近藤勇が流山で新政府軍に身を委ねたあと、新選組は北へ向かいました。慶応四年(1868)の夏、隊が戦ったのは、京都時代に隊を預かってくれた会津藩の地でした。そしてこの会津で、土方歳三と斎藤一は別々の道を選びます。この記事では、会津での新選組の半年をたどります。
慶応四年、会津の新選組(年表)
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 四月 | 流山のあと、土方・斎藤らは江戸を離れ、大鳥圭介の率いる旧幕府軍(伝習隊など)と合流して北へ向かう |
| 四月十九日〜 | 宇都宮城をめぐる戦い。四月二十三日の攻防で土方が足を負傷する(宇都宮観光コンベンション協会は「足指を負傷」とし、右足とする資料もあります) |
| 四月下旬〜 | 土方は会津若松の城下で、およそ三か月の療養に入る。このあいだ新選組は斎藤一(山口二郎と名乗る)が率いたとされる |
| 閏四月〜七月 | 白河口の戦い。新選組も会津藩とともに白河周辺で戦う |
| 八月二十一日 | 母成峠の戦い。旧幕府側は敗れ、新政府軍が会津領へ攻め込む |
| 八月下旬 | 土方は庄内・仙台へ向かう。斎藤は会津に残ることを選び、新選組は二つに分かれる |
| 九月四日 | 会津に残った斎藤らが守る如来堂が新政府軍に襲われ、隊は散り散りになる |
| 九月二十二日 | 会津藩が降伏する。斎藤はその後も戦い続け、藩主・松平容保の使者に説かれて降伏した |
| 十月十二日 | 土方らは仙台の折浜から榎本武揚の艦隊で蝦夷地へ渡る |
宇都宮で負傷した土方
近藤と別れた土方は、大鳥圭介の軍とともに宇都宮城をめぐって新政府軍と戦いました。その戦いの中で足を撃たれ、会津へ送られます。負傷したのは四月二十三日の攻防のときで、負傷した場所については足指とする説明と右足とする説明があります。土方は若松の城下でおよそ三か月、傷の療養をしました。
この療養のあいだに、土方は板橋で斬られた近藤勇の墓を、会津若松の天寧寺に建てたと伝えられます。宇都宮の戦いについては宇都宮城と太平山を歩く(現地取材)でも触れています。
斎藤一の率いた新選組—白河口から母成峠へ
土方が療養しているあいだ、新選組を率いたのは「山口二郎」と名乗っていた斎藤一だったとされます。閏四月から七月にかけて、会津の南の入り口にあたる白河をめぐって激しい戦いが続きました。新選組も会津藩とともにこの白河口で戦っています(白河小峰城と白河口の戦い(現地取材))。
八月二十一日、新政府軍は会津の東の母成峠を攻めました。旧幕府側はおよそ八百。これに対する新政府軍の兵力は、三千とする資料と七千とする資料があり、はっきりしません。朝から夕方まで続いた戦いで旧幕府側は敗れ、新政府軍は一気に会津若松へ迫ります(母成峠古戦場跡)。
土方と斎藤の別れ
母成峠の敗戦のあと、土方は会津を助けるための援軍を求めて庄内、そして仙台へと向かいました。一方、斎藤一は会津に残ることを選びます。京都で新選組を預かってくれた会津藩を最後まで見捨てない—斎藤の選択にはそんな思いがあったとも考えられますが、本人は理由を書き残していません。
斎藤とともに会津に残ったのは、池田七三郎ら十数人とされます。
如来堂の戦い
九月の初め、会津に残った斎藤らの守っていた如来堂が、新政府軍に襲われました。隊はここで散り散りになります。のちに箱館で『戦友姿絵』を描いた中島登は、如来堂で戦った隊士たちの消息を確かめる間もなく海を渡ったため、みな戦死したものとして記したといいます。けれども実際には、斎藤一をはじめ、久米部正親・池田七三郎など、生き延びた隊士も少なくありませんでした。
九月二十二日、会津藩は降伏しました。斎藤はそのあとも戦い続け、藩主・松平容保の使者の説得を受けて、ようやく刀を収めたといわれます。
その後の斎藤一と会津
斎藤は降伏した会津藩士とともに越後高田で謹慎し、その後は斗南藩(会津藩が移された下北半島の藩)に移りました。明治七年には会津藩士の娘・時尾と結婚し、のちに警視庁に勤めます。大正四年に東京で亡くなりましたが、墓は会津若松の阿弥陀寺にあります。
会津で戦った主な隊士
| 隊士 | 会津でのこと |
|---|---|
| 土方歳三 | 宇都宮で負傷し会津で療養。天寧寺に近藤の墓を建てたと伝わる。母成峠のあと仙台へ |
| 斎藤一 | 山口二郎と名乗り隊を率いる。会津に残り、如来堂を経て降伏 |
| 久米部正親 | 軍目付。如来堂の戦いを生き延びる |
| 池田七三郎 | 斎藤とともに会津に残り、如来堂で戦う。昭和まで生きた |
| 中島登 | 会津から箱館まで戦い、のちに『戦友姿絵』を描く |
| 横倉甚五郎・近藤芳助 | 会津で戦った隊士 |
| 松本捨助 | 土方の縁者。会津で土方に隊を離れるよう命じられる |
会津の新選組を読み解く
土方と斎藤は、なぜ別れたのか
母成峠が破られたあと、土方歳三は会津を離れ、庄内藩や仙台藩に助けを求めに向かいました。会津を救うには、東北の諸藩の力をもっと集めなければならない、という考えだったとされます。けれども庄内藩には入ることができず、土方はそのまま仙台へ向かい、やがて榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地へ渡りました。
一方の斎藤一は、会津に残ることを選びます。京都で新選組を預かってくれた会津藩が滅びようとしているときに、それを見捨てて去ることはできない—斎藤がそのような意味のことを言ったと伝わりますが、確かな記録で裏づけられた言葉ではありません。どちらの判断が正しかったかではなく、「戦いを続ける道」を選んだ土方と、「恩のある土地に殉じる道」を選んだ斎藤という、二つの生き方がここで分かれたと見るのがよいでしょう。
会津の戦いの中の新選組
会津戦争で新政府軍と戦ったのは、会津藩の藩兵を中心に、旧幕府の伝習隊や諸藩の兵など、さまざまな部隊でした。新選組はその中の一部隊にすぎず、京都時代のように戦いの主役を担ったわけではありません。
それでも新選組は、白河口、母成峠、如来堂と、会津の守りの要所で戦い続けました。八月二十三日に新政府軍が若松の城下になだれこみ、白虎隊の少年たちが飯盛山で自刃したとき、新選組は城の外で散り散りになりつつありました。籠城戦が一か月続いて会津藩が降伏したあとも、斎藤らはしばらく戦いをやめませんでした。会津藩と新選組の長い関わりは新選組と会津藩にまとめています。
会津に残った者たちの、その後
| 隊士 | 会津のあと |
|---|---|
| 斎藤一 | 会津藩士とともに謹慎し、斗南藩へ。のちに警視庁に勤め、大正四年に没 |
| 久米部正親 | 如来堂を生き延び、銚子で降伏。明治四十三年まで生きる |
| 池田七三郎 | 如来堂で戦う。昭和まで生き、最も長く生きた隊士の一人として知られる |
| 尾形俊太郎 | 会津の城下で記録が途絶え、のちに熊本で私塾を開いていたことが分かる |
| 近藤芳助 | 母成峠で本隊とはぐれ、米沢へ向かう途中で捕らえられる。明治には横浜で議員となる |
会津で隊と別れた者たちは、箱館へ渡った者たちよりも早く戦いを終え、それぞれの明治を生きることになりました。斎藤が会津藩の人々と行動をともにし、のちに会津藩士の娘と結婚して、墓も会津に置いたことは、会津で下した選択を一生貫いたことを示しています。
訪ねるなら(会津・白河)
- 会津若松城(鶴ヶ城):会津藩の本拠。籠城戦の舞台です。
- 天寧寺(会津若松市):土方が建てたと伝わる近藤勇の墓があります。
- 阿弥陀寺(会津若松市七日町):斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
- 母成峠古戦場(猪苗代町・郡山市):台場の跡が残る古戦場。
- 白河(福島県白河市):白河口の戦いの舞台。小峰城があります。
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参考にした資料:中島登『戦友姿絵』、新選組・戊辰戦争に関する諸研究、会津若松市などの案内。日付や細部には諸説があります。

