戊辰戦争の東北戦線を語るうえで欠かせないのが、「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」です。東北と北越(新潟県あたり)の諸藩が結束し、新政府軍に立ち向かった一大連合でした。なぜ諸藩は同盟を結んだのか、そしてなぜ敗れたのか。その成立から結末までをたどります。
きっかけは会津藩・庄内藩の「赦免嘆願」
1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府は、旧幕府方の中心とみなした会津藩と庄内藩に対し、討伐の方針を打ち出します。しかし、これに東北の諸藩は反発しました。会津や庄内にも言い分はある、いきなり武力で討つのはあまりに酷だ——そう考えた仙台藩や米沢藩などが中心となり、両藩の赦免(罪を許すこと)を新政府側に嘆願したのです。
ところが、この嘆願は退けられ、逆に諸藩は会津・庄内の討伐を厳しく迫られます。「同じ東北の藩を、自分たちの手で討てというのか」——追い詰められた諸藩の不満は、やがて新政府への対抗へと転じていきました。
東北から北越へ——広がる同盟
1868年5月、仙台藩・米沢藩を盟主格として、東北の諸藩が「奥羽列藩同盟」を結成します。まもなく、北越の長岡藩など越後の諸藩も加わり、あわせて三十以上の藩からなる「奥羽越列藩同盟」へと発展しました。同盟は、京都を追われた輪王寺宮(りんのうじのみや)を盟主にいただき、新政府に対抗するもう一つの政治的なまとまりをつくろうとします。
これは単なる軍事同盟ではなく、新政府とは異なる「東北の連合政権」をめざす動きでもありました。中央の新政府に対し、地方の諸藩が結束して声をあげた——その意味で、戊辰戦争のなかでも特筆すべき出来事でした。
なぜ同盟は敗れたのか
しかし同盟は、いくつもの弱点を抱えていました。まず、参加した諸藩の足並みがそろわなかったこと。それぞれの藩に事情があり、統一した指揮のもとで一体となって戦うことができませんでした。次に、装備や軍事力の差です。新式の銃や洋式戦術を備えた新政府軍に対し、同盟軍の多くは近代化で後れを取っていました。
南の玄関口である白河口の戦いで敗れ、北越でも長岡藩が奮戦むなしく敗れると、戦況はしだいに悪化します。追い詰められた諸藩のなかには、新政府へ降伏・恭順する藩が相次ぎました。中心だった仙台藩・米沢藩も1868年秋には降伏し、拠り所を失った会津藩も若松城の激戦の末に降伏。奥羽越列藩同盟は瓦解しました。
同盟が残したもの
奥羽越列藩同盟は敗れましたが、それは新政府に対する最大規模の抵抗であり、東北の諸藩が自らの誇りをかけて戦った証でもありました。白虎隊や二本松少年隊の悲劇も、この同盟の戦いのなかで生まれています。敗れた側の視点から戊辰戦争を見つめ直すとき、この同盟の存在は避けて通れません。
同盟に加わった一つひとつの藩が、どんな思いで結束し、どんな戦いを繰り広げたのか。仙台・米沢・会津・庄内・長岡など、各藩の個別ページとあわせて読むと、東北戦線の実像がより鮮明に見えてきます。
まとめ
奥羽越列藩同盟は、会津藩・庄内藩の赦免嘆願が退けられたことをきっかけに、仙台藩・米沢藩を中心とする東北・北越の諸藩が結成した新政府への対抗連合でした。輪王寺宮を盟主に一大勢力を築きましたが、足並みの乱れと装備の差から各地で敗れ、瓦解します。白河口の戦いや少年隊の悲劇とあわせて、東北が払った犠牲の大きさを物語る出来事です。

