【現地取材】吉田城を歩く——安政の大獄をやった老中の子と、「豊橋」という地名の誕生

愛知県豊橋市の吉田城。いまの豊橋公園です。

この城には、幕末の記事を書く者にとってなかなか強烈な事実が二つあります。ひとつは、最後の藩主が、安政の大獄を実行した老中・間部詮勝の実の子だったこと。もうひとつは、「豊橋」という地名そのものが、幕末の後始末から生まれたことです。

本丸に立つ「吉田城」の案内板。豊川に張りつくように城が描かれた絵図が掲げられている
本丸に立つ「吉田城」の案内板。豊川に張りつくように城が描かれた絵図が掲げられている
目次

豊川に背をあずけた城

城の始まりは永正二年、牧野古白が築いた今橋城にさかのぼります。三河の東の端、豊川が海へ出ていく手前の右岸。今川と松平が押し合いへし合いする最前線でした。

永禄八年、この城を落として自分のものにしたのが徳川家康です。家康は城代に酒井忠次を置きました。四天王の筆頭を置いたのですから、三河の東をどれだけ重く見ていたかがわかります。

城が大きく化けたのは天正十八年、池田輝政が十五万二千石で入ってからです。輝政はこの城を総石垣の近世城郭に作り替える大工事を始めました。——ところが関ヶ原ののち、輝政は播磨姫路五十二万石へ栄転してしまいます。あの姫路城を建てた男です。

結果として、吉田城の大改修は未完のまま止まりました。天守は、ついに建てられませんでした。いま本丸に建つ白と黒の櫓は、昭和二十九年に復興された鉄櫓(くろがねやぐら)で、天守ではありません。

本丸北側の石垣。池田輝政の時代に積まれた野面積が、豊川に向かって立ち上がっている
本丸北側の石垣。池田輝政の時代に積まれた野面積が、豊川に向かって立ち上がっている
石垣の裾を回り込む道。城の北側は、そのまま豊川の河岸段丘になっている
石垣の裾を回り込む道。城の北側は、そのまま豊川の河岸段丘になっている

それでも、残された石垣は立派なものです。本丸の北側、豊川に面した斜面には、輝政時代の荒々しい野面積がそのまま立ち上がっている。上から見下ろすと、川面までほとんど垂直です。この城は、豊川という巨大な水堀に背をあずけていた——現地に立つと、それが理屈ではなく地形として飲み込めます。

幕末——安政の大獄をやった男の、息子

江戸期の吉田は、譜代がめまぐるしく入れ替わる城でした。浜松と並んで「出世城」と呼ばれたのは、ここを踏み台に幕閣へ上がる者が多かったからです。寛延二年に松平信復が七万石で入って以降、大河内松平家がようやく腰を落ち着けます。

五代の松平信順は大坂城代・京都所司代を務めたのち、天保八年五月十六日に老中となりました。ところが八月六日には辞職しています。三か月足らず。この家は幕閣に近いのに、なぜか老中の座には縁が薄い。

間部詮勝の子が、吉田へ入る

そして最後の藩主、松平信古(のぶひさ)です。

信古は間部詮勝の次男として生まれ、松平家へ養子に入りました。

間部詮勝——鯖江藩主にして、井伊直弼のもとで安政の大獄の現場を仕切った老中です。安政五年、直弼の命で京へ上り、志士や公卿を片端から捕らえて江戸へ送った。池田屋近江屋を歩けばわかるとおり、幕末の京で流された血の、そのいちばん最初の一滴を用意したのがこの人です。

面白いのは対比です。同じころ、掛川の太田資始は井伊直弼に起用されながら、志士弾圧をめぐって直弼と対立して罷免されました。弾圧に反対して切られた老中と、弾圧を実行した老中。その実行した側の息子が、東海道の吉田七万石を継いだわけです。

信古自身も大坂城代となり、畿内の混乱収拾にあたりました。父と同じ、荒れた上方の火消し役です。

慶応四年、城下は割れた

慶応四年正月、鳥羽伏見で幕府軍が敗れます。

知らせが届くと、吉田藩は佐幕派と尊王派に分裂して抗争を始めました。譜代中の譜代で、当主は安政の大獄をやった老中の実子。それでも家中は割れたのです。遠州横須賀藩伊勢亀山藩も同じように割れましたから、これは東海道筋の譜代小藩に共通する光景でした。

二月、新政府軍が吉田城に迫ります。

ここで動いたのが、隣の御三家尾張藩でした。尾張の徳川慶勝はいち早く新政府側に立ち、東海道筋の諸藩を次々に恭順させて回っていました。その斡旋を受けて、三月、松平信古は上洛して新政府に恭順します。城下は戦火を免れました。

この「尾張藩の斡旋」という一文は、桑名の記事を書いたときにも出てきました。桑名の松平定敬は高須四兄弟の末弟で、その長兄が尾張の慶勝です。兄が新政府側で東海道を平らげ、弟が最後まで戦って蝦夷へ落ちた。吉田はその兄のほうに救われた城、ということになります。

そして「豊橋」が生まれた

復興された鉄櫓を見上げる。天守は最後まで建てられなかった城である
復興された鉄櫓を見上げる。天守は最後まで建てられなかった城である

明治二年六月十七日、版籍奉還によって信古は吉田藩知事となります。

そのわずか二日後、六月十九日に藩の名を「豊橋藩」と改めました。

理由は単純で、伊予にもう一つ「吉田藩」があったからです。宇和島藩の支藩で、こちらも歴とした吉田。同じ名では紛らわしいし、七万石の三河吉田としては面白くない。だから改めた。

新しい名は、豊川に架かる橋——豊橋から取られました。東海道が豊川を渡るその橋の名です。

つまりいまの「豊橋市」という地名は、幕末の後始末として、藩知事が二日で決めた改称に由来しているのです。四十万人が暮らす街の名前が、明治二年六月の二日間から始まっている。私はこれを知ったとき、少し呆気にとられました。

明治四年七月十四日の廃藩置県で豊橋藩は消え、豊橋県、額田県を経て愛知県に編入されます。藩は三年足らずしか続きませんでしたが、名前だけが残ったわけです。

歩いてみて

本丸に建つ鉄櫓。昭和二十九年の復興で、内部は無料公開されている
本丸に建つ鉄櫓。昭和二十九年の復興で、内部は無料公開されている

朝のうちに訪ねました。豊橋公園は市民の日常の場で、犬を散歩させる人や、部活の生徒が普通に横を通っていきます。城跡というより公園で、そこが良いのです。

鉄櫓は小ぶりですが、白壁と黒い下見板のコントラストが引き締まっていて、朝日を受けるとよく映えました。内部は無料公開されていて、吉田城の絵図や出土品が並んでいます。

私が面白かったのは、櫓よりも石垣のほうでした。本丸の北から東へ回り込む道を下りていくと、頭の上に野面積の壁がのしかかってきます。角石だけがきっちり算木に組まれ、あとは自然石を積み上げただけ。四百年、ここを崩さずに支えているのが不思議なくらい荒々しい積み方です。

これまで掛川の二の丸御殿、松坂の御城番屋敷、田中の本丸櫓と、私は現地で見るべきものを三つ続けて見落としてきました。吉田城では、そういう失敗はありませんでした。ここには、そもそも見落とすほど残っていないからです。石垣と土塁と、復興の櫓が一つ。

それでも、この城を歩く価値はあると思いました。天守を建てそこねた城、老中を出しそこねた家、そして最後の当主が安政の大獄をやった男の息子で、隣の御三家に救われて城を明け渡した——吉田城の物語は、栄光ではなくすべて「なりそこねた」ことの積み重ねでできています。

けれど、その最後の最後に、この城は自分の名前を街に残しました。天守は無い。藩も三年で消えた。それでも「豊橋」という名だけが、いまも新幹線の停車駅として日本中に呼ばれ続けている。城の後半生としては、これはこれで大したものではないでしょうか。

アクセスと地図

吉田城跡(豊橋公園)/愛知県豊橋市今橋町。豊橋鉄道市内線(路面電車)の「市役所前」電停から徒歩数分、JR・名鉄の豊橋駅からも歩けます。公園なので出入りは自由で、鉄櫓の内部見学は無料(開館日・時間は要確認)。

見どころは本丸北側の石垣です。川沿いへ下りる道を必ず歩いてください。上から眺めるのと、下から見上げるのとでは、この城の印象がまったく違います。豊川対岸の堤防からは、石垣と鉄櫓を川ごしに一望できます。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「吉田城」

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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