小栗上野介忠順をしのぶ場所は、一か所にまとまっていません。群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺、さいたま市大宮区の普門院、東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園、そして神奈川県横須賀市のヴェルニー公園。この記事では、この四つを順にたどり、なぜ場所が分かれたのかを見ていきます。東善寺そのものの歴史や境内の様子は、【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓にまとめています。

分かれた理由は、首と胴が別々に扱われたことにあります
慶応四年(1868年)閏四月六日、小栗は烏川の水沼河原で、取り調べのないまま家臣三人とともに斬られました。捕縛の日は、高崎市の公式な記述では閏四月五日で、四日とする資料もあります。
首は翌日、高崎から館林の東山道総督府へ送られ、館林城内で総督の岩倉具定による首実検を受けました。そのあと泰安寺を経て、法輪寺の墓地に埋められています。そして明治二年(1869年)の春、権田村の人たちが法輪寺から首を掘り出し、東善寺で胴を埋めた場所へ運んで、一緒に葬りました。逮捕から首の取り返しまでの経過は、小栗忠順はなぜ斬られたのかで日付を追っています。

権田・東善寺——供養墓と、裏山の本墓
東善寺の境内の墓は群馬県の史跡です。正面に小栗父子の墓があり、その左右に家臣と家族、そして会津で戦死した人たちの墓が五つずつ並んでいます。この供養墓から二、三分登ったところに、本墓があります。村人が胴と首を一つにしたのは、この権田の地でした。

寺の近くの観音山には、小栗が田畑と用水路を開き、新しい屋敷の普請を進めていた場所が残っています。屋敷は完成しないまま終わり、跡は昭和五十七年に高崎市の史跡となりました。

大宮・普門院——首をめぐる、もう一つの伝承
さいたま市大宮区の普門院は、小栗家の江戸での菩提寺の一つです。小栗は権田村へ向かう途中の二月二十八日にここへ参詣しており、永代供養料を納めたと伝わります。
境内には、文字を刻まない自然石の塚があり、首塚と伝えられています。権田で斬られた首を家臣がひそかに持ち出し、住職に託して埋めた、という伝承です。かたわらには小栗家の宝篋印塔もあります。
ただ、首は館林の法輪寺に葬られ、のちに権田村の人たちが持ち帰ったという記録があります。普門院の話は、その記録とは別の筋の伝承です。この記事では、どちらが正しいかを決めずに、二つの話が残っていることを記しておきます。

雑司ヶ谷——再興された小栗家の累代墓
東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園には「小栗家累代之墓」があります。大正元年(1912年)九月、小栗の娘・国子の婿として家を継いだ貞夫が建てた墓所で、台石と裏面には忠順、ともに斬られた養子の又一、妻の道子、貞夫らの名と略歴が刻まれています。
権田と大宮が「斬られた人」の墓だとすれば、雑司ヶ谷は「絶えずに続いた家」の墓です。会津へ逃れた妻と、そこで生まれた娘のその後は、小栗忠順の遺児はどう生きたかで詳しく書いています。

横須賀・ヴェルニー公園——墓ではない場所
四つ目は墓ではありません。横須賀製鉄所の跡に近いヴェルニー公園には、小栗忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像が並んでいます。小栗が残した仕事がいまも見える場所です。製鉄所については横須賀製鉄所とはをご覧ください。

四か所のまとめ
| 場所 | 所在地 | 何があるか |
|---|---|---|
| 東善寺 | 群馬県高崎市倉渕町権田 | 父子と家臣らの供養墓(県史跡)、裏山の本墓。胴と首が一緒に葬られた場所 |
| 普門院 | さいたま市大宮区 | 首塚と伝わる自然石の塚、小栗家の宝篋印塔 |
| 雑司ヶ谷霊園 | 東京都豊島区 | 大正元年に貞夫が建てた小栗家累代之墓 |
| ヴェルニー公園 | 神奈川県横須賀市 | 小栗とヴェルニーの胸像 |
首と胴が別々に扱われたこと、首の行方に二つの話が残ったこと、家が再興されたこと、そして横須賀に仕事が残ったこと。この四つが重なって、小栗をしのぶ場所は四か所に分かれています。人物の全体像は小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かにまとめています。
この記事の情報源
現地で見た墓碑・標柱・案内板のほか、高崎市公式ホームページ「小栗上野介忠順終焉の地」「観音山小栗邸跡」、館林市教育委員会の案内板「小栗上野介ゆかりの法輪寺」をもとにしています。首の行方については、当サイトの関連記事で使った資料とあわせて確かめました。

