慶応4年8月23日(1868年10月8日)の朝、会津若松の城下に早鐘が鳴りひびきました。冷たい雨のなか、新政府軍が滝沢峠をこえて城下へなだれこんできたのです。藩士の家族は荷物をかかえて鶴ヶ城(若松城)の門へ急ぎ、町の人びとは郊外へ逃げまどいました。門が閉まる前に城へ入れなかった藩士の家族も多く、城下のあちこちで悲しい出来事が起こりました。
この日から約1か月、会津の人びとは城にこもって戦いつづけます。銃を手にした山本八重、なぎなたで斬りこんだ中野竹子たち、昼も夜も降りそそぐ砲弾。そして9月22日、城に白旗が上がりました。この記事では、その1か月の籠城を進軍図とイラストで解説します。

会津若松城の籠城戦とは?ひとことで言うと
会津若松城の籠城戦は、城下に攻めこまれた会津藩が、藩士とその家族あわせて約5000人で鶴ヶ城にこもり、新政府軍の包囲と砲撃に約1か月たえぬいたすえに降伏した戦いです。
| 日時 | 慶応4年8月23日〜明治元年9月22日(9月8日に明治と改元) |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国会津郡 若松城(鶴ヶ城)とその城下(現在の福島県会津若松市) |
| 旧幕府方 | 会津藩(藩主松平容保・喜徳父子)、娘子隊(のちの呼び名)、旧幕府の諸隊の一部 |
| 新政府軍 | 薩摩藩・長州藩・土佐藩・大垣藩・佐賀藩など(板垣退助・伊地知正治ら) |
| 兵力(おおよそ) | 城内 約5000人(うち老人・女性・子ども約1000人)/新政府軍は各方面から兵を集めて日を追って増え、包囲を強めた |
| 戦死者 | 籠城戦だけの数ははっきりしない。会津側の戦死者は会津戦争全体で約2400人とも約3000人ともいわれ、自刃した女性は233人という数が伝わる |
| 結果 | 9月22日に会津藩が降伏・開城。会津戦争が終わる |

なぜ会津若松城で籠城戦が起きたのか
「朝敵」とされた会津藩
会津藩主の松平容保は、幕末の京都で京都守護職をつとめ、長州藩や尊王攘夷の浪士たちと激しく対立しました。そのため鳥羽伏見の戦いのあと、新政府から「朝敵」とされます。容保は家督を養子の喜徳にゆずって会津に戻り、謝罪の道をさぐりましたが受け入れられず、奥羽越列藩同盟とともに戦う道を選びました。

母成峠と戸ノ口原がやぶられる
会津藩は、白河口や日光口、越後口など国境の守りに兵を送り出していました。ところが新政府軍は手薄な母成峠をねらい、8月21日にこれを突破します。翌22日には猪苗代湖のほとりの十六橋をわたり、23日の朝には戸ノ口原で会津勢をやぶりました。主力が国境にいるあいだに、敵は城の目の前まで来てしまったのです。白虎隊士中二番隊の少年たちが戦ったのもこの戸ノ口原でした。敗れた少年たちは飯盛山にたどりつき、23日のうちに19人が自刃して亡くなっています(くわしくは「戸ノ口原の戦い」の記事で解説しています)。

城にこもるしかなかった
8月23日の朝、早鐘が鳴ると、藩士の家族は城へ入るよう知らされました。しかし雨のなか敵の進み方は速く、城下は大混乱になります。鶴ヶ城は戦国時代の蒲生氏郷のころから整えられた堅い城で、本丸のまわりを二の丸・三の丸、深い堀と高い石垣がかこんでいました。江戸時代のはじめには加藤明成が北出丸・西出丸を整え、守りをさらにかためています。会津藩はこの城を最後のよりどころとして戦うことになります。

両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府方(会津藩)
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 会津藩 | 松平家 23万石 |
藩主父子のもと城にこもる。日光口から戻った山川大蔵(のちの山川浩)は城内の守りを指揮し、佐川官兵衛は8月29日に城外へ打って出て、その後も城の外で戦いつづける |
| 娘子隊 | 会津藩士の娘・妻 | 中野竹子らの女性たち。人数は20人ほどとも、実際に行動をともにしたのは6〜7人ほどともいわれる。藩の正式な部隊ではない。8月25日、涙橋(柳橋)で新政府軍と戦う |
| 城内の女性たち | 藩士の家族 | 山本八重らが銃をとる。炊き出し、けが人の手当て、弾づくり、砲弾の火消しをになう |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 土佐藩 | 山内家 24万石 |
板垣退助がひきいる。8月23日に城下へ突入し、北出丸の前で大きな損害を受ける |
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
伊地知正治らがひきいる主力。開城の降伏式では中村半次郎(桐野利秋)が軍監として出る |
| 長州藩 | 毛利家 36万石 |
城の包囲に加わる |
| 大垣藩 | 戸田家 10万石 |
城の西側に進み、涙橋で娘子隊と戦ったとされる |
| 佐賀藩 | 鍋島家 35万石 |
新式の大砲を持ちこみ、城への砲撃に加わったとされる |
両軍の条件を比べる
| 会津藩 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 城内約5000人。ただし戦える男は少なく、女性・子ども・老人をふくむ | はじめ数千人、のち各地から集まり大軍となる |
| 武器 | 旧式の銃や大砲が多い。一部にスペンサー銃など新式の銃 | 新式の小銃と、城まで届く大砲を多く持つ |
| 指揮官 | 松平容保・喜徳、家老の萱野権兵衛・梶原平馬、山川大蔵ら | 板垣退助、伊地知正治ら |
| 地の利 | 堀と石垣にかこまれた堅い城。城外の味方とも一時は連絡できた | 城を見下ろす小田山を取り、高い所から砲撃できる |
| 弱み | 食料・弾薬・薬が日に日に減る。同盟の藩がつぎつぎ降伏 | 雪が降る前に決着をつけたい |
戦いの流れ

8月23日朝:城下突入と北出丸の攻防
戸ノ口原をやぶった新政府軍は、滝沢峠をこえて城下の北東にある甲賀町口の郭門にせまりました。ここを守っていた家老の田中土佐と神保内蔵助は防ぎきれず、近くの屋敷で自刃しました。勢いにのった土佐藩兵などは、城の北側の大手口に向かって突き進みます。
そこで待っていたのが北出丸でした。北出丸は大手門の前に突き出した守りの郭で、攻めてくる敵を前と横から撃てるつくりになっています。会津勢はここから激しく撃ちかけ、新政府軍は多くの死傷者を出して退きました。このはげしさから、北出丸は「鏖丸(みなごろしまる)」とも呼ばれたと伝わります。こうして城は一気に落とされることなく、長い籠城が始まりました。
いっぽう城に入れなかった家族のなかには、敵の手にかかるよりはと自ら命を絶った人たちもいました。家老西郷頼母の屋敷では、母や妻、幼い娘たちなど一族21人が自刃したといわれます。

8月25日:涙橋の戦いと中野竹子
8月25日、城の西、越後街道が湯川をわたる柳橋(涙橋)のあたりで、なぎなたを持った女性たちが新政府軍に斬りこみました。中野竹子とその母こう子、妹の優子らで、のちに「娘子隊(娘子軍)」と呼ばれるグループです。竹子たちは23日に城へかけつけたものの門はすでに閉ざされていました。藩主の義姉・照姫が坂下(いまの会津坂下町)へ移ったと聞いてそちらへ向かいましたが会えず、法界寺で一夜を明かしたといわれます。そして旧幕府の衝鋒隊などとともに、若松へ引き返す途中で戦いに加わりました。
相手は長州藩・大垣藩の兵だったとされます。敵は相手が女性と気づいて一時撃つのをためらったともいわれますが、やがて銃撃が始まり、竹子は銃弾を受けてたおれました(額に受けたとも、胸に受けたともいわれます)。数え年22歳でした。首を敵にわたさないよう、妹の優子が介錯し、首は坂下の法界寺に葬られたと伝わります(農民が首を持ち帰ったという説もあります)。竹子のなぎなたには「武士の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」という辞世の歌が結ばれていたといわれます。

8月26日〜:小田山からの砲撃と彼岸獅子の入城
城の南東にある小田山は、城を見下ろすことができる高台です。8月26日ごろ、新政府軍はこの山を占領し、大砲をすえて城を撃ちはじめました。距離はおよそ1.5キロほどで、天守や本丸に砲弾がとどきました。佐賀藩のアームストロング砲も使われたといわれますが、どの砲がどこから撃ったかについては資料によって説明がちがいます。
同じ8月26日、日光口から戻った山川大蔵の部隊が城に入りました。このとき山川は、小松村の彼岸獅子の一行を先頭に立て、笛や太鼓を鳴らしながら堂々と敵のあいだを通りぬけて入城したと伝わります。敵があっけにとられているうちに城へ入ったという話で、城内の人びとを大いに励ましました。

籠城の日々:山本八重と城内の女性たち
城内では女性たちも休まず働きました。その中心になったのが、藩主容保の義理の姉にあたる照姫で、城に入った女性たちをまとめ、けが人の看護や炊事を指図したといわれます。炊き出しのにぎり飯を作り、けが人の手当てをし、鉛をとかして鉄砲の弾を作りました。城に飛びこんできた砲弾には、濡らした布団や布をかぶせて爆発する前に火を消す「焼玉押さえ」を行い、命を落とした人もいたといわれます。
砲術師範の家に生まれた山本八重は、鳥羽伏見の戦いで傷つき亡くなった弟・三郎の着物をまとい、髪を短く切って、スペンサー銃を手に戦いました。夜には城外の敵陣への斬りこみに加わったとも伝わります。また、城内で砲弾のしくみを藩主に説明したという話も残っています。

9月14日:総攻撃
9月に入ると、仲間だった米沢藩が降伏し、仙台藩も降伏に向かいました。会津は孤立していきます。9月14日、新政府軍は城への総攻撃を始めました。50門の大砲がそれぞれ50発ずつ撃ちこんだとも、1日に2000〜2500発の砲弾が城に落ちたともいわれます。天守はいくつもの砲弾を受けて穴だらけになり、時を知らせる鐘撞堂もねらわれました。それでも鐘を鳴らしつづけた、という話が会津には伝わっています。
城の外では会津勢が食料を運びこむ道を守ろうと戦いましたが、包囲はしだいにせばまり、城内の食料も弾薬も残りわずかになっていきました。城そのものは落ちていませんでしたが、同盟の藩はつぎつぎ降伏し、けが人はふえつづけ、外からの助けも望めない。会津藩は、これ以上戦いつづけることのできないところまで追いこまれていたのです。

9月22日:白旗と開城式
米沢藩を通じて降伏をすすめる使いが届き、会津藩は秋月悌次郎らを送って話し合いました。そして明治元年9月22日の午前10時ごろ、北追手門に白旗が上がりました。白い布はけが人の包帯に使い切っていたため、女性たちが布の切れはしを縫い合わせて旗を作ったといわれます。
正午ごろ、城の北の甲賀町通りの路上に、むしろと約4.5メートル四方の緋毛氈(赤い敷物)が敷かれ、降伏式が行われました。松平容保と喜徳は、新政府軍の軍監・中村半次郎に謝罪の書状を差し出しました。式のあと、会津の藩士たちはこの緋毛氈を小さく切り分けて持ち帰り、この日のくやしさを忘れないよう誓ったといいます。これがのちに「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれるものです。
開城の前の夜、八重は三の丸の壁に、かんざしで「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ」という歌を刻んだと伝わります。ただしこの歌には言い回しのちがう形がいくつも伝わっており、古い記録には八重の名がはっきり書かれていないものもあるため、伝承として受けとめておくのがよさそうです。

戦いのあと
藩士の謹慎と萱野権兵衛の切腹
開城の翌日、藩士たちは猪苗代で謹慎し、女性や子どもは城から出されました。容保父子は滝沢村の妙国寺で謹慎したのち東京へ送られます。新政府が戦争の責任者を出すよう求めると、家老の萱野権兵衛がすべてを引き受け、明治2年5月18日に切腹しました。
埋葬と斗南への移住
城下や城のまわりでたおれた会津藩士たちの遺体は、しばらく葬ることが許されなかったといわれ、のちに阿弥陀寺や長命寺などに葬られました。会津藩の領地は取り上げられましたが、のちに松平家の家名を残すことが許され、容保の子・容大(かたはる)に陸奥国の北部で3万石があたえられました。これが斗南藩(いまの青森県東部など)です。多くの藩士とその家族が北の地へ移り住みましたが、やせた土地での暮らしはきびしく、寒さと飢えに苦しみました。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
籠城戦の記録を読んでいると、城を守ったのが「兵」だけではなかったことに気づかされます。にぎり飯を作った人、包帯を巻いた人、濡れ布団で砲弾にとびかかった人。銃を持たなかった多くの人の働きがあって、あの城は1か月もちこたえたのだと感じます。
そのいっぽうで、城に入れずに命を絶った家族や、涙橋で散った中野竹子の話には、やりきれない思いも残ります。「女性も戦った」と勇ましく語られることが多い場面ですが、そこまで追いつめられた人びとの気持ちを想像すると、胸が苦しくなります。
そして泣血氈です。負けた日の敷物を切り分けて持ち帰るというのは、ふつうなら見たくもないものを、あえて手元に置くということです。くやしさを忘れないこと、亡くなった人を忘れないこと。会津の人びとがその後の長い年月を生きぬくための、ひとつの支えだったのではないかと思います。
現地を歩く ― 会津若松城の籠城戦の史跡
- 鶴ヶ城(若松城跡)(福島県会津若松市追手町):再建された天守の中は博物館。北出丸や鐘撞堂跡、天守台石垣に残る砲撃の跡も見られます
- 小田山(会津若松市花見ケ丘):新政府軍が砲台を置いた高台。城を見下ろす位置関係がよくわかります
- 会津戊辰戦争終結の地(降伏式の場所)(会津若松市 甲賀町通り):碑が立っています。そばの会津酒造歴史館で泣血氈が展示されてきましたが、見学の前に展示の有無を確かめると安心です
- 中野竹子殉節之地の碑と涙橋(柳橋)(会津若松市、越後街道の湯川の橋のそば):竹子がたおれたあたりに建つ碑
- 法界寺(河沼郡会津坂下町):中野竹子の墓があります
- 会津武家屋敷(会津若松市東山町):西郷頼母の屋敷を復元し、一族自刃の場面を伝えます
- 阿弥陀寺(会津若松市七日町):戦死した会津藩士たちが葬られた寺


あわせて読みたい
参考にした資料
- 国立国会図書館「錦絵と写真でめぐる日本の名所」コラム「会津戦争」
- 国土交通省 観光庁 多言語解説文データベース「史跡若松城跡/会津戦争と籠城戦」「戊辰戦争と女性」
- 会津若松市「八重のあしあと」鶴ヶ城開城
- 歴史街道(PHP研究所)「会津落城〜その士魂と泣血氈」
- 鶴ヶ城天守閣郷土博物館 展示パンフレット
- 福島県会津若松建設事務所「法界寺(中野竹子の墓)」解説
- 星亮一『会津落城―戊辰戦争最大の悲劇』(中公新書)
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


