| 佐野七五三之助 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 尾張 | ||
| 終焉場所 | 京都 会津藩邸 | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
佐野七五三之助をもっと深く—幕臣になることを拒み、会津藩邸で自刃
新選組が幕府の家臣に取り立てられたとき、それを拒んで命を絶った隊士たちがいました。その一人が佐野七五三之助です。
尾張の神職の家から
天保七年、尾張国海東郡須成村の神職の家の跡取りとして生まれました。父が亡くなったあと、尊王攘夷を志して名を改め、江戸へ出ます。横浜の外国人居留地の警備に当たっていたころ、伊東甲子太郎らと知り合ったといいます。
元治元年十月、新選組に入り、四番組に属しました。
幕臣取り立てへの反発
慶応三年六月十日、新選組は隊士ごと幕府の家臣に取り立てられることになります。尊王の志を持つ佐野たちにとって、それは受け入れられないことでした。佐野らは伊東の御陵衛士に移ろうとしますが、衛士と新選組の間の取り決めで、受け入れは断られます。
慶応三年六月十四日
佐野は茨木司・富川十郎・中村五郎とともに、京都の会津藩邸(守護職屋敷)で切腹しました。三十二歳でした。遺体ははじめ光縁寺に葬られ、のちに伊東らの眠る戒光寺へ移されています。
佐野七五三之助の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保七年(1836) | 尾張国海東郡須成村の神職の家に生まれる。前の名は寺西蔵之丞、諱は重之 |
| 嘉永三年(1850) | 父が亡くなる。のちに尊王攘夷を志して佐野七五三之助と名を改め、江戸へ出る |
| 文久三年(1863)ごろ | 横浜の外国人居留地の警備をしていたころ、伊東甲子太郎・篠原泰之進らと出会う |
| 元治元年(1864)十月 | 新選組に入り、四番組に属する |
| 慶応三年(1867)三月 | 伊東らが御陵衛士として分かれる。佐野は新選組に残る |
| 慶応三年六月十日 | 新選組の隊士が、隊ごと幕府の家臣に取り立てられることになる |
| 慶応三年六月十四日 | 茨木司・富川十郎・中村五郎とともに、会津藩邸で切腹する。三十二歳 |
| のち | 光縁寺に葬られ、鈴木三樹三郎らの手で戒光寺へ移される |
佐野七五三之助を読み解く
神職の家に生まれた尊王の志
佐野は、尾張の神社の神職の家の跡取りでした。神職の家には、朝廷を重んじる尊王の考えが根づいていたことが多く、佐野が若くして尊王攘夷を志したのも、その家柄と無関係ではないでしょう。のちに伊東甲子太郎の考えに共鳴し、幕府の家臣になることを拒んだのも、はじめからの志を最後まで貫いたものだったといえます。
死の場面をめぐる二つの伝え
佐野の最期については、切腹したあと息を吹き返し、検視に来た大石鍬次郎に斬りかかったという話が伝わります。また、切腹ではなく惨殺されたのだとする説もあり、大石に槍で腹を刺し貫かれながら、抜き打ちで大石に手傷を負わせたともいわれます。どちらも確かな記録で裏づけられたものではありませんが、四人の中で佐野の死の場面だけがこれほど激しく語られるのは、佐野の志の強さが仲間の記憶に残っていたからかもしれません。
懐の辞世
佐野は懐に辞世の歌を入れていたと伝わります。つまり、会津藩邸に向かったときには、すでに死を覚悟していたことになります。四人が話し合いの場で追い詰められて衝動的に命を絶ったのではなく、はじめから覚悟を決めて臨んでいたことをうかがわせる話です。
後の総理大臣の叔父
佐野は、大正時代に内閣総理大臣を務めた加藤高明の叔父にあたるといわれます。加藤高明も尾張の出身です。幕臣になることを拒んで死んだ新選組隊士の縁者から、明治以後の日本を率いる政治家が出たことになります。四人の自刃の経緯は茨木司のページで詳しく検証しています。
佐野七五三之助をさらに掘り下げる
須成という故郷
佐野の生まれた尾張国海東郡須成村は、いまの愛知県蟹江町にあたります。須成は、川に浮かべた船を提灯で飾る夏の祭り「須成祭」で知られる土地で、この祭りはユネスコの無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」の一つにも数えられています。神社を中心に村の暮らしが営まれてきた土地で、神職の家の跡取りとして育ったことが、佐野の考え方の土台になったと考えられます。
江戸時代の後半、神職の人々のあいだでは、日本の古い書物を学んで天皇を中心とする国のあり方を説く国学が広く学ばれていました。神職の家から尊王攘夷の志士が出るのは、決して珍しいことではありません。佐野が家を継がずに江戸へ出て、やがて御陵衛士に心を寄せたのも、そうした学びの流れの中にあったといえます。
攘夷の志士が、外国人を守っていた
佐野が伊東甲子太郎や篠原泰之進と知り合ったのは、横浜の外国人居留地の警備に当たっていたころだといいます。横浜は安政六年に開港し、外国の商人や外交官が住む町になっていました。攘夷、つまり外国を打ち払うことを志す者が、その外国人の暮らす居留地を警備していたわけです。
矛盾しているようですが、幕末には、腕の立つ浪士が幕府や藩に雇われて警備の仕事につくことはよくありました。志と暮らしのための仕事とが、いつも一致していたわけではないのです。その警備の場で同じ志を持つ仲間と出会ったことが、佐野を京都へ、そして新選組へと向かわせました。
御三家・尾張藩の選んだ道
佐野の故郷の尾張藩は、徳川家の御三家の筆頭でした。しかし藩主の徳川慶勝は、幕末には朝廷と幕府のあいだを取り持つ立場をとり、戊辰戦争が始まると新政府の側につきます。慶応四年正月には、藩の中の佐幕派を処罰する「青松葉事件」も起きました。
徳川の一門でありながら朝廷の側に立った尾張藩と、幕臣になることを拒んで死んだ尾張出身の佐野。佐野が命を絶ってから半年あまりで、故郷の藩もまた「幕府ではなく朝廷」という道を選んだことになります。佐野の選択は、決して一人だけの思いつきではなく、尾張という土地に流れていた空気ともどこかでつながっていたのかもしれません。
佐野七五三之助と関わりの深い人たち
佐野七五三之助のゆかりの地
- 京都守護職屋敷跡(京都市上京区)—切腹した会津藩邸。
- 光縁寺(京都市下京区)—はじめに葬られた寺。
- 戒光寺(京都市東山区)—のちに改葬された寺。御陵衛士の墓があります。
- 尾張藩領・須成(愛知県蟹江町)—生まれ故郷。
参考にした資料:Wikipedia「佐野七五三之助」、新選組の名簿類。
埋葬の記録と、改葬した人
光縁寺に残る埋葬の記録には「佐野七五三之助 重之 同年六月十四日 伍長 三十二歳」と記されています。名簿では平隊士とされる一方で、この記録は伍長と書いているわけです。役職の記録が一つに定まらないのは、隊の名簿がいくつも作られ、書き手によって扱いが違ったからです。
もう一つ注目したいのは、四人の墓を戒光寺へ移したのが鈴木三樹三郎ら旧御陵衛士だったという点です。鈴木は伊東甲子太郎の弟です。生きているあいだは御陵衛士に移ることを許されなかった四人が、死んだあとで伊東の弟の手によって御陵衛士ゆかりの寺へ迎えられたことになります。願いが叶ったのは、死後だったのです。
新選組をもっと知る本
幕臣に取り立てられることを拒んで自刃した佐野の一件は、隊が組織へ変わっていく過程で起きました。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』を読むと、その変化の重さが分かります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:酒井兵庫(勘定方)
次の隊士 ▶:篠原泰之進(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

