2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
国道四百六号、かつての草津街道を高崎から一時間ほどさかのぼると、山あいの集落に出ます。群馬県高崎市倉渕町権田。ここに諏訪山東善寺という曹洞宗の寺があります。訪ねた日は雨でした。参道の石畳が濡れて黒く光り、杉の間を雨足が斜めに走っていました。
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東善寺と小栗家の歴史—先に答え
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1633年(寛永10年) | 東善寺が開かれる |
| 1704年(宝永元年) | 権田村が小栗家の知行地となり、東善寺が小栗家の菩提寺に |
| 1868年3月 | 罷免された小栗忠順が権田村に移り、東善寺を仮住まいとする |
| 1868年閏4月6日 | 小栗が烏川の水沼河原で斬られる。胴は東善寺に葬られる |
| 1869年(明治2年) | 村人たちが館林から首を取り返し、胴とともに葬る |
| 明治〜昭和 | 「逆賊」とされた主の墓を、村人と寺が守り続ける。のちに再評価が進み、胸像や碑が建てられる |
| 現在 | 父子と家臣の墓は群馬県の史跡。境内に記念館 |
小栗家の菩提寺になったのは、宝永元年からです
東善寺の創建は寛永十年(1633年)、開山は円室存察大和尚と伝わります。本尊は釈迦牟尼仏。寺紋は「丸に立波」で、これは旗本小栗家の家紋と同じものです。中興開基が小栗家五代の政信で、権田村が小栗家の知行地になったのは宝永元年(1704年)のことでした。小栗上野介忠順は、その小栗家の十二代にあたります。
つまりこの寺と小栗家の縁は、忠順が生まれるより百二十年ほど前から続いていたものです。江戸で生まれ育ち、遣米使節としてアメリカを見て、横須賀製鉄所を起こした男が、最後に身を寄せた土地は、家が代々知行していた山の村でした。

この寺は、慶応四年の仮住まいでした
慶応四年(1868年)三月、忠順は帰農の許可を得て権田村へ移ります。観音山に家を建てるあいだ、仮住まいとしたのがこの東善寺でした。勘定奉行まで務めた人物が、寺の一間で暮らしていたわけです。観音山の家は上棟の日を待たずに終わりました。
閏四月四日、妻を逃がして、自分は寺へ戻りました
東善寺が伝える日付は具体的です。閏四月三日、忠順と妻の道子は寺を出て権田村亀沢の大井彦八の家に身を寄せます。翌四日、村名主の佐藤藤七に説得されて忠順だけが東善寺へ戻り、道子は村役人の中島三左衛門に託されました。中島は村人で護衛隊を組み、会津を目指します。
一行の道筋も残っています。閏四月六日の夕方に権田村を発ち、坂上村、六合村を経て、野反池から地蔵峠を越え、和山温泉で二泊。反里口、十日町を抜けて四月二十六日の夜に新潟の酒屋陣屋、二十八日の朝に津川、その日の夕方に会津若松の紙問屋「湊屋」へ入りました。二十二日かかっています。そして六月十日、会津戦争の直前、道子は南原の避難所で女児を産みました。国子と名づけられたその子が、忠順の唯一の遺児です。
護衛隊からは二人が戦死しました。佐藤銀十郎、二十一歳。塚越冨五郎、二十三歳。いずれも水有の出身です。生き残った者たちは明治二年の春、道子と国子を静岡まで送り届けたあと、乞食同然の姿で権田村へ帰ったと伝えられます。その後の母子を支えたのが三野村利左衛門であり、のちの大隈重信夫妻でした。母子のその後は小栗忠順の遺児はどう生きたかにまとめています。
閏四月六日、水沼の河原
高崎市の説明はそっけないほど短いものです。閏四月五日に忠順と家臣三人が捕らえられ、何の取り調べもないまま翌六日に水沼川原で斬られた。四十二歳でした。養子の又一は翌七日、高崎城内で家臣三名とともに斬られています(小栗と同じ閏四月六日とする説もあります)。二十一歳でした。なぜ斬られたのかについては、罪状に埋蔵金は入っていません。
烏川のほとり、水沼橋のたもとに碑が立っています。碑文はこうです。
偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる 岳南 蜷川新書
書いたのは蜷川新、法学博士です。道子夫人の妹ハツの息子、つまり忠順の義理の甥にあたります。建立は昭和七年(1932年)。権田村の村民が基金を出し合って建てました。届け出たとき「官軍が罪のない者を斬るはずがない」として高崎警察署長がこの文言を問題視したと伝わりますが、碑文は変えられませんでした。いまは高崎市の史跡に指定されています。昭和五十七年(1982年)四月一日の指定です。
首を取り返した村人たち
斬られた小栗の首は、新政府の東山道総督府があった館林へ送られ、首実検のあと、館林の法輪寺の墓地に埋められました。胴は東善寺に葬られています。主の首と胴が離ればなれのままでは、成仏できない。そう考えた権田村の人たちは、明治2年(1869年)の春、ひそかに館林へ向かい、法輪寺から首を掘り出して持ち帰りました。
この中心にいたのが、村役人の中島三左衛門らだったと伝わります。「逆賊」の首を持ち出すことは、見つかれば罰せられかねない行いでした。それでも村人たちは、首を東善寺に運び、胴と一つにして葬ったのです。
▶ 小栗上野介の首はどこへ運ばれたのか/中島三左衛門とは何をした人物か
「逆賊」の墓を守った150年
明治の世では、小栗は新政府に逆らった「逆賊」でした。その墓に手を合わせることは、公には勧められることではありません。それでも東善寺と権田村の人たちは、墓を守り続けました。小栗が村のために計画した用水路も、村の田をうるおし続けています。
流れが変わったのは、日露戦争のあとでした。横須賀の造船所を始めた小栗の功績が見直され、大正から昭和にかけて、横須賀や倉渕に胸像や碑が建てられていきます。烏川の水沼河原に「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻んだ碑が建てられたのも、昭和のはじめのことでした。
「逆賊」から「近代化の父」へ。その長い道のりのあいだ、墓を守ってきたのは、小栗とわずか2か月あまりをともにしただけの山の村の人たちでした。
▶ 小栗忠順はいつ再評価されたのか/『逆賊の幕臣』の意味とは
墓前の胸像は、横須賀から来ました

墓のそばに胸像が立っています。この像の来歴が、なかなかの話です。
もとは横須賀にありました。大正四年(1915年)の横須賀海軍工廠五十周年式典で職工たちから声が上がり、市を挙げての募金に貞明皇后の御手許金も下賜されて、大正十一年(1922年)九月、朝倉文夫作の青銅像が除幕されます。小栗とヴェルニーの二体でした。ところが第二次大戦中の金属供出で青銅像は持っていかれ、横須賀市は型をとったセメント像を代わりに据えます。そして昭和二十七年(1952年)九月二十七日、内藤春治の手による新しい像が臨海公園、いまのヴェルニー公園で除幕されました。
役目を終えて外されたセメント像を、東善寺の前住職村上照賢が働きかけて横須賀市から譲り受け、権田へ運んで墓前に据えた。それがこの胸像です。造船所を作った人の像が、造船所の町で作り直され、その代役がこの山の中まで来たことになります。

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父子の墓と、裏山の本墓
境内の墓は群馬県の史跡です。昭和二十八年(1953年)八月二十五日の指定。建てたのは明治初年の権田の村人でした。正面に小栗父子の墓、その左右に家臣と家族、そして会津での戦死者の墓が五つずつ並びます。斬った側ではなく、斬られた側の村人が建てた墓です。
そしてこの供養墓から登って二、三分のところに、裏山の本墓があります。遺体と、館林から盗み返してきた首級が埋められている場所です。取り返した首をどこへ納めたか、という話が、これほど具体的な場所として残っている例はそう多くありません。
墓のかたわらには黒椿があります。「崑崙黒」という品種で、忠順が江戸から鉢植えで運んできたものだと伝わります。樹齢は百数十年。椿とシャクヤクは田口十七蔵が買い求め、明治初年に墓のそばへ植えたものだそうです。春になると、黒みを帯びた八重の花が咲きます。
いま、境内に記念館が建っています
東善寺の境内では、小栗上野介記念館の建設が進んでいます。2026年6月11日に地鎮式が行われ、高崎市長が鍬を入れました。国道四百六号に面した境内の一角です。構造は一階がコンクリート造、二階が木造。一階の外壁はナマコ壁、二階の展示室を広くとるために「せがい造り」とし、通風のための越屋根を載せる設計だと寺は説明しています。
そして外壁に掲げる文字のうち「小栗上野介」の五文字は、蜷川新の書を使うことになっています。水沼の河原で「罪なくして此所に斬らる」と書いたあの人の字です。碑が建ってから九十年あまり、同じ筆跡が記念館の看板になる。この土地が忠順をどう扱ってきたかが、その一点によく出ています。
いまの遺品館は手狭で、資料は本堂や庫裡にも分散して置かれています。2026年3月には螺鈿細工の飾棚が寄進され、道子夫人の嫁入り道具の可能性があるとされていますが、断定はされていません。
▶ 拝観料・駐車場・遺品館の見どころなど、くわしい参拝の案内は 【現地取材】東善寺の参拝ガイド へ。
訪ねるときのこと
拝観は八時から十七時まで、受付は十六時三十分まで。拝観料は大人二百円、高校生百円で、遺品館と庫裡・本堂の展示資料が対象です。墓参だけなら無料です。駐車場は四か所あり、乗用車三十台ほどと大型バスにも対応しています。高崎駅からは路線バスで一時間ほど。車なら国道四百六号を室田から湯殿山隧道の先へ進みます。
毎年五月には小栗まつりが開かれ、倉渕体育館での式典と講演、東善寺での昼市、かるた会、墓参、能や演奏会、餅投げが行われます。斬られた日から数えて百五十九回目の年忌が、2026年の五月でした。
ここまで足を運ぶと分かることがあります。小栗上野介という人は、横須賀や江戸城の話として語られることが多いのですが、その最後の三か月とその後を引き受けたのは、この山の村でした。首を取り返したのも村人、墓を建てたのも村人、碑を建てるために金を出し合ったのも村人です。勝海舟との対比や遣米使節の話とは別に、権田にはもうひとつの小栗上野介がいます。
場所・アクセス・地図
諏訪山東善寺(曹洞宗)/群馬県高崎市倉渕町権田一六九。JR高崎駅から群馬バス権田線でおよそ一時間。車は国道四百六号沿い、駐車場あり。境内に小栗公遺品館、群馬県指定史跡「小栗上野介忠順の墓」。裏山に本墓。
あわせて、終焉の地の碑は倉渕町水沼の烏川のほとり、水沼橋のたもとにあります。国道四百六号の信号「倉渕郵便局前」を左折して二百メートルほどです。
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介はどこで生まれたか—生誕地・神田駿河台と、横須賀のゆかりの地を歩く(ヴェルニー公園の胸像と、烏川の河原から運ばれた記念石。神田駿河台の生誕地)
- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。
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小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
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2027年NHK大河ドラマ
『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集
放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。
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