せたとき、故郷の藩が陵を直してきたことを知っていたかどうかは分かりません。ただ、天皇陵という一つのものを通して、中村の故郷と、彼が合流を願った御陵衛士とがつながっているのは、偶然とはいえ興味深い重なりです。
一年後、宇都宮は新選組の戦場になった
中村が京都で命を絶ってから十か月ほどのちの慶応四年四月、宇都宮城は旧幕府軍と新政府軍が奪い合う戦場になりました。旧幕府軍には土方歳三が加わっており、土方はこの戦いで足を撃たれて傷を負っています。中村を江戸で募った当の土方が、中村の故郷で戦っていたことになります。宇都宮からはじまる北関東・会津での戦いは会津の新選組にまとめています。
若い隊士たちの行く末
新選組には、十代で入った若い隊士が何人もいました。土方の小姓として箱館まで従った市村鉄之助や、両長召抱人を務めた田村銀之助はよく知られています。彼らは隊の上に立つ者のそばで働き、戦いのなかで生きのびました。
中村はそれとは違い、自分で考え、自分で道を選ぼうとした若者でした。十七歳で故郷を出て、二年のうちに伊東甲子太郎らの考えに触れ、幕臣となることを拒んだのです。四人の自刃は、年長の茨木司が中心になって動いたと見られることが多いのですが、十九歳の中村もまた、自分の意思でその場に加わっていたのでしょう。
北辰一刀流と伊東の縁
中村が使ったと伝わる北辰一刀流は、江戸の千葉道場を本家とする流派で、伊東甲子太郎や藤堂平助、山南敬助もこの流れをくむ人たちでした。新選組の中心だった天然理心流の試衛館の人たちとは、学んだ剣の出どころが違います。剣の流派は、そのまま人のつながりでもありました。流派の違いが新選組の内側の分かれ目と重なっていたことは、中村の短い生涯からも見えてきます。
中村五郎と関わりの深い人たち
中村五郎のゆかりの地
- 光縁寺(京都市下京区綾小路)—新選組隊士の墓碑が並ぶ寺。
- 宇都宮藩(栃木県宇都宮市)—生まれ故郷。
- 京都守護職屋敷跡(京都市上京区)—自刃した会津藩邸。
- 戒光寺(京都市東山区)—ともに自刃した隊士たちが改葬された寺。
参考にした資料:新選組の名簿類、幕臣取り立てに関する諸研究。
四人の年齢
会津藩邸で命を絶った四人の年齢を並べると、この事件の性格が見えてきます。佐野七五三之助が三十二歳、富川十郎が二十四歳、そして中村五郎が十九歳でした。いちばん年上の佐野が話をまとめる側に立ち、中村はそれに従った最年少だったことになります。
四人はいずれも、慶応元年の江戸での募集に応じて入った隊士でした。入隊からわずか二年で、隊が幕府の家臣になるという変化に直面したことになります。尊王の志をもって入った者にとって、幕臣になることは入隊のときの前提が崩れることでした。十九歳の中村が何を考えて刃を向けたのかは分かりませんが、年上の三人と同じ道を選んだことだけは記録に残っています。
新選組をもっと知る本
中村五郎の名は、幕臣取り立てに反発して自刃した四人としてまとめて語られることが多い人です。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その四人が何に反発したのかを考える材料になります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:中島登(番兵取締)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

