【現地取材】沼田城・沼田藩 ― 真田の五層天守が消えた城と、土岐家の三国峠

群馬県沼田市、河岸段丘の上に広がる沼田公園。紅葉に彩られたその一角に、甲冑姿の武将と、凛とした女性の石像が並んで立っている。真田信之と、その妻・小松姫である。沼田城といえば真田——そう誰もが思うほど、この城は真田氏の物語と分かちがたく結びついている。だが、その真田の城が幕末をどう迎えたのか、意外と知られていない。城の消滅と、その後に入った大名家の歩みまで、たどってみたい。

目次

沼田城の成り立ち ― 真田氏と五層の天守

沼田城は、戦国の世に沼田氏が築き、やがて上州・越後・信濃をにらむ要衝として、上杉・北条・武田・真田が激しく奪い合った城である。最終的にこれを手にしたのが真田氏で、真田昌幸の長男・信之が初代の沼田城主となった。信之は慶長年間に壮大な五層の天守を築いたと伝わる。案内板によれば、関東で五層の天守を持つ城は江戸城とこの沼田城だけであり、天守付近からは金箔瓦も見つかっているという。沼田城が、いかに特別な城であったかがうかがえる。

「沼田城天守」の案内板。真田信之が築いた五層天守は、関東では江戸城とここだけであった
「沼田城天守」の案内板。真田信之が築いた五層天守は、関東では江戸城とここだけであった

真田信利の悪政と改易 ― 城が消えた日

ところが、その名城は江戸前期に思わぬ最期を迎える。信之の孫にあたる真田信利は、寛文二年(一六六二)の検地で、実高三万石ほどの領地を十四万四千石と幕府に過大申告してしまった。見栄からとも、真田本家(松代藩)への対抗心からともいわれる。当然、領民には過酷な重税がのしかかった。そして幕府への用材納入をめぐる失態も重なり、天和元年(一六八一)、信利はついに改易となる。このとき沼田城は幕府によって徹底的に破却され、五層の天守も櫓も、二度と再建されることはなかった。名城は、こうして地上から姿を消したのである。

沼田城本丸堀跡の遺構。城が破却された際、堀には大量の瓦や石が埋められたと伝わる
沼田城本丸堀跡の遺構。城が破却された際、堀には大量の瓦や石が埋められたと伝わる

城なき藩へ ― 本多・黒田・土岐の時代

改易ののち、沼田はしばらく天領(幕府直轄領)となった。やがて元禄十六年(一七〇三)に本多正永が二万石で入って藩が再興され、のちに四万石へ加増される。享保十七年(一七三二)には黒田直邦が三万石で入り、そして寛保二年(一七四二)、土岐頼稔が三万五千石で入封した。以後、土岐家が幕末までおよそ百三十年にわたって沼田を治める。ただし、かつての壮麗な城はすでになく、藩主たちは城跡に置かれた陣屋から領内を治めた。真田の五層天守を知る者にとっては、いささか寂しい時代だったかもしれない。

幕末の沼田藩 ― 土岐家の選択

幕末の沼田藩を率いたのが、土岐家十二代・土岐頼知である。土岐家は会津藩や桑名藩と姻戚関係にあり、本来なら旧幕府方に近い立場だった。ところが戊辰戦争にあたり、頼知は迷いのすえ新政府への恭順を選び、新政府軍の沼田進駐を受け入れた。上州と越後を結ぶ交通の要にあった沼田藩の去就は、北関東の戦局を左右する重みを持っていた。姻戚の情よりも時勢と領民の安全を取った、譜代・外様いずれにも与しきれぬ小藩の、苦渋の決断であった。

三国峠の戦い ― 会津軍との交戦

そして沼田藩は、新政府軍の一員として実際に戦火をくぐる。慶応四年(一八六八)、上州と越後の国境にそびえる三国峠で、会津をはじめとする旧幕府方の軍勢と、沼田・高崎などの新政府方が激突した。「三国峠の戦い」である。険しい峠道での攻防の末、新政府軍がこれを退けた。姻戚である会津の軍勢と、自領の峠で刃を交える——頼知の胸中はいかばかりであったか。この戦いを経て、沼田藩は新政府方としての立場を確かなものとし、明治維新を迎えた。明治四年(一八七一)の廃藩置県で、沼田藩はその歴史を閉じている。

本丸堀跡と平八石を歩いて

いま沼田城の跡は、市民の憩う沼田公園となっている。真田時代の面影を伝えるのが、本丸堀跡だ。案内板によれば、幕府に提出された絵図には堀幅十二間(約二十四メートル)と記され、沼田城で最も大きな堀だったという。破却の際にはおびただしい瓦や石がここに埋められ、発掘調査では三巴紋の軒丸瓦などが出土した。紅葉が水面に映る静かな堀を眺めていると、かつてここに五層の天守がそびえていたことが、まるで夢のように思われた。

紅葉が映る沼田城の本丸堀跡。真田時代の名残をとどめる、城内最大の堀であった
紅葉が映る沼田城の本丸堀跡。真田時代の名残をとどめる、城内最大の堀であった
本丸堀跡の案内板。発掘で出土した三巴紋の軒丸瓦などが図示されている
本丸堀跡の案内板。発掘で出土した三巴紋の軒丸瓦などが図示されている

公園の一角には「平八石」と呼ばれる石も残る。これは幕末よりずっと前、戦国末期の沼田をめぐる悲話にちなむもので、真田氏に沼田を追われた沼田平八郎景義が、城の奪還を試みて謀殺され、その首級が載せられたと伝わる石である。幕末の物語とは時代が異なるが、この城が古くから幾多の人間ドラマの舞台であったことを、静かに教えてくれる。真田、そして土岐——時代ごとに主を替えながら、沼田の丘は今も上州の空の下にたたずんでいた。

「平八石の由来」の案内板。戦国末期、沼田城をめぐって非業の死を遂げた沼田平八郎の悲話を伝える
「平八石の由来」の案内板。戦国末期、沼田城をめぐって非業の死を遂げた沼田平八郎の悲話を伝える

あわせて読みたい:沼田藩の藩史会津藩(三国峠で交戦した相手)/前橋城・前橋藩の現地取材(同じ上州の城)

沼田城址(沼田公園)へのアクセス・地図

JR上越線「沼田」駅からバスまたは徒歩。河岸段丘の上に沼田公園として整備され、本丸堀跡・真田信之と小松姫の像・平八石などが見学できます。

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