白河口の戦いとは?三倍の兵を持つ同盟軍が一日で白河小峰城を失った戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく

白河口の戦い 進軍図(慶応4年閏4月〜7月)。5月1日、新政府軍は中央で稲荷山を引きつけ、左右から回り込んで小峰城を落とした

戊辰戦争で、東北の戦いのゆくえを決めたといわれる戦場があります。奥州の南の入口、白河です。慶応4年閏4月から7月まで、白河小峰城をめぐって奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が百日にわたって戦いました。これが「白河口の戦い」です。

この記事では、白河口の戦いがなぜ起き、どう戦われ、どう終わったのかを、進軍図とあわせて解説します。磐城の戦いで平潟に上陸した新政府軍が助けようとしたのが、この白河口でした。

目次

白河口の戦いとは?ひとことで言うと

奥州街道の関門・白河小峰城を、会津藩を中心とする同盟軍が押さえ、新政府軍がそれを奪い、同盟軍が何度も取り返そうとした戦いです。同盟軍は三倍以上の兵を持ちながら、5月1日のたった一日で城を失い、その後の奪還戦もすべて退けられました。

期間 慶応4年閏4月20日〜7月14日(1868年6月10日〜9月1日)。およそ百日
場所 陸奥国白河(現在の福島県白河市)。白河小峰城と、その南の稲荷山・白坂口など
同盟軍 会津藩(白河口総督・西郷頼母)、新選組(山口次郎=斎藤一)、仙台藩、棚倉藩、二本松藩など
新政府軍 薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩など(参謀・伊地知正治)。のちに土佐藩の板垣退助らが加わる
結果 新政府軍の勝利。5月1日に城が落ち、同盟軍の奪還戦はすべて失敗。両軍の戦死者は合わせて千人を超えたと伝わる

なぜ白河が戦場になったのか

奥州の南の入口

白河は、江戸から奥州街道を北へ進むと最初に越える関門です。古くは白河の関が置かれた場所で、ここを越えれば会津へも、二本松・福島・仙台へも道が開けます。新政府軍が会津を攻めるにも、東北の諸藩に圧力をかけるにも、白河は真っ先に押さえるべき場所でした。

石垣の上にそびえる白河小峰城の三重櫓
石垣の上にそびえる白河小峰城の三重櫓。東北では珍しい総石垣の城です

城主のいない城

ところが、そのころの白河小峰城には城主がいませんでした。藩主の阿部家は慶応2年(1866)に棚倉へ移され、城は二本松藩などが預かる形になっていました(【現地取材】白河小峰城と白河口の戦い)。東北のいちばん大事な関門が、守る主のいないまま戦争を迎えたのです。

世良修蔵が斬られた日

慶応4年閏4月20日、会津藩兵と新選組が白河城に入り、城を押さえました。同じ日の未明、福島では、仙台藩士らが新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵を斬っています。会津を許すよう求めた東北諸藩の嘆願がしりぞけられ、東北と新政府の話し合いの道が閉ざされた日でした。白河口の戦いは、ここから始まります。

両軍の顔ぶれと兵力

同盟軍 新政府軍
主力 会津藩(総督・西郷頼母、副総督・横山主税)
新選組(山口次郎=斎藤一)、会津藩の遊撃隊・純義隊・青龍隊・朱雀隊など
仙台藩・棚倉藩・二本松藩の援軍
薩摩藩を中心に、長州藩・大垣藩・忍藩
6月以降、土佐藩(板垣退助)などが加わる
兵力 5月1日には約2,000〜2,500名。のちに約4,500名まで増える 5月1日には約700名
指揮 白河口総督・西郷頼母(7月2日に解任) 東山道軍参謀・伊地知正治(薩摩)、野津鎮雄・川村純義が左右の部隊を率いる

数のうえでは、同盟軍が三倍以上の兵を持っていました。それでも新政府軍が勝ったのは、新しい銃と大砲、そして少ない兵を大きく見せ、左右から回り込む用兵の差でした。同盟軍の側は、藩ごとに兵を出していたため指揮がそろわず、旧式の銃も多かったといわれます。

戦いの流れ ― 白坂口から稲荷山へ

白河口の戦い 進軍図(慶応4年閏4月〜7月)。5月1日、新政府軍は中央で稲荷山を引きつけ、左右から回り込んで小峰城を落とした
白河口の戦い 進軍図(慶応4年閏4月〜7月)。5月1日、新政府軍は中央で稲荷山を引きつけ、左右から回り込んで小峰城を落とした

閏4月25日:最初の攻撃を退ける

宇都宮城の戦いに勝った新政府軍の東山道軍は、大田原から北へ進み、白河の南の入口・白坂口に攻め寄せました。ここを守っていたのは新選組と会津の遊撃隊です。会津の朱雀隊が大砲で横から撃ちかけ、純義隊・青龍隊も脇から攻めかかると、ぬかるみと疲れと弾薬不足に苦しんだ新政府軍は、芦野まで退きました。

同盟軍が白河口で勝ったと言えるのは、この最初の一戦でした。

閏4月26日〜29日:守りを固める同盟軍、近づく新政府軍

  • 閏4月26日ごろ:会津藩家老の西郷頼母が白河口総督、横山主税が副総督に。仙台・棚倉・二本松の援軍も入り、同盟軍は2,000〜2,500名にふくらむ
  • 西郷頼母は、主力と大砲を城の南の稲荷山に置いた
  • 閏4月28日:新政府軍が白坂口の会津兵を押し返し、翌29日には白坂に本営を置く

5月1日:一日で城が落ちる

5月1日の朝、新政府軍の約700名は三手に分かれて動き出しました。

  • 中央:参謀の伊地知正治が率いる少ない兵。旗をたくさん立てて大軍に見せかけ、稲荷山に大砲を撃ち込む
  • 左(西):野津鎮雄の部隊が大きく回り込み、立石山へ
  • 右(東):川村純義の部隊が回り込み、雷神山へ

同盟軍は正面の稲荷山に気を取られ、援軍を次々に稲荷山へ送りました。副総督の横山主税は、稲荷山を見回りに出たところを撃たれて戦死します。そのあいだに、手薄になった西の立石山と東の雷神山を新政府軍が奪い、稲荷山は三方から囲まれました。

同盟軍は崩れ、白河城は新政府軍の手に落ちます。同盟軍の死傷者は約700名、新政府軍は20名ほどだったといわれます。三倍以上の兵を持つ側が、わずか一日で大敗したのです。

白河小峰城の復元された前御門と城址碑
復元された前御門と城址碑。5月1日、小峰城は新政府軍のものになった
白河小峰城の高石垣と塀
白河小峰城の高石垣。この城を、同盟軍は七度にわたって取り返そうとした

5月26日〜7月14日:七度の奪還戦

城を失った同盟軍は、ここから何度も白河を取り返そうとします。

  • 5月26日:同盟軍約2,000名の大攻勢。雨のなか、古い銃では力を出せず失敗。27日・28日も退けられる
  • 6月:新政府軍に板垣退助の土佐藩兵や薩摩藩の援軍が着く。同盟軍も約4,500名まで増える
  • 6月12日:同盟軍の攻撃、失敗
  • 6月24日:板垣退助が800名で棚倉城を攻め、その日のうちに落とす
  • 6月25日・7月1日:同盟軍の攻撃、いずれも失敗
  • 7月2日:西郷頼母が白河口総督を解かれる
  • 7月13日:海から上陸した新政府軍が磐城平城を落とす(磐城の戦い)
  • 7月14日:同盟軍、最後の白河攻撃。これも退けられる

同盟軍は兵を増やしても、藩ごとの足並みがそろわず、一度に大きな力をぶつけることができませんでした。白河の南東の棚倉を落とされ、さらに浜通りの磐城平まで失って、同盟軍は白河の東と南を押さえられた形になります。

戦いのあと ― 二本松、そして会津へ

新政府軍は北へ

白河を守り抜いた新政府軍は、平潟から来た軍と三春で合流し、7月29日には二本松城を落とします。8月21日には母成峠を破って会津領に入り、8月23日には会津若松城下に攻め込みました(【現地取材】会津若松城(鶴ヶ城)と会津藩)。白河は、会津攻めの足場になったのです。

敗戦の責任を負った西郷頼母

白河口総督だった西郷頼母は、敗戦の責任を問われて職を解かれました。頼母はもともと、京都守護職を引き受けることに反対し、会津が戦うことにも慎重だった家老です。その人が最前線の総督を任され、敗れて退けられたことになります。

この戦いが示したもの

白河口の戦いは、数では勝っていた側が、用兵と装備で負けた戦いでした。同盟軍は約2,500名で約700名の新政府軍を迎え、しかも城と高台を押さえていました。それでも、正面に見せかけの大軍を置かれ、左右から回り込まれると、ひとたまりもありませんでした。

そして、その後の百日で同盟軍は七度も城を取り返そうとし、七度とも失敗します。そのあいだに新政府軍は棚倉を落とし、浜通りでは平潟から上陸した軍が磐城平城を落としていました。白河で負けた時点で、東北の戦いの大勢はほぼ決まっていたといわれるのは、そのためです。両軍の戦死者は千人を超え、いまも白河の町には、敵味方それぞれの慰霊碑が数多く残っています。

現地を歩く ― 白河小峰城

白河小峰城は、江戸のはじめに丹羽長重が築いた総石垣の城です。戊辰戦争で建物の多くが焼けましたが、三重櫓と前御門が木造で復元されています。城の南の稲荷山には、平成27年(2015)に建てられた慰霊碑があり、白河口で亡くなった約千人の名が刻まれています。城の歩みについては【現地取材】白河小峰城と白河口の戦いで詳しく書いています。

筆者の感想

白河小峰城は、石高のわりにかなり大きなお城だと思いました。遺構や門構え、本丸なども復元されて残っていて、感無量でした。御城印もいただきました。二の丸の敷地でトイレの掃除をされていた方がとても親切だったのも、いい思い出です。

三重櫓と高石垣は圧巻です。関東や東北では、石垣の城そのものが珍しいですからね。残念ながら、稲荷山の古戦場には寄れていませんので今度はぜひ立ち寄りたいと思っています。

三倍の兵を持ちながら一日で負けたのは、やはり洋式の軍隊の戦い方を学んでいなかったからでしょう。沼間守一や大鳥圭介、立見鑑三郎のような人たちが中心にいなければ、勝つのは難しかったと思います。武器が旧式だったのは、仕方のないことだったのかもしれませんが。

▶ この戦いの地を旅するなら

筆者が実際にめぐった旅の記録を、姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で紹介しています。

あわせて読みたい

参考資料

  • 白河市「戊辰戦争と白河」(白河口の戦いの解説・史跡マップ)
  • 白河観光物産協会「稲荷山(戊辰の役古戦場)」
  • 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社、1968年)
  • Wikipedia「白河口の戦い」

文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
※進軍図はイラストです

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