【現地取材】岩国城と錦帯橋を歩く——六万石を領しながら、幕末まで大名ではなかった吉川家

雨の日でした。錦帯橋の欄干の向こう、山の上に白い天守が見えています。岩国を代表する眺めですが、この天守を幕末の岩国の人びとは見ていません。あのとき、山頂に城はなかったからです。

雨の錦帯橋の欄干越しに見上げた岩国城の天守【幕末歴史ガイド】
錦帯橋の欄干の向こうに岩国城の天守。雨の岩国です

岩国城が山頂に建っていたのは、慶長十三年から元和元年までのわずか七年でした。一国一城令で壊され、そのあと幕府からは石垣も崩すよう命じられています。幕末の岩国が政庁としていたのは麓の御土居で、いまの吉香公園のあたりです。錦帯橋を渡って山を見上げれば天守が目に入る、というこの風景そのものが、昭和になってから生まれたものということになります。

目次

いまの天守は、本来の場所には建っていません

再建されたのは昭和三十七年三月二十一日で、『天守構造図』という絵図をもとに、東京工業大学の藤岡通夫が設計した鉄筋コンクリート造です。四重六階で、上の階が下の階より張り出す南蛮造という形をしています。下から見上げると、白壁の層が途中でせり出しているのがよく分かります。

石垣の下から見上げた雨の岩国城天守と門【幕末歴史ガイド】
石垣の下から。手前の黒い板壁が二の丸側の門にあたります

ただしこの天守は、本来の天守台の上には建っていません。麓から見えるようにするため、位置をずらして建てられました。ずらした距離を約三十メートルとする資料と約五十メートルとする資料があり、方向も南とするものと東とするものがあって、一致しません。位置を動かしたこと自体はどの資料も認めていますので、記事ではそこまでにしておきます。

南蛮造の張り出しが分かる岩国城天守【幕末歴史ガイド】
上の階が下の階より張り出しています。南蛮造と呼ばれる形です

本来の天守台は、地中に埋もれて残っていました。全体の四分の一ほどが土の下にあり、掘り出されたうえで、古式穴太積という石の積み方のまま復元されています。発掘の年は、岩国市の文化財課の説明が平成六年、観光側の説明が平成七年に発掘復元と書いており、数字が揃っていません。調査と復元完了のそれぞれを指しているようにも読めますが、そう明記した資料は見つかりませんでした。

六万石を領しながら、幕末まで大名ではありませんでした

ここからが、この土地の幕末の中心にある話です。岩国藩の吉川家は六万石を領しながら、幕末にいたるまで正式な大名として認められていませんでした。慶長五年の関ヶ原で吉川広家は東軍に内通し、毛利勢を戦いに出しませんでした。戦後、家康は毛利家を取り潰そうとしますが、広家が奔走して毛利家は残り、広家には周防国玖珂郡の三万石が与えられます。のちに六万石を公称するようになりました。

ところが萩の毛利本家は、岩国を支藩として幕府に届け出ませんでした。吉川家は毛利家の家来であり、岩国の地は藩ではなく岩国領である、というのが萩側の立場です。陪臣であるから諸侯ではない、という言い方が残っています。この扱いは制度の上にもはっきり表れていて、吉川家は江戸時代を通じて『武鑑』に名を載せてもらえませんでした。大名の名簿に載らない六万石だったわけです。

参勤交代については、資料の書き方が分かれます。義務を負っていたとするものと、認められなかったとするものがあり、もっとも細かいのは、通常の参勤交代の義務は負わず、将軍家と自家の代替わりのときには必ず参勤し、特別のときには随時参勤した、という国史大辞典の系統の記述です。江戸城で詰めたのは柳間で、外様の中小の大名と同じ部屋でした。江戸に屋敷を持ち、四季の献上も許されています。大名のようでいて大名ではない、という中途半端な位置に、二百六十年あまり置かれていたことになります。

長州藩の支藩は長府藩徳山藩清末藩の三つで、岩国はそこにも入っていません。関係が変わりはじめるのは幕末です。安政三年九月に毛利敬親が経幹を萩へ招いて両家が和解し、文久三年二月には敬親みずから岩国を訪れて、岩国も他の三支藩と同じに扱うと伝えました。

元治元年、経幹が幕府と長州のあいだに立ちました

第一次長州征討のとき、岩国の当主である吉川経幹は周旋役をつとめました。元治元年九月三十日に福岡藩の喜多岡勇平と薩摩藩の高崎五六が岩国に入って交渉が始まり、十月二十一日には高崎から経幹へ、薩摩藩は長州藩のために尽力するという手紙が届きます。十一月四日には西郷隆盛が経幹と会いました。西郷は新港から上陸して、極秘に岩国へ入っています。総督は尾張藩の前の藩主、徳川慶勝でした。

結末は、三家老の切腹でした。十一月十一日に徳山で国司親相と益田親施が、翌十二日には岩国で福原元僴が腹を切っています。場所は当時の龍護寺、いまの清泰院です。同じ十二日、四人の参謀が野山獄で斬られました。十二月五日には長州藩から総督府へ藩主父子の謝罪の文書が出され、戦わずに終わります。経幹はこのときの交渉を『周旋記』に書き残しました。

慶応二年、岩国の川が戦場になりました

第二次長州征討では、岩国そのものが前線になります。芸州口の国境は小瀬川で、川の向こうは広島藩領です。幕府側は広島城に三万の軍勢を集め、彦根藩の五百名が大竹村の大瀧神社へ、高田藩の千名が苦の坂の方面へ進みました。迎える長州側の主力は岩国の兵で、和木村の川岸の竹やぶに陣を敷いています。最初の総指揮を執ったのは経幹でした。

開戦の場面は、いくぶん呆気ないものです。彦根藩の使者である竹原七郎平と曽根佐十郎が小瀬川の中ほどまで進んだところで、対岸から一斉射撃を受けました。長州側は木野村の山を越えて大竹村へ回り込み、彦根の軍を背後から攻めます。彦根軍は総崩れになって小島新開へ退き、高田藩も苦の坂で退けられました。開戦の日については、六月十三日とする資料と六月十四日の未明とする資料があります。そのあとも玖波や大野で激戦が続き、九月二日に宮島で休戦の取り決めがなされました。この戦いで幕府の軍が何に負けたのかは、農民も町人も戦力に変えた——高杉晋作の奇兵隊が破った“戦の常識”にも書いています。

岩国側の戦いの跡は、城下から少し離れたところに残っています。慶応元年から遊撃隊の本陣が置かれた通化寺、小瀬村に駐屯した籌勝院、小瀬川をはさんで築かれた砲台の跡などです。藩主の夫人と古文書は福城寺へ避難していました。

慶応四年三月、諸侯に列しました。本人は一年前に死んでいます

幕府が倒れた年、岩国はようやく藩になります。慶応四年三月十三日、新政府は吉川経幹を城主格の諸侯と認めました。広家の入封から数えて二百六十八年目にして、六万石がはじめて六万石として扱われたことになります。日付については三月十五日とする資料もあり、岩国市の公式の説明は明治元年とだけ書いて月日を示していません。

ただし、この三月に経幹は生きていませんでした。経幹が亡くなったのは慶応三年三月二十日、満三十七歳です。その死は毛利敬親の命によって伏せられ、生きているものとして扱われたまま、死の約一年後に諸侯に列したことになります。従五位下駿河守に叙されたのも死後でした。喪が公にされたのは明治二年三月二十日、亡くなったちょうど二年後の同じ日です。なぜ伏せたのかについては、岩国市の説明も敬親の想いがあったのかもしれない、と推測にとどめており、理由を明記した資料は見あたりませんでした。

跡を継いだ吉川経健が正式に家督を継いだのは明治元年十二月二十八日で、安政二年の生まれですから、このとき十四歳です。戊辰戦争では東北での戦功により、明治二年六月に永世五千石を与えられました。明治四年七月十四日の廃藩置県で岩国県となり、同年十一月十五日に山口県へ入ります。岩国が藩であった期間は、三年半ほどでした。

錦帯橋は、篤姫も渡っています

錦帯橋が架けられたのは延宝元年十月、三代の吉川広嘉のときです。同じ年の六月八日に基礎の鍬入れをしています。翌延宝二年の洪水で石の橋脚が壊れて木橋も落ちましたが、敷石を強くして同じ年のうちに架け直しました。それから二百七十六年のあいだ、この橋は流れていません。

幕末の錦帯橋にまつわる出来事で、日付まではっきりしているものがあります。嘉永六年九月十一日、江戸へ向かう途中の篤姫が錦帯橋の見物を望みました。岩国藩は橋が傷んでいることを理由に断りますが、篤姫の側は先例を引いて重ねて願い出て、結局は通行が認められています。藩の「御用所日記」に残る一件です。のちの天璋院が、大名として認められていない家の橋を渡っていったことになります。

橋が流れたのは昭和二十五年九月十四日の午前九時四十七分でした。前日にキジア台風が岩国を襲い、反り橋に水を入れた桶を置いて重しにするなどの手当をしましたが、間に合いませんでした。架け直しが終わったのは昭和二十七年十二月二十六日で、渡り初めは翌二十八年一月十五日です。平成の架け替えは平成十三年の秋に始まり、平成十六年三月に終わりました。

名勝に指定されたのは大正十一年三月八日です。長さは橋面に沿って二百十メートル、直線では百九十三・三メートル、幅はおよそ五メートル。五連のうち中央の三連がアーチで、両端の二連は桁橋です。よく見かける百九十三メートルという数字は直線距離のほうですので、橋の上を歩く長さとは違います。

北の丸は、いま広場になっています

山頂へはロープウエーで上がります。天守の北には北の丸スクエアと呼ばれる広場があり、雨の日は人もなく、地面はすっかり濡れていました。城が壊されたあとも、この北の丸には石垣と空堀が残っています。

雨の岩国城北の丸スクエアの広場【幕末歴史ガイド】
北の丸スクエア。城が壊されたあとも、このあたりには石垣と空堀が残ります

広場のあたりの道には、木の門が立っています。城郭を扱う記録には山上の大手門の跡に建つ模擬の門だとするものもありますが、岩国市や山口県の公式の説明では確かめられませんでした。ここは分からないままにしておきます。

岩国城の城山に立つ木の冠木門【幕末歴史ガイド】
城山の道に立つ木の門。晴れた日に撮ったものです

山を下りたところに残るもの

御土居の跡である吉香公園の一帯には、幕末につながるものがいくつも残っています。

  • 吉香神社——本殿、拝殿及び幣殿、神門、鳥居が重要文化財(平成十六年十二月十日)。享保十三年の造営で、もとは横山の白山神社の境内にあり、明治十八年に御土居跡へ移されました
  • 旧目加田家住宅——重要文化財(昭和四十九年二月五日)。十八世紀後半ごろの中流武家の住まいで、屋根は岩国にしか残らない二平葺きです
  • 錦雲閣——登録有形文化財(平成十二年二月二十五日)。明治十八年九月九日の建築で、吉香神社の絵馬堂です
  • 旧吉川邸厩門——登録有形文化財(平成十六年七月二十三日)。明治二十五年に経健が建てた長屋門で、桁行は三十メートルあります
  • 香川家長屋門——山口県指定有形文化財(昭和四十一年)。岩国藩の家老であった香川家の表門です
  • 岩国藩主吉川家墓所——山口県指定史跡(昭和六十三年三月二十九日)。初代広家から十二代経幹までの当主と一族の墓が五十一基あります
  • 岩国学校校舎——山口県指定有形文化財(昭和四十四年十二月五日)。明治三年の竣工で、経健が青少年の教育のために建てました

藩校の養老館は、弘化四年に経幹が創建したものです。錦帯橋から吉香公園にかけての一帯は、令和三年十月十一日に「錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観」として重要文化的景観に選ばれました。城山もその範囲に入っています。

陪臣から大名へ、という幕末

六万石を領しながら大名と認められない、という岩国の立場は、幕末の日本にいくつかあった同じ型の話とつながっています。尾張藩の付家老だった成瀬家は慶応四年一月二十四日に独立して犬山藩となり、水戸藩の付家老だった中山家も同じ日に常陸松岡藩になりました。二百六十年以上を旗本として過ごした本堂家が志筑藩になったのは慶応四年七月十四日です。逆に、廃藩置県を待たずに自分から消えた藩もあり、そちらは廃藩置県より前に、自分から消えた藩がありましたにまとめました。身分の枠が外れた瞬間に、それまで押さえられていたものが一度に表へ出た、ということなのだと思います。

岩国の場合は、それを見届けるはずだった当主が、一年前に亡くなっていました。山の上の天守は、その当主も見ていません。

藩としての基礎データは岩国藩のページに、城そのものの解説は岩国城のページにまとめています。

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