【現地取材】桑名城跡を歩く——降伏のしるしに焼かれた櫓と、蝦夷まで戦い続けた藩主

辰巳櫓跡の説明板 降伏のしるしとして焼き払われたと記す

三重県桑名城。いまは九華(きゅうか)公園という、松の多い静かな公園です。天守はありません。櫓もありません。石垣と堀と、本多忠勝の銅像。それだけ見れば、よくある「城跡公園」です。

けれども幕末歴史ガイドとして、この城には特別な意味があります。これまでこのサイトで書いてきた戊辰戦争の記事に、桑名藩の兵は何度も登場しているのです。宇都宮城の戦いにも、山形の寒河江・長岡山の戦いにも。

あの兵たちの、ここが故郷です。そして彼らが帰る場所を失っていく過程が、この公園には一枚の説明板として残っていました。

本多忠勝像。徳川四天王の一人で、桑名藩の初代藩主でもある
本多忠勝像。徳川四天王の一人で、桑名藩の初代藩主でもある
目次

まず、桑名という藩について

桑名は東海道の宿場町であり、七里の渡し——熱田(宮宿)から海路で伊勢へ渡る、東海道でただ一つの海の区間——の着き場でもあります。交通の要衝であり、だからこそ徳川はここに重い大名を置きました。

初代藩主が本多忠勝。徳川四天王の一人です。公園に立つ銅像は、その忠勝。以後、松平(久松)家が入り、十一万三千石の譜代大名として幕末を迎えます。

松平定敬 ― 高須四兄弟の末弟、京都所司代

幕末の桑名藩主が松平定敬(まつだいら さだあき)です。弘化三年十二月二日(1847年1月18日)の生まれ。

出自がすごい。美濃高須藩主・松平義建の八男で、兄たちがそろって幕末史の主役になります。いわゆる高須四兄弟——長兄が尾張の徳川慶勝、次いで一橋茂栄、そして会津の松平容保、末弟がこの定敬です。

同じ父から生まれた兄弟が、尾張・一橋・会津・桑名という四つの家に入り、幕末の最前線に立たされた。そして戊辰戦争では、尾張の慶勝が新政府側、会津の容保と桑名の定敬が旧幕府側に分かれます。兄弟が敵味方になったわけです。

元治元年(1864)四月、定敬は京都所司代に任命されます。兄・容保が京都守護職、弟が京都所司代。京都の治安と朝廷対応を、兄弟二人で担うという体制でした。

ひとつ細かい話を書いておくと、京都所司代は通常、雁間詰か帝鑑間詰の譜代大名が就く職です。ところが定敬は、それより上位の溜間詰でした。格上の大名をあえて所司代に据えた——それだけ幕府が京都を重く見ていたということです。

そして藩主は、北へ北へと逃げ続ける

九華公園に立つ石標。松並木の下、いまは静かな公園である
九華公園に立つ石標。松並木の下、いまは静かな公園である

鳥羽・伏見の敗戦後、定敬の足取りは記録に残っています。並べると、それだけで戊辰戦争の地図になります。

明治元年二月十一日、江戸へ逃れて霊巌寺で謹慎。三月二十九日、越後柏崎へ移動。七月十六日、陸奥会津若松へ移り、兄・容保と再会。十月二十一日、蝦夷へ渡る。

江戸、越後、会津、そして蝦夷。会津若松城で兄と顔を合わせたとき、二人は何を話したのでしょうか。京都で守護職と所司代として並んでいた兄弟が、五年後には落城寸前の城で再会している。

そして定敬は、そこからさらに北へ渡ります。旧幕府軍の最後の抵抗に加わるために。

ところが国元は、とっくに降伏していた

ここが桑名藩の悲しいところです。

藩主が江戸から越後へ、会津へと転戦している間、国元の家老たちは、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを決めていました。藩主不在のまま、桑名城は新政府軍に開かれます。

つまり桑名藩は、藩主が北で戦い続けている間に、国元では降伏していた。宇都宮で、越後で、そして寒河江で戦っていた桑名藩兵たちは、帰る場所がすでに敵の手に渡った状態で戦い続けていたことになります。

この決断のおかげで、桑名藩は残りました。明治二年八月一日、定教をもって藩主となし、桑名藩は存続を許されます。家老たちの判断は、藩としては正しかった。ただ、正しさと切なさは別のものです。

辰巳櫓跡 ― 降伏のしるしとして焼かれた櫓

公園を歩いていて足が止まったのが、この場所でした。

辰巳櫓跡の説明板。短い文章のなかに、この城の最期が書かれている
辰巳櫓跡の説明板。短い文章のなかに、この城の最期が書かれている

桑名市教育委員会の説明板を、要点だけ引きます。

辰巳櫓は桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓であった。元禄十四年(1701)に天守閣が焼失し、再建されなかったので、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。このため、明治維新の時、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。

——「降伏のしるしとして」。

桑名城には、元禄以来、天守がありませんでした。だから城の顔は、この東南隅の三重櫓だった。そして開城にあたって、その顔を焼くことが求められたのです。

城を明け渡すだけでは足りない。目に見える形で、町の誰もが分かる形で、負けたことを示せ。血を流さない降伏だったからこそ、代わりに建物が焼かれた——そう読むこともできます。

そして説明板は、こう続きます。現在大砲が置かれているが、由来等は不詳。

辰巳櫓跡に据えられた大砲。どこから来たものか、由来はわかっていないという
辰巳櫓跡に据えられた大砲。どこから来たものか、由来はわかっていないという

櫓が焼かれた跡地に、出所のわからない大砲が一門置かれている。誰が、いつ、何のためにここへ据えたのか記録がない。

これが妙に印象に残りました。城の最期は克明に記録されているのに、その跡地に置かれた大砲の由来はわからない。歴史というのは、大事件のほうが残って、その後の何十年かのほうが抜け落ちるものなのだと思います。

藩主は蝦夷にいて、国元は降伏し、シンボルの櫓は焼かれ、跡地には由来不詳の大砲が残った。桑名藩の戊辰戦争は、この一角にほぼ全部あります。

蟠龍櫓 ― 焼かれた城で、いま櫓の姿をしているもの

七里の渡しに面して建つ蟠龍櫓
七里の渡しに面して建つ蟠龍櫓
別角度から。まぎれもない櫓の姿だが、中身は水門の管理棟である
別角度から。まぎれもない櫓の姿だが、中身は水門の管理棟である

公園から少し歩くと、堀端に白い櫓が建っています。蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)です。

もとは七里の渡しに入ってくる船を監視する役割を持った櫓でした。熱田から海を渡ってきた旅人が、桑名に着いてまず目にする建物だったわけです。東海道を歩いてきた人にとって、これが伊勢国の玄関口の顔でした。

ただし、いま建っているものは江戸期の櫓ではありません。平成十五年(2003)に水門の管理棟として建てられ、当時の外観を再現したものです。二階は展示室として公開されています。

皮肉といえば皮肉です。本物の櫓は降伏のしるしに焼かれ、いま櫓の形をしているのは水門の管理棟。それでも、この建物があるおかげで「桑名城には櫓が並んでいた」という事実が町の風景に残っている。焼かれた城が、百三十年後に別の理由で櫓の姿を取り戻したことになります。

定敬のその後

蝦夷まで渡った定敬は、旧幕府軍の降伏後に捕らえられ、謹慎します。そして明治五年(1872)一月六日に赦免

ここからの身の振り方が、この人らしいと思います。明治六年、ブラウン塾で英語を学び、その年の十一月に渡米しています。京都所司代として攘夷派を取り締まった男が、負けた四年後にアメリカへ渡っている。

さらに明治十年の西南戦争には、旧桑名藩士を率いて遠征しました。かつて自分と共に戦って敗れた家臣たちを、今度は新政府の側として率いている。

そして晩年、明治二十七年一月から二十九年十二月まで、日光東照宮の宮司をつとめました。徳川家康を祀る社の宮司です。明治四十一年七月二十一日、六十一歳で死去。

幕府に殉じようとして蝦夷まで行き、赦されてアメリカへ渡り、西南戦争を新政府側で戦い、最後は家康の墓守になる。この一人の生涯だけで、明治という時代が旧幕臣に何をさせたのかが見えてきます。

歩いてみて

桑名城跡は、遺構という点では物足りない城跡です。天守も櫓も無く、石垣と堀と松並木。それでも、このサイトで書いてきた記事のなかで、いちばん多くの他記事とつながる城でした。

宇都宮で城下を焼きながら進んだ桑名藩兵。寒河江の朝、立見尚文の雷神隊として朝食の最中に急襲された桑名藩兵。会津で兄弟が再会した城。そのすべての出発点が、この松の木の下です。

そして彼らが戦っている間に、故郷の城は降伏し、シンボルの櫓は焼かれていた。宇都宮の記事を書いたとき、私は桑名藩を「江戸を出て北関東を転戦し、会津を経て出羽まで来た部隊」と書きました。あれは正確ではなかったかもしれません。彼らは転戦していたのではなく、帰る場所を失ったまま北へ流されていたのだと、ここへ来て思いました。

公園には犬を散歩させる人がいて、ベンチで昼寝をしている人がいて、まったく平和でした。それでいいのだと思います。焼かれた櫓の跡地が、由来のわからない大砲ごと、のんびりした公園になっている。それが戊辰戦争から百五十年経つということなのでしょう。

アクセスと地図

桑名城跡(九華公園)/三重県桑名市吉之丸。JR・近鉄・養老鉄道の桑名駅から徒歩約二十分、または三岐鉄道北勢線の西桑名駅からも歩けます。本多忠勝像、辰巳櫓跡と大砲、鎮国守国神社が園内に。辰巳櫓跡の説明板は必ず読んでください——この城でいちばん幕末に近い場所です。春は桜とつつじの名所。

蟠龍櫓(七里の渡し跡)/桑名市船馬町。九華公園から徒歩十分ほど。伊勢国一の鳥居が立つ七里の渡し跡のすぐそばで、櫓の二階は展示室として公開されています。東海道を歩く人はここから桑名宿へ入りました。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 桑名市教育委員会(現地解説板の設置者)

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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