| 馬越三郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 阿波徳島 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 不明 | ||
馬越三郎をもっと深く—「美男五人衆」の最年少
「美男五人衆」の一人で、その中でもいちばん若かった隊士です。ある密告がもとで、隊にいられなくなりました。
阿波の出、文久三年に入隊
阿波国徳島藩の出身で、文久三年に新選組に入りました。
武田観柳斎の密会を見た
馬越は、五番隊組長の武田観柳斎が薩摩藩の屋敷から出てくるところを見て、近藤勇に報告したといわれます。これが武田が内通を疑われ、のちに斬られるきっかけの一つになったとされます。
金を渡されて隊を去る
武田の死後、「仲間を売った」という噂が立ち、馬越は隊の中で白い目で見られるようになります。隊の空気が乱れることを心配した土方歳三が、馬越に金を渡して隊を離れさせたと伝わります。
その後はガラス商になったといわれ、明治二十年ごろ、壬生の八木家を訪ねたときも若々しい姿だったと語られています。
馬越三郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 嘉永元年(1848)ごろ | 阿波国徳島藩の出身として生まれる |
| 文久三年(1863) | 新選組(当時は壬生浪士組)に入る |
| 文久三年 | 野口健司の葬儀で、武田観柳斎とともに頼越人を務める |
| 慶応年間 | 武田観柳斎が薩摩藩邸から出てくるのを見て、近藤勇に知らせたといわれる |
| その後 | 「仲間を売った」と白い目で見られ、土方歳三から金を渡されて隊を去る |
| 明治 | ガラス商になったと伝わる |
| 明治二十年(1887)ごろ | 壬生の八木家を訪ねる。二十七、八歳にしか見えなかったと語られる |
馬越三郎を読み解く
「美男五人衆」とは
新選組には、顔立ちのよい若い隊士五人を並べた「美男五人衆」という言い方があります。ふつう挙げられるのは、馬越三郎・山野八十八・楠小十郎・佐々木愛次郎・馬詰柳太郎の五人です。この話は、壬生の八木家の息子・八木為三郎の思い出を、子母澤寛が『新選組物語』などに書き留めたことで知られるようになりました。紫色の着物を着こなし、えくぼのある柔らかな顔だちで、剣の腕も立ったと伝わります。
八木為三郎の証言という手がかり
馬越について分かることの多くは、八木為三郎の語りにもとづいています。八木家は、壬生浪士組が最初に屯所を置いた家です。明治二十年ごろ、隊を離れて二十年ほどたった馬越が、わざわざ八木家を訪ねています。隊での終わり方は苦いものでしたが、壬生で過ごした日々は、馬越にとって懐かしい思い出だったのかもしれません。壬生の屯所については【現地取材】壬生・八木邸で紹介しています。
密告した者も隊にいられない
武田観柳斎は、五番隊組長を務めた軍学者です。薩摩藩に近づいたとされ、のちに隊を離れて斬られました。馬越の知らせは、その疑いを裏づける材料の一つになったといわれます。ところが、知らせた馬越の方も「仲間を売った」と見られ、隊にいられなくなりました。土方歳三が金を渡して穏やかに隊を離れさせたという話が本当なら、隊の空気を乱さないための、土方らしい始末のつけ方だったといえます。脱走が切腹につながった新選組で、無事に隊を離れられたのは珍しい例です。
はっきりしないこと
馬越の生年と没年は「ごろ」としか分かっていません。武田の件も、馬越の知らせがどこまで決め手になったのかは確かめられません。武田観柳斎のページもあわせてご覧ください。
馬越三郎の話をさらに掘り下げる
もう一つの伝え方—武田に言い寄られた話
馬越と武田観柳斎の関係には、じつはもう一つの有名な伝え方があります。男色を好んだ武田が若い馬越に言い寄り、困った馬越が土方歳三に訴え出た、というものです。土方が馬越に金を渡して隊を離れさせたという結末は同じですが、こちらでは「武田から馬越を守るため」という筋になります。
この話は小説やドラマでよく使われ、馬越の名を広めることにもなりました。ただ、後世の創作が混じっている可能性が指摘されています。薩摩藩邸の目撃談と、言い寄られた話。どちらも確かな裏づけはなく、二つが同じ出来事の別の語られ方なのか、別々の話なのかも分かりません。馬越という人物は、ほとんどが「伝わる話」の中にいる隊士なのです。
「美男五人衆」それぞれのその後
美男五人衆に数えられる五人は、そろって若く、そろって幸せな終わり方をしていないようにも語られます。伝わっている話を並べてみます。
| 隊士 | 伝わるその後 |
|---|---|
| 佐々木愛次郎 | 文久三年、恋仲の娘と逃げようとして、隊の者に殺されたと伝わる |
| 楠小十郎 | 文久三年九月、長州の間者として斬られる |
| 馬詰柳太郎 | 父とともに入隊し、のちに隊を抜けたと伝わる |
| 山野八十八 | 鳥羽伏見を戦い、箱館の降伏前に隊を離れる。明治は京都の小学校で用務員として暮らす |
| 馬越三郎 | 土方に金を渡されて隊を離れ、明治にガラス商になったと伝わる |
こうして見ると、五人のうち明治の世を生きたことが伝わるのは、京都で暮らした山野と、商人になったという馬越の二人です。戦いの前に隊を離れた馬越は、五人の中でも早くに刀を置いた一人でした。明治二十年ごろに八木家を訪ねたとき、二十七、八歳にしか見えなかったという話は、戦いの続いた京都の日々を早くに抜け出した人の若々しさだったのかもしれません。
密告した者は、なぜ隊にいられなかったのか
武田観柳斎は慶応三年六月、竹田街道の銭取橋のあたりで斬られたと伝わります。薩摩藩への内通を疑われたためとされます。その後、馬越が「仲間を売った」と見られるようになったのは、新選組の中の、ある矛盾を表しています。
隊は監察を置き、隊士どうしで互いの動きを見張らせていました。裏切りを見つけて知らせることは、隊の決まりのうえでは正しい行いです。ところが、知らせた結果として仲間が斬られると、知らせた者も居づらくなる。見張りによって成り立つ組織の息苦しさが、馬越の身の上にはよく表れています。土方が金を渡して馬越を去らせたのは、隊の空気を守るためであると同時に、馬越自身を守るためでもあったのでしょう。
馬越三郎と関わりの深い人たち
馬越三郎のゆかりの地
- 徳島(徳島県徳島市)—出身の徳島藩。
- 壬生・八木邸(京都市)—明治に訪ねたと語られる八木家。
参考にした資料:子母澤寛『新選組物語』、鈴木亨『新選組99の謎』『再現・新選組』、Wikipedia「馬越三郎」。
二つの伝わり方
馬越が隊を離れた経緯には、二通りの伝え方があります。一つは、武田観柳斎が薩摩藩邸から出てくるのを見て近藤勇に知らせたため、身の危険を避けて隊を離れたという筋です。もう一つは、八木為三郎が後年に語った話で、武田が馬越に執心したことが脱隊のきっかけだったというものです。前者は近年の読み物に見える解釈で、為三郎の証言そのものではありません。同じ出来事が、密告の話と個人の関係の話という別々の形で語り継がれてきたわけです。
入隊したのは十六歳のころで、「美男五人衆」に数えられた五人のなかでも最年少でした。その五人のうち、楠小十郎は入隊の年に斬られ、佐々木愛次郎も非業の死を伝えられています。隊を離れるときに金を渡されて帰されたという馬越の処遇は、同じ年ごろの隊士たちのなかではむしろ穏やかな結末でした。
新選組をもっと知る本
馬越のように短い記録しか残らない隊士を調べると、新選組の名簿がいかに不確かかが分かります。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その不確かさごと伝えてくれる本です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:平山五郎(副長助勤)
次の隊士 ▶:松本捨助(隊長附)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

