鳥取藩/池田家32万5千石:池田慶徳 戊辰戦争では新政府に与し河田左久馬・北垣晋太郎らを輩出した鳥取藩

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鳥取藩の歩み

慶長五年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の後、「池田恒興」の三男(嫡男輝政の弟)の「池田長吉」が六万石で入封し鳥取藩が立藩しました。しかし、元和三年(1617年)嗣子「長幸」の代に備中松山藩に転封となりました。同年播磨国姫路藩より、輝政の子「池田利隆」の嫡男で池田宗家「池田光政」が三十二万石を与えられて入封しました。

鳥取藩/場所・アクセス・地図 池田家32万5千石:池田慶徳 戊辰戦争では新政府に与し河田左久馬・北垣晋太郎らを輩出した鳥取藩【幕末維新写真館】

鳥取池田家は池田本家(岡山藩)の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女「督姫」の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられました。これにより池田家の分家筋が因幡・伯耆国三十二万五千石を治めることとなりました。

因幡国内に藩庁が置かれたため、伯耆国内では「米子城」に城代家老として荒尾氏を置き委任統治を行わせました。また、因幡国内には支藩として鹿奴藩と若桜藩を置きました。幕末最後の藩主で第12代藩主「池田慶徳」は15代将軍「徳川慶喜」の兄であったため、佐幕派・尊王派という中立的な立場をとりました。

鳥取藩の中でも、尊王派と幕府寄りの派の対立は激しいものでした。文久三年(1863年)には、京都の本圀寺で、尊王派の藩士が幕府寄りの重臣を暗殺する本圀寺事件が起きています。翌年の禁門の変では、以前から近い関係にあった長州藩に同調しようとする動きも一部にありましたが、長州が敗れて朝敵とされると、藩はいったん長州から距離を置きました。

明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争では、鳥取藩は新政府軍に加わり、農民の志願兵でつくった山国隊などを率いて各地で戦いました。明治政府には、河田左久馬、北垣晋太郎、原六郎、松田道之らの鳥取藩士が登用されています。明治四年(1871年)の廃藩置県で、鳥取藩は鳥取県となりました。

★藩主は、徳川慶喜の兄だった

鳥取藩の幕末を理解する鍵は、藩主の出自にあります。

幕末の藩主池田慶徳(よしのり)は、水戸藩主徳川斉昭の五男です。そして—最後の将軍・徳川慶喜の、異母兄にあたります。

父は尊皇攘夷思想の総本山というべき水戸の斉昭。弟は最後の将軍。この立場が、鳥取藩の幕末をひたすら難しくしました。

水戸の血を引く以上、尊皇です。しかし弟が将軍である以上、幕府を敵にはできません。—慶徳は生涯、この二つの間で引き裂かれ続けます。

本圀寺党 ― 藩士が藩の重臣を斬った

その矛盾は、藩内でも噴き出しました。

文久三年(1863年)八月、京都に詰めていた鳥取藩の尊攘派藩士たちが、藩の重臣を襲撃して殺害します。彼らが京都の本圀寺に屯していたことから、本圀寺党と呼ばれました。

藩主の慶徳はこれを処罰しきれませんでした。彼ら自身が「水戸の斉昭公のご子息に従っている」という理屈を掲げていたからです。—父の思想が、息子の藩を内側から食い破った形になります。

戊辰戦争では新政府側につき、藩兵を各地に出しています。

そして、朝敵となった男を預かる

戦後、鳥取藩に一つの役目が回ってきました。

降伏した会津藩主・松平容保の身柄を預かることです。

容保もまた、高須四兄弟の一人—藩主の家に養子に入り、家の立場ゆえに退けなくなった人でした。預かる側の慶徳もまた、水戸の血ゆえに動けなかった人です。

—父や兄弟の家柄に人生を決められた二人が、朝敵と監視役として向き合いました。幕末という時代の、あまり語られない一場面だと思います。

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この藩主は、華族令を見ずに死んでいます

神戸で、天皇のお供の途中に亡くなりました

池田慶徳は天保八年七月十三日生まれ。鳥取県の公式サイトは出自をこう書いています—「水戸中納言徳川斉昭の五男五郎麿で、生母は松波春子である。異腹の弟七郎麿は徳川幕府最後の将軍慶喜である」。

そして最期です。明治十年八月、天皇の神戸行幸に供奉中に肺炎にかかり、神戸で死去(鳥取県公式)。四十一歳でした。

ここが効いてきます。華族令が出たのは明治十七年(1884年)です。慶徳はその七年前に死んでいるので、侯爵にも伯爵にもなっていません。実際、辞典類に慶徳の爵位の記載はありません。

対照的なのが隣の岡山です。池田章政は明治三十六年まで生きて、明治十七年に侯爵になっています。同じ池田家の二つの藩で、当主が華族令に間に合ったかどうかが分かれた—維新を生き延びることと、明治の身分を得ることは別だったわけです。→ 岡山藩

十八歳で、幕府の条約に異議を出しています

慶徳の政治的な出発点は早いものでした。鳥取県公式によれば、安政元年(1854年)に幕府が日米和親条約を締結したことに対して、「十八歳の青年藩主慶徳は、攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を提出し、攘夷論者として中央政界に参画する」。

その後の身の振り方を、世界大百科事典は一語で表しています—「大政奉還論を唱えるなど動揺した」。水戸の血を引いて攘夷を掲げ、弟が将軍になり、そして大政奉還を唱える。藩主として選べる道がどれも自分に返ってくる立場でした。明治二年二月には新政府の議定に任ぜられています。

鳥取池田家に入ったのは嘉永三年(1850年)十月。前任の十一代慶栄が初めての国入りの途中、京都伏見で十七歳で死去し、幕命によって慶徳が養子に入って家督を継ぎました。

三歳の子と三十二万石を交換した家です

そもそも池田家が鳥取にいる理由が変わっています。

鳥取県公式の年譜はこう書きます。池田忠雄が三十一歳で死去し、その第一子 光仲が三歳で父の遺領 備前岡山を継ぐが、「幼少により池田光政と国替」、因幡・伯耆両国三十二万石を領して鳥取城主となる。寛永九年(1632年)、三歳の子どもには岡山は任せられないという判断で、山陽と山陰が入れ替わったのです。

石高はその後、貞享二年に弟の仲澄へ新墾田二万五千石、元禄十三年に清定へ一万五千石を分与して三十二万五千石という表記になります(ブリタニカ)。入封時は三十二万石でした。家格は外様で詰席は大広間ですが、光仲が徳川家康の外曾孫だったことから親幕的な性格を保ち、代々「松平」を称しました。

幕末の物証は、海岸に残っています

既存の記事では触れていないものを一つ挙げます。鳥取藩台場跡です。

鳥取県公式によれば、文久二年(1862年)から三年間という短期間で台場を造り始め、藩内九か所に築造しました。現存は六か所—浦富(岩美町)、橋津、由良(北栄町)、赤崎(琴浦町)、淀江、境(境港市)で、うち五か所が国の史跡です。長崎で西洋砲術を学んだ郷士武信潤太郎が関わりました。

そのうち由良台場は、北栄町公式が「1864(文久4)年、海岸防備のため、鳥取藩で最初に築造された砲台場です」とし、昭和六十三年に国史跡となっています。鳥取県立博物館はこれを「フランス式」としています。

慶徳は藩校の拡張と軍制改革を進めた人でもありました(鳥取県立博物館)。京都で動揺していた藩主の、もう一つの仕事が海岸線に土として残っている—台場は幕末の鳥取を歩くときの目印になります。

戊辰の到達点が、岡山とは違います

鳥取藩兵の転戦について、鳥取市歴史博物館の図録の紹介文が範囲を示しています—「鳥羽・伏見の戦いから甲州勝沼戦争、野州安塚・宇都宮戦争、上野戦争などを経て北越・奥州戦争に至る」。

ここに箱館は挙がっていません。岡山藩が明治二年五月十一日の五稜郭総攻撃まで参加したことが記録されているのに対し、鳥取藩の箱館出兵はわかっていません。同じ池田家で、同じ新政府側に付いて、終着点が違ったことになります。兵数と戦死者数はどちらも公表資料に見つかりませんでした。

藩士の側では河田左久馬と北垣国道(旧名 晋太郎)が出ています。文久三年の本圀寺事件について、鳥取県公式は「因藩二十二士」、島根県の観光公式は「因幡二十士事件」と、呼び方が分かれています。鳥取県公式は「自害、行方不明となった2名を除いた20名が、日野郡日野町黒坂に幽閉されました」とし、殺害された重臣を「五烈士」と呼びます。いっぽう島根県公式は「重臣4名を襲撃し、3名を殺害」としており、人数が合いません。二十二名のうち二名が欠けて「二十士」になった、という数の由来だけは共通しています。

巻石垣は、鳥取市公式が「全国唯一」と書いています

鳥取城の見どころについて、称号の出どころが明確なものがあります。天球丸の巻石垣です。鳥取市の公式ウェブサイトが「全国唯一の『巻石垣』」「国内唯一の大変珍しいもの」と二通りの言い方で明記しています。しかも「天球丸の石垣崩落を防止することを目的に、江戸時代の終わり頃に築き足された」もの—幕末に近い時期の応急工事が、いま城跡で一番有名な遺構になっているわけです。

国史跡の指定は昭和三十二年十二月十八日(名称は「鳥取城跡 附太閤ヶ平」)、追加指定が昭和六十二年八月十日。指定範囲は久松山のほぼ全山で九十六万八千三百二十四平方メートルです。文化庁の日本遺産の解説は、山頂の山上ノ丸を本丸とし山麓に山下ノ丸を配した「古い山城形式を江戸時代を通じて保持」しており「日本の城郭史上注目すべき遺構」と評価しています。江戸時代を通じて山城のまま使い続けたという点が、公的評価の対象になっているのです。

天守については、鳥取市公式が「山頂の天守焼失後は代用天守として長く藩の象徴となり」と書くのみで、焼失の年は自治体公式では確認できません。復元は擬宝珠橋が2018年9月30日、中ノ御門表門が令和三年(2021年)、渡櫓門が令和七年三月竣工と進んでいます。日本100名城は六十三番。

城跡に建つ仁風閣は明治の建物ですが、由来が池田家です。鳥取池田家の第十四代当主 池田仲博侯爵が池田家の別邸として設計を依頼し、明治四十年(1907年)五月に完成。設計は片山東熊(文化庁は「片山東熊の設計と伝える」と留保)。大正天皇(当時皇太子)の山陰行啓の宿舎として建てられ、重要文化財の指定は昭和四十八年六月二日です。慶徳が神戸で死んだ三十年後、孫の世代が城跡に洋館を建てたことになります。

松葉がにが、藩の日記に出てきます

鳥取の名物で、幕末と直接つながるものが一つあります。松葉がにです。

鳥取県公式によれば、「松葉がに」の名称が登場する最も古い文献は、弘化二年(1845年)に書かれた鳥取藩の『町目付日記』の十一月十三日の項で、若桜町御用座敷の建て替えのとき、棟上げ祝宴に出された献立のメニューに「松葉がに」が含まれていたといいます。さらに天明二年(1782年)の藩の公文書控えに、津山藩への贈答品目録と思われる記載もあります。幕末の藩の宴席の献立表に、いまの冬の名物の名前が載っている—こういう具体性は他の藩ではなかなか出てきません。名の由来は「楚蟹(すわえがに)」が転じたという説など複数あります。

いっぽう二十世紀梨は明治三十七年(1904年)に北脇永治が苗木十本を鳥取へ導入したもので、品種の発見者は千葉県松戸市の松戸覚之助—鳥取発祥ではなく、幕末とも無関係です。らっきょうについては鳥取県公式が「江戸時代に参勤交代で持ち帰られた説などがありますが、真偽は不明です」とはっきり書き、本格栽培は大正時代からとしています。因州和紙は起源が確定していませんが、江戸期には「藩の御用紙としても庶民の使う紙としても盛んに生産され、紙座で取り引きされました」(鳥取県公式)。弓浜絣(ゆみはまがすり)は約二百五十年前の江戸時代から弓ヶ浜で織り継がれてきたものです。

藩校は尚徳館で、創立は宝暦七年(1757年)、藩主池田重寛の裁定で名が決まりました。創立時は「学問屋敷」、弘化四年頃に「学館」、安政六年(1859年)から「学校」と称されたといいます(日本歴史地名大系)。幕末に「学校」という名前になったわけです。跡地は現在の県立図書館・県公文書館・県民会館のあたりです。

鳥取県は、一度廃止されています

最後が、この藩のいちばん劇的な後日談です。

鳥取県が作成した資料「鳥取県ができるまで」に、日付まで書かれています。明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県により鳥取藩が鳥取県になりました。ところが「明治九年(1876)八月二十一日、鳥取県が廃止されて島根県に合併されました。この時代はおよそ5年間続きました」。そして「明治十四年(1881)九月十二日、鳥取県再置運動が実をむすび、再び鳥取県が設置されました」。

「廃止」という語を、県自身が使っています。そして九月十二日が「とっとり県民の日」です。県民の日が、県の誕生日ではなく県の再建の日だというのは、なかなかない話です。

ちなみに同じ池田家の岡山県は、この時期に小田県(明治八年十二月十日)と北条県(明治九年四月十八日)を吸収して膨らんでいます。片方が消えて五年後に戻り、片方が周りを取り込んだ。山陽と山陰で入れ替わった二つの池田家は、県としても正反対の道をたどりました。→ 熊本藩(肥後藩)

鳥取藩をもっと詳しく

藩の成り立ち—光政の16年と「お国替え」

元和三年(1617年)に姫路から鳥取へ移された池田光政は、在封16年のあいだに鳥取城下町の基盤を整えたとされます。寛永九年(1632年)に岡山藩主の池田忠雄が亡くなり、幼い光仲が跡を継ぐと、光仲と光政の領地が取り替えられました。いわゆる岡山との「お国替え」です。この忠雄の死と国替えの前後に起きたのが、仇討ちとして名高い「鍵屋の辻の決闘」で、大きな注目を集めました。

鳥取池田家は家康の娘督姫の血を引くことから、外様ながら松平姓と葵紋を許されました。江戸城に登城する際、ふつうの大名は玄関前で刀を家来に預けますが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが許されていたといいます。徳川一門の親藩や加賀前田家などにしか認められない特権でした。

本家と分家—領地を持たない二つの新田藩

鳥取藩には、鹿奴藩と若桜藩という二つの支藩がありました。どちらも本家の領地を分けるのではなく、新たに開いた田(新田)の石高を名目として分けた「新田分知」の分家で、実際の領地は持たず、本家から蔵米(米)で収入を受け取る形でした。藩の役所も事実上なく、本家から派遣された役人が政務を行っています。

鹿奴藩は貞享二年(1685年)、初代光仲が次男の仲澄に新田2万5千石を与えたのが始まりで、のち3万石となりました。「鳥取東館(ひがしやかた)新田藩」とも呼ばれます。本家の跡継ぎが絶えたときに備える家という性格が強く、実際に3代藩主吉泰と10代藩主慶行はこの家から本家に入りました。9代仲建は元治元年(1864年)、京都への出兵をめぐって藩主慶徳と対立し、諫めて自ら命を絶っています。

若桜藩は元禄十三年(1700年)、2代綱清が弟の清定に新田1万5千石を分けたのが始まりで、江戸屋敷が鉄砲洲にあったことから「鉄砲洲家」とも呼ばれ、のちに2万石となりました。5代定常は「松平冠山」の名で知られる文人大名です。

両家とも、藩庁は長く鳥取に置かれたままでしたが、明治元年(1868年)にそれぞれ鹿野(鹿奴)と若桜に陣屋を置き、ここで初めて土地の名で呼ばれるようになりました。鹿奴藩は明治二年(1869年)、若桜藩は明治三年(1870年)に本家へ戻され、両家は明治十七年(1884年)に子爵となっています。

家老が町を治めた「自分手政治」

伯耆の米子城は、城代家老の荒尾但馬家(米子領1万5千石)が任されて治めました。これを「自分手政治」といいます。ほかに倉吉(荒尾志摩家、1万2千石)、八橋、松崎、浦富にも陣屋が置かれ、家老格の家が代々治めました。これらの町は城下の鳥取と同じ扱いで、町年寄などの役職が置かれていたとされます。両荒尾家は明治になって男爵を授けられました。

江戸時代の大きな出来事

元文四年(1739年)二月には「元文一揆」が起きて藩内が大きく混乱しました。また天保の大飢饉は鳥取藩でも猛威をふるい、その被害は「申年がしん」と呼ばれて語り継がれています。

藩主家の子孫・明治以降

廃藩後に初代の鳥取県権令(知事)となったのは、本圀寺事件の首謀者だった元藩士河田景与(左久馬)でした。池田家は明治十七年(1884年)、慶徳の跡を継いだ池田輝知が侯爵となりましたが、輝知は明治二十三年(1890年)に亡くなり、従弟の池田仲博が婿養子として継ぎました。のちの当主池田百合子さんは、旧藩主家としての池田家を自分の代で終えることを表明しており、東京の多磨霊園にあった藩主家の墓は、平成十五年(2003年)に鳥取市の大雲院へ移されています。

領地のようす

領地は因幡国(岩井・法美・八東・八上・智頭・邑美・高草・気多の8郡)と伯耆国(河村・久米・八橋・会見・汗入・日野の6郡)のほぼ全域で、いまの鳥取県にあたります。汗入郡・日野郡の一部は大山寺の領地でした。ほかに武蔵国秩父郡にも1村があり、明治維新後には北海道の後志国島牧郡の一部も管轄しています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、32万5千石のこの藩はおよそ7,640人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「鳥取藩」「鹿奴藩」

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