【現地取材】小栗上野介の墓はどこ?東善寺の本墓・普門院の首塚・雑司ヶ谷の累代墓と又一の墓

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この記事は、小栗上野介の「墓」に絞って、なぜ4か所に分かれたのかを解説する記事です。ゆかりの地をまとめて回る順番や移動時間は 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる へ。

小栗上野介の墓はどこにあるのか。小栗上野介忠順をしのぶ場所は、一か所にまとまっていません。群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺、さいたま市大宮区の普門院、東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園、そして神奈川県横須賀市のヴェルニー公園。この記事では、この四つを順にたどり、なぜ場所が分かれたのかを見ていきます。東善寺そのものの歴史や境内の様子は、【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓にまとめています。

東善寺の境内にある小栗又一の供養墓
東善寺の境内に並ぶ供養墓のうち、養子・小栗又一の墓(撮影:佐藤秀信)
目次

小栗上野介の墓はどこ?—先に答え

小栗上野介の墓として最もたしかなのは、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺の裏山にある「本墓」です。斬られたあと館林に葬られた首を、権田村の人たちが取り返し、胴と一緒に葬った墓です。ただし、小栗をしのぶ墓はほかにもあり、養子の又一の墓は別の場所にあります。

場所何の墓か現地取材
東善寺(群馬県高崎市倉渕町権田)上野介の本墓(首と胴)。境内に父子の供養墓と家臣の墓東善寺の現地取材
普門院(さいたま市大宮区大成町)小栗家代々の菩提寺。首を運んだと伝わる首塚(文字のない自然石)普門院の現地取材
雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)小栗家累代之墓。上野介・妻道子・娘國子夫婦の名が刻まれる雑司ヶ谷霊園の現地取材
阿弥陀堂(群馬県高崎市下斎田町)養子・小栗又一の墓。父の翌日に高崎で斬られた又一の墓の現地取材
水沼河原(群馬県高崎市倉渕町水沼)墓ではなく斬首された終焉の地。慰霊碑が建つ水沼河原の現地取材
小栗上野介の墓(東善寺の裏山の本墓)
東善寺の裏山の石段を登った先にある、小栗上野介の本墓(撮影:佐藤秀信)

分かれた理由は、首と胴が別々に扱われたことにあります

慶応四年(1868年)閏四月六日、小栗は烏川の水沼河原で、取り調べのないまま家臣三人とともに斬られました。捕縛の日は、高崎市の公式な記述では閏四月五日で、四日とする資料もあります。

首は翌日、高崎から館林の東山道総督府へ送られ、館林城内で総督の岩倉具定による首実検を受けました。そのあと泰安寺を経て、法輪寺の墓地に埋められています。そして明治二年(1869年)の春、権田村の人たちが法輪寺から首を掘り出し、東善寺で胴を埋めた場所へ運んで、一緒に葬りました。逮捕から首の取り返しまでの経過は、小栗忠順はなぜ斬られたのかで日付を追っています。

権田・東善寺—供養墓と、裏山の本墓

東善寺の境内の墓は群馬県の史跡です。正面に小栗父子の墓があり、その左右に家臣と家族、そして会津で戦死した人たちの墓が五つずつ並んでいます。この供養墓から二、三分登ったところに、本墓があります。村人が胴と首を一つにしたのは、この権田の地でした。

東善寺の入口に立つ「小栗上野介の寺」の標柱
東善寺の入口に立つ「小栗上野介の寺」の標柱(撮影:佐藤秀信)

寺の近くの観音山には、小栗が田畑と用水路を開き、新しい屋敷の普請を進めていた場所が残っています。屋敷は完成しないまま終わり、跡は昭和五十七年に高崎市の史跡となりました。

観音山小栗邸跡の案内板
観音山の頂上に立つ「観音山小栗邸跡」の案内板(撮影:佐藤秀信)

大宮・普門院—首をめぐる、もう一つの伝承

さいたま市大宮区の普門院は、小栗家の江戸での菩提寺の一つです。小栗は権田村へ向かう途中の二月二十八日にここへ参詣しており、永代供養料を納めたと伝わります。

境内には、文字を刻まない自然石の塚があり、首塚と伝えられています。権田で斬られた首を家臣がひそかに持ち出し、住職に託して埋めた、という伝承です。かたわらには小栗家の宝篋印塔もあります。

ただ、首は館林の法輪寺に葬られ、のちに権田村の人たちが持ち帰ったという記録があります。普門院の話は、その記録とは別の筋の伝承です。この記事では、どちらが正しいかを決めずに、二つの話が残っていることを記しておきます。

普門院の小栗上野介の首塚と伝わる自然石
大宮・普門院の首塚を横から見たところ(撮影:佐藤秀信)

雑司ヶ谷—再興された小栗家の累代墓

東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園には「小栗家累代之墓」があります。大正元年(1912年)九月、小栗の娘・国子の婿として家を継いだ貞雄が建てた墓所で、台石と裏面には忠順、ともに斬られた養子の又一、妻の道子、貞夫らの名と略歴が刻まれています。

権田と大宮が「斬られた人」の墓だとすれば、雑司ヶ谷は「絶えずに続いた家」の墓です。会津へ逃れた妻と、そこで生まれた娘のその後は、小栗忠順の遺児はどう生きたかで詳しく書いています。

雑司ヶ谷霊園の小栗家累代之墓
雑司ヶ谷霊園の小栗家累代之墓。上野介・道子・貞雄・國子の名が刻まれる(撮影:佐藤秀信)

横須賀・ヴェルニー公園—墓ではない場所

四つ目は墓ではありません。横須賀製鉄所の跡に近いヴェルニー公園には、小栗忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像が並んでいます。小栗が残した仕事がいまも見える場所です。製鉄所については横須賀製鉄所とはをご覧ください。

なぜ墓がいくつもあるのか—近藤勇の墓と同じこと

東善寺、普門院、雑司ヶ谷、そして又一の下斎田と、今回の旅で四つの墓をめぐって、私は最初、それぞれの場所がどういう思いで「小栗の墓」と伝えてきたのかが不思議でした。けれども考えてみると、新選組の近藤勇の墓も、処刑された板橋のほか、会津や三鷹など各地にあります。

小栗上野介の墓が一つではない理由もここにあります。罪人として斬られた人は、ふつうに墓を建てて弔うことがはばかられました。だからこそ、首を取り返した村人、首塚を守った菩提寺、家を再興した子孫、遺骸をもらい受けた旧領の村人が、それぞれの場所で小栗父子を弔ったのでしょう。墓がいくつもあるのは、それだけ多くの人に慕われていたことの表れだと、現地を歩いて感じました。

普門院の小栗上野介の首塚と伝わる自然石
大宮・普門院の首塚。文字は何も刻まれていない(撮影:佐藤秀信)
雑司ヶ谷霊園の小栗家累代之墓
雑司ヶ谷霊園の小栗家累代之墓(撮影:佐藤秀信)
下斎田の阿弥陀堂にある小栗又一の墓
下斎田の阿弥陀堂にある、養子・小栗又一の墓(撮影:佐藤秀信)

四か所のまとめ

場所所在地何があるか
東善寺群馬県高崎市倉渕町権田父子と家臣らの供養墓(県史跡)、裏山の本墓。胴と首が一緒に葬られた場所
普門院さいたま市大宮区首塚と伝わる自然石の塚、小栗家の宝篋印塔
雑司ヶ谷霊園東京都豊島区大正元年に貞夫が建てた小栗家累代之墓
ヴェルニー公園神奈川県横須賀市小栗とヴェルニーの胸像

首と胴が別々に扱われたこと、首の行方に二つの話が残ったこと、家が再興されたこと、そして横須賀に仕事が残ったこと。この四つが重なって、小栗をしのぶ場所は四か所に分かれています。人物の全体像は小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かにまとめています。

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

小栗忠順をもっと知る本

記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。

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この記事の情報源

現地で見た墓碑・標柱・案内板のほか、高崎市公式ホームページ「小栗上野介忠順終焉の地」「観音山小栗邸跡」、館林市教育委員会の案内板「小栗上野介ゆかりの法輪寺」をもとにしています。首の行方については、当サイトの関連記事で使った資料とあわせて確かめました。

2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

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