兵庫商社とは——小栗忠順が大坂の豪商二十人に作らせ、半年で消えた組織

兵庫商社は、慶応三年に幕府の勘定奉行・小栗忠順らの建議によって、大坂の豪商たちが元手を出し合って作った組織です。兵庫の開港に間に合わせるように動きはじめ、開港からわずか半月ほどで御用納めを迎え、そのまま二度と店を開けませんでした。存続はおよそ半年です。にもかかわらず、この組織は日本で最初の株式会社と呼ばれることがあります。何を目指して作られ、何ができて何ができなかったのか、確かめられる範囲で追っていきます。

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兵庫開港という、動かせない期限がありました

安政の五か国条約で約束された兵庫の開港は、いったん五年先へ延ばされていました。しかし慶応元年に四国の連合艦隊が大坂湾まで乗り入れて開港を迫り、問題は一気に煮つまります。神戸税関の年表によれば、慶応三年三月五日に徳川慶喜が兵庫開港を奏請し、五月二十四日に開港の勅許がくだりました。五月二十七日には諸方へ開港準備の指令が出され、七月九日には大坂町奉行の柴田剛中が兵庫奉行を兼ねることに決まります。

開港の日は慶応三年十二月七日で、同じ日に兵庫運上所が開きました。開港場に選ばれたのは古くからの兵庫津ではなく、その東の神戸村でした。国土交通省の神戸港湾事務所は、イギリス公使パークスが神戸の入り江のほうが港に適していると判断したためだと説明しています。何もない浜に役宅も波止場も居留地も作らなければならず、しかも期限は目の前にありました。

小栗忠順は、六年前から会社のかたちを考えていました

兵庫商社は思いつきではありません。小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かで触れたとおり、小栗は文久元年の段階で国益会所という構想を建議しており、のちにはフランスと組んで商いをおこなう仕組みも建議しています。土台にあったのは、万延元年遣米使節とはの一行としてアメリカを見て回った経験でした。そこへフランス公使ロッシュが幕政改革を勧める建言を重ね、構想は具体的な形をとっていきます。

小栗の頭にあったのは、個々の商人が外国商館とばらばらに向き合っているかぎり値段を押さえこまれる、という危機感でした。横須賀製鉄所とはで作ろうとしたものが物を作る力だとすれば、兵庫商社で作ろうとしたのは、まとまって売り買いする力です。どちらも、幕府が倒れたあとまで残ることを前提にした投資でした。

慶応三年四月の建議書が出発点です

小栗は慶応三年三月二十五日に将軍慶喜に従って船で上方へ向かい、五月十三日に江戸へ帰っています。建議書が出されたのは、ちょうどその滞在中の四月でした。表題は『兵庫御開港に付、商社取建方並御用途金見込之儀申上候書付』といい、小栗のほかの奉行たちも名を連ねています。ここで見込まれた開港費用は、役宅・運上所・波止場・常夜燈の設備、道路の付け替え、居留地の地ならしなどを合わせて、およそ八十万両から九十万両にのぼりました。

国立国会図書館は、この提案書で商社という言葉がはじめて使われたと紹介しています。小栗がその語に込めた意味は、複数の人から資金を集めて結成された経営体という、きわめて今日的なものでした。組織が実際に動きはじめたのは、同じ年の六月です。

大坂の豪商二十人が、名前を並べました

最初に出資者兼役員として指名されたのは二十人です。頭取は山中善右衛門・広岡久右衛門・長田作兵衛の三人、肝煎が殿村平右衛門・辰己屋久左衛門・平野屋五兵衛・平瀬亀之助・石崎喜兵衛・白山彦五郎の六人、残る十一人が世話役という組み立てでした。名簿には鴻池屋庄兵衛・鴻池屋市兵衛・加島屋作次郎・加島屋重郎兵衛・米屋伊太郎といった屋号が並びます。のちに北風荘右衛門や嘉納治兵衛ら九人が加わりました。

国立国会図書館は、この商社に三井、大坂の鴻池と加島屋、そして兵庫の酒造業者が加わったと記しています。三井については、のちに三野村利左衛門とは何をした人物かで描いた御用金の交渉と同じ時期であることを押さえておくと、幕府と上方商人の距離感がつかみやすくなります。会所は大坂の中之島に置かれました。

元手と金札は、見込みどおりにはいきませんでした

兵庫商社には金札を発行する役目が与えられ、その総額は百万両が見込まれていました。札は百両・五十両・一両・二分・一分の五種と定められています。ところが実際に発行されたのは慶応三年十一月二十二日のただ一度きりで、額もおよそ一万両にとどまりました。開港費用の立て替えにあたる繰替金も、五万二千百五十両を計画しながら、実行できたのは一万一千七百両ほどです。九月十五日には三万両の上納を命じられてもいます。

実際に商社が担ったのは、むしろ物と金の預かり役でした。八月六日には米七千石を預かって入札で売り払い、現金も一万三千九百八十三両あまりを保管しています。肝心の外国貿易は、商社と名乗る以上まっさきに手がけるはずのものでしたが、ついに行われないまま終わりました。研究者が兵庫商社を、輸出入を直営する半官半民の会社で銀行業を兼ねたようなものと評するのは、このいびつな実態を指しています。

半年で消えた理由は、外側にありました

兵庫商社がつまずいた原因は、経営の失敗ではありません。慶応三年十二月九日に王政復古の大号令がくだり、十二月二十五日には江戸で薩摩藩邸が焼き打ちされます。商社が御用納めをしたのは、まさにその十二月二十五日でした。翌年の正月四日を仕事始めと決めていましたが、正月三日に鳥羽・伏見で戦端が開かれ、仕事始めの日は来ませんでした。

開港場そのものも揺れています。神戸税関の年表では、慶応四年正月九日に兵庫奉行の柴田剛中が海路で江戸へ逃れ、兵庫運上所は事実上閉鎖されました。正月十五日には東久世通禧が運上所で外国公使と会い、王政復古を告げています。商社の元手は、突きつめれば幕府の信用でした。その信用が消えた以上、組織だけが生き延びる道はありません。

日本初の株式会社と呼べるのでしょうか

この呼び名には賛否があります。経済史の坂本藤良は、兵庫商社を初期の株式会社のひとつ、あるいは日本の株式会社の原型と呼んでも差し支えないという立場をとりました。いっぽう菅野和太郎は、会社に倣って設立されたけれども実質は会社ではなく、組織から見れば組合であったと断じています。複数の出資者、出資額に応じた配当、頭取以下の役員という骨格はたしかに備えていましたが、それを株式会社と呼ぶかどうかは定義の問題に行き着きます。

そもそも日本最初の候補は一つではありません。慶応元年の亀山社中から続く海援隊を挙げる説、明治二年の通商会社・為替会社を挙げる説、明治六年の第一国立銀行を挙げる説があり、最後のものが最も広く通っています。ですから兵庫商社については、日本で最初の株式会社だと言い切るより、商社という言葉をはじめて使い、株式会社に近い骨格を備えた、きわめて早い例だと述べるほうが正確です。半年で消えた組織が二度と評価の場から消えないのは、その早さのためです。

参考にした資料

  • 国立国会図書館『近代日本人の肖像 幕末・明治初期の商社誕生に関わった人々』
  • 山口大学学術機関リポジトリ『小栗忠順と兵庫商社 組織論の視点から』
  • 神戸税関『神戸税関年表』
  • 神戸市歴史公文書館『神戸市の年表 外国人居留地の形成』
  • 国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所『幕末から明治へ 兵庫津から神戸港へ』
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