【現地取材】佐倉城と堀田正睦を歩く——「老中の城」に立つ、開国に敗れた宰相と義民の里

幕末の藩を歩いて知ろうと各地の史跡を訪ねていますが、今回は千葉県佐倉市。城下町の風情は残るものの、正直なところ観光地としては地味な部類でしょう。けれど幕末史のうえで、佐倉は決して小さな町ではありません。ここは開国を主導した老中・堀田正睦(ほったまさよし)の城下であり、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた蘭学・洋医学の一大拠点でもありました。さらに、江戸初期の義民・佐倉惣五郎の物語が、幕末の芝居を通じて全国区の伝説へと育っていった土地でもあります。妻とふたり、この“地味だが濃い”城下町を歩いてきました。

目次

佐倉城——石垣を持たぬ「老中の城」

佐倉城は、慶長十五年(1610)に土井利勝が佐倉へ封じられ、翌慶長十六年(1611)から数年がかりで築かれた平山城です。現地の案内板によれば、天文年間(1532〜1552)の中世城郭を原型とし、印旛沼にのぞむ台地の先端に、水堀・空堀・土塁を巧みに組み合わせて築かれました。関東でも珍しく石垣をほとんど用いない“土の城”で、深い空堀と切り立つ土塁が今も生々しく残っています。

この城の性格をひとことで言えば「老中の城」。歴代の佐倉城主のうち、じつに九人が幕府の老中に就いています。江戸の東を守る要衝であると同時に、幕政の中枢を担う譜代大名の城だったのです。天守にあたる三層の櫓は幕末を待たずに失われ、以後は再建されませんでした。今は本丸の一角に「天守跡」の石標が静かに立つのみです。

明治以降、城跡には陸軍の歩兵第二連隊、のちに歩兵第五十七連隊が置かれ、建物の多くが失われました。戦後の昭和58年(1983)に佐倉城址公園として整備され、本丸跡には国立歴史民俗博物館(歴博)が建っています。土塁の上を歩くと、二万石どころではない、十一万石の譜代大名の城の広さが体で分かります。

堀田正睦——開国を主導し、勅許に敗れた宰相

その佐倉藩十一万石を治めた堀田家から、幕末史に決定的な役割を果たす人物が出ます。堀田正睦(1810〜1864)。佐倉藩第五代藩主にして、幕府の老中首座を務めた開明派の宰相です。城址公園の園路には、その堀田正睦公の銅像が凛と立っています。

佐倉城址公園に立つ堀田正睦公の銅像。開国を主導した幕末の老中首座。
佐倉城址公園に立つ堀田正睦公の銅像。開国を主導した幕末の老中首座。

正睦は若くして藩政改革に取り組み、藩校を拡充して成徳書院とし、蘭学を大いに奨励しました。おかげで佐倉は関東における蘭学の拠点として知られるようになります。天保十二年(1841)に老中となり、安政二年(1855)に再び老中へ復帰。安政四年(1857)に阿部正弘が没すると、名実ともに幕閣の最高責任者(老中首座)となりました。

正睦の名を歴史に刻んだのが、アメリカ総領事ハリスとの日米修好通商条約の交渉です。もはや開国は避けられないと見た正睦は、条約調印に向けて動きます。しかし当時、条約への反対論は根強く、正睦は安政五年(1858)、みずから京都へ上って孝明天皇の勅許(朝廷の許可)を得ようとしました。ところが朝廷内の攘夷論に阻まれ、勅許は得られませんでした。開国という時代の必然を掲げながら、正睦は“天皇の許し”という壁の前に敗れたのです。

まもなく井伊直弼が大老に就任すると、正睦は政局から弾き出されます。井伊は勅許を待たずに条約へ調印し、正睦は安政五年六月に登城停止、老中を罷免されました。失意のうちに翌年隠居し、元治元年(1864)、佐倉城の三の丸御殿でその生涯を閉じます。享年五十五。案内板にも「堀田正睦公 逝去の地」と記されていました。銅像の穏やかな面差しの奥に、開国の理想と挫折の両方がにじんでいるようでした。

「西の長崎、東の佐倉」——佐倉順天堂と蘭医学

正睦の開明性が生んだもうひとつの遺産が、佐倉順天堂です。天保十四年(1843)、蘭方医の佐藤泰然が正睦に招かれて佐倉に移り、蘭医学の塾兼診療所「順天堂」を開きました。ここは当時、長崎と並び称される西洋医学の一大中心地となり、「西の長崎、東の佐倉」とうたわれます。

順天堂からは、幕末・維新の医学を担う人材が続々と巣立ちました。泰然の次男・松本良順は長崎で西洋医学を学んで幕府医学所の頭取となり、養子で二代目の佐藤尚中は、明治二年(1869)に新政府の大学東校(のちの東京大学医学部の源流)の実質的な最高責任者となります。そして順天堂そのものは、のちに東京で開かれた順天堂医院を経て、現在の順天堂大学へと連なっていきます。城下町の小さな蘭方塾が、日本の近代医学の礎のひとつになったのです。忠臣や城だけでなく、「学び」の歴史が息づいているのが佐倉の面白さでした。

芝居が全国区にした義民——佐倉惣五郎と宗吾霊堂

佐倉を語るとき、もうひとり忘れてはならない人物がいます。義民佐倉惣五郎(宗吾)です。惣五郎は佐倉藩領・公津村(現在の成田市域)の名主で、藩主堀田正信の重い年貢に苦しむ農民を救おうと、将軍への直訴に及んだと伝えられます。その罪で、承応二年(1653)に処刑されました。宗吾父子の御墓の案内板には「承応二年(1653)八月三日 受刑され、この地に宗吾様と四人のお子様が合葬されております」とあり、幼い子どもたちまで連座したという伝承の重さが胸に迫ります。

では、なぜ江戸初期のこの物語が「幕末」と関わるのか。じつは惣五郎が全国的な英雄になったのは、事件から二百年後の幕末・嘉永四年(1851)のことでした。この年、江戸・中村座で歌舞伎「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」が初演されます。三代目瀬川如皐の作で、四代目市川小團次が惣五郎をモデルにした「浅倉当吾」を熱演。この芝居が大当たりし、佐倉宗吾=義民という伝説が全国に定着したのです。元禄の「赤穂義士」が忠義の物語なら、幕末の舞台が生んだ佐倉宗吾は、権力に抗った“庶民の義”の象徴でした。世直しへの気運がくすぶる幕末の空気と、けっして無縁ではありません。

惣五郎を祀る宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺・成田市宗吾)は、こうして義民信仰の中心地となり、今も「厄除け・大願成就の寺」として多くの参拝者を集めています。面白い因縁もあります。惣五郎が直訴した相手は佐倉藩主・堀田正信でしたが、堀田家はのちに改易と転封を経て、ふたたび佐倉の地に返り咲きました。その同じ堀田家から、幕末の名宰相・正睦が出たのです。義民を生んだ城下に、開国の宰相の銅像が立つ——佐倉は、二百年をまたいで「義」と「政(まつりごと)」が交差する町でした。

最後の藩主・堀田正倫と戊辰戦争

正睦の跡を継いだのが、佐倉藩最後の藩主堀田正倫(ほったまさとも/1851〜1911)です。安政六年(1859)、父の隠居にともない幼くして家督を継ぎました。慶応四年(1868)、鳥羽・伏見の戦いのあと、正倫は徳川慶喜の助命を嘆願しようと上洛を試みますが、新政府に受け入れられず、京都で軟禁されてしまいます。

藩主不在という危機のなか、佐倉藩の舵を取ったのが家老・平野縫殿(ぬい)でした。平野は決然と新政府軍に与し、大多喜方面への出兵に踏み切ります。この素早い恭順によって、佐倉藩は戊辰戦争後の改易をまぬかれました。譜代の名門でありながら、時流を見極めて官軍についた——赤穂や高槻など、多くの譜代小藩がたどったのと同じ、幕末の現実的な選択でした。

版籍奉還で正倫は佐倉藩知事となり、明治四年(1871)の廃藩置県で東京へ移ります。のちに佐倉へ戻った正倫は、農事試験場や学校を支援するなど、地域の農業・教育の振興に力を注ぎました。城を失った殿様が、ふるさとの近代化に静かに尽くした後半生でした。

現地を歩いて——妻と巡った佐倉

忠臣蔵の赤穂や、天守のそびえる有名な城に比べれば、佐倉城址は華やかさこそありません。けれど、石垣のない土塁の道を歩き、正睦の銅像を見上げ、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた蘭学の記憶をたどると、この町が幕末という時代のいくつもの結び目だったことが立ち上がってきます。開国の宰相、洋医学の拠点、そして芝居が育てた義民伝説。妻は宗吾旧宅の素朴な佇まいを気に入り、私は空堀の深さに見入る。同じ史跡でも見ているものが違うのが、二人旅の楽しさです。

佐倉城址公園の入口にて。土塁と樹林が十一万石の城の広さを今に伝える。
佐倉城址公園の入口にて。土塁と樹林が十一万石の城の広さを今に伝える。

派手さはなくとも、幕末の日本が抱えた「開国か攘夷か」「旧秩序か近代か」という問いが、これほど濃密に折り重なった城下町はそう多くありません。歴博とあわせて半日、じっくり歩いてほしい史跡でした。

アクセス(所在地)

佐倉城址公園(国立歴史民俗博物館)は、千葉県佐倉市城内町。京成本線「京成佐倉駅」から徒歩約15分、JR総武本線「佐倉駅」からは徒歩約20分です。堀田正睦像・天守跡・歴博はいずれも園内の徒歩圏内にまとまっています。義民ゆかりの宗吾霊堂・宗吾旧宅は、京成本線「宗吾参道駅」周辺(成田市宗吾)で、佐倉からは少し足をのばした先になります。

※本記事の史実は、佐倉城・堀田正睦・佐倉順天堂・佐倉惣五郎(宗吾)・堀田正倫など、現地案内板および公開資料をもとに確認して記しています。幕末の佐倉藩そのものについては佐倉藩のページもあわせてご覧ください。

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