| 富川十郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 甲斐または常陸 | ||
| 終焉場所 | 京都 会津藩邸 | ||
| 終焉方法 | 自刃 | ||
富川十郎をもっと深く—二十四歳、会津藩邸での自刃
新選組が幕府の家臣になることを拒んで命を絶った四人の一人です。
江戸の募集で入隊
天保十五年の生まれで、甲斐国とも常陸国ともいわれます。慶応元年、江戸での隊士募集に応じて新選組に入りました。慶応三年三月に伊東甲子太郎らが御陵衛士として分かれたとき、富川は新選組に残っています。
幕臣取り立てへの反発
ところが同じ年の六月、新選組が隊ごと幕府の家臣に取り立てられることになると、富川はこれに反発し、御陵衛士への合流を願い出ます。しかし衛士と新選組の取り決めで、受け入れは断られました。
慶応三年六月十四日
富川は茨木司・佐野七五三之助・中村五郎とともに、京都守護職の屋敷(会津藩邸)で自刃しました。二十四歳でした。はじめ光縁寺に葬られ、のちに戒光寺へ移されています。
富川十郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保十五年(1844) | 生まれる。甲斐国とも常陸国ともいわれる |
| 慶応元年(1865) | 江戸での隊士募集に応じて新選組に入る |
| 慶応三年(1867)三月 | 伊東甲子太郎らが御陵衛士として分かれる。富川は新選組に残る |
| 慶応三年六月十日 | 新選組の隊士が、隊ごと幕府の家臣に取り立てられることになる |
| 慶応三年六月 | 御陵衛士への合流を願うが、衛士と新選組の取り決めで断られる |
| 慶応三年六月十四日 | 茨木司・佐野七五三之助・中村五郎とともに、京都守護職の屋敷で自刃する。二十四歳 |
| のち | はじめ光縁寺に葬られ、のちに戒光寺へ移される |
富川十郎を読み解く
「残った」のは本心か、密命か
慶応三年三月、伊東甲子太郎らは御陵衛士として新選組を離れました。このとき、伊東に近い考えを持ちながら新選組に残った隊士が何人かいます。富川もその一人でした。富川は伊東から、新選組の内情を探る役目をひそかに命じられていたという説もあります。そうだとすれば、三か月後に衛士へ移ろうとしたのは、役目を終えて合流しようとしたとも読めます。ただし、この密命説を裏づける確かな記録はありません。
閉ざされた二つの道
御陵衛士が新選組と分かれるときには、たがいの隊士を受け入れないという取り決めがあったとされます。富川たちは、幕臣になることを拒んでも、衛士に移ることはできませんでした。新選組を抜ければ脱走として処罰されます。会津藩の京都守護職の屋敷で話し合いが持たれましたが、隊を離れる願いは認められず、四人は自刃しました。どこにも行き場がなくなった末の死だったといえます。ただし死のさまについては、切腹したとする記録と、切腹のあとに斬られたとする記録があり、資料が食い違っています。
葬られた寺が移された意味
四人は、はじめ新選組の隊士が多く眠る光縁寺に葬られました。のちに、御陵衛士の墓がある泉涌寺の塔頭・戒光寺へ移されています。新選組の隊士としてではなく、伊東らと志を同じくした者として弔われたことになります。四人が最期に望んだ場所に、死後ようやくたどり着いたともいえるでしょう。光縁寺の墓碑については光縁寺に眠る新選組隊士たち、四人の自刃の経緯は茨木司のページで詳しく扱っています。
はっきりしないこと
富川の出身地は甲斐と常陸の二説があり、決まっていません。入隊したのが慶応元年のどの募集だったのかも、はっきりしません。
富川十郎の選択をさらに掘り下げる
「幕臣になる」とは何を意味したか
慶応三年六月の幕臣取り立てでは、隊士の格がはっきり決められました。局長の近藤勇は見廻組与頭格として旗本の身分に、副長の土方歳三はそれに次ぐ格に、平隊士も見廻組並として幕府の御家人の身分に取り立てられています。浪士の集まりとして始まった新選組が、名実ともに幕府の家臣の集団になったということです。
多くの隊士にとって、これは出世を意味しました。農民や町人の出の者が、幕府に仕える武士になれるのです。しかし、尊王の志を持って京都に上った者にとっては話が違いました。幕臣になれば、将軍家に仕える身として主君を持つことになります。朝廷のために働きたいという思いと、幕府の家臣になることとが、どうしても結びつかなかった隊士がいたのです。富川ら四人が命を絶ったのは、この取り立てのわずか四日後でした。
四か月後の大政奉還
四人が自刃した慶応三年六月から四か月後の十月、十五代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返しました。大政奉還です。富川たちが拒んだ「幕臣」という身分は、その根っこにある幕府そのものが、まもなく形を変えていくことになります。
もちろん、六月の時点でそれを見通せた者はいません。けれども、あと数か月を生きていれば、富川たちが悩んだ問題はまったく違う姿になっていたはずです。そして十一月には、合流を願った相手の伊東甲子太郎が、油小路で新選組に斬られます。四人の死は、幕末の最後の一年の、めまぐるしい動きのただなかにありました。油小路の夜については油小路事件とはで扱っています。
なぜ御陵衛士は受け入れなかったのか
御陵衛士が分かれるとき、伊東と近藤のあいだでは、たがいに隊士を引き抜かないという取り決めが交わされていたと伝えられます。伊東の側から見れば、ここで新選組の隊士を受け入れれば、近藤に衛士をつぶす口実を与えかねません。分かれたばかりの小さな集団を守るには、約束を守るしかなかったのでしょう。
行き場を失った四人が向かったのが、新選組を預かる会津藩の屋敷でした。新選組を離れることを、隊ではなくその上の会津藩に訴えようとしたのです。ここにも、掟を破って脱走するのではなく、筋道を通して隊を出ようとした四人の考えがうかがえます。
甲斐か、常陸か
富川の出身には甲斐と常陸の二つの説があります。常陸は水戸藩の地で、尊王攘夷の考えがとりわけ強い土地柄でした。もし常陸の出だったとすれば、幕臣になることを拒んだ富川の選択は、生まれ育った土地の気風とつながっていたとも考えられます。ただ、出身が決まっていない以上、これは一つの読み方にとどまります。
富川十郎と関わりの深い人たち
富川十郎のゆかりの地
- 京都守護職屋敷跡(京都市上京区)—自刃した会津藩邸。
- 光縁寺(京都市下京区)—はじめに葬られた寺。
- 戒光寺(京都市東山区)—のちに改葬された寺。
参考にした資料:新選組の名簿類、幕臣取り立てと御陵衛士に関する諸研究。
墓を引き取った人
四人が最初に葬られたのは光縁寺でした。そこから戒光寺へ移したのは、旧御陵衛士の鈴木三樹三郎らだとされます。鈴木は伊東甲子太郎の弟です。生きているうちは御陵衛士に移ることを許されなかった四人が、死後に伊東の弟の手で御陵衛士ゆかりの寺へ迎えられたことになります。
富川は天保十五年の生まれで、亡くなったときは二十四歳でした。慶応元年の江戸での募集に応じて入隊してから、二年ほどで隊の性格が変わり、その変化に耐えられなかった側に立ったわけです。四人のうち最年長の佐野七五三之助は三十二歳、最年少の中村五郎は十九歳でした。
新選組をもっと知る本
会津藩邸で自刃した富川ら四人のことは、隊の内側の記録がなければ埋もれていたはずです。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その種の話を今に伝えてきた二冊です。
※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:殿内義雄(平隊士)
次の隊士 ▶:富山弥兵衛(伍長)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

