長命寺の戦いとは?佐川官兵衛の千人出撃と会津藩最大の敗北—籠城戦のさなか、城の外で何が起きたかを図解でわかりやすく

鶴ヶ城(会津若松城)の天守と走長屋

慶応4年(1868)8月29日の朝。籠城がはじまって一週間がたった鶴ヶ城(会津若松城)の西の門から、およそ千人の会津藩兵が城の外へ打って出ました。率いるのは、鳥羽伏見の戦いで「鬼官兵衛」と呼ばれた家老・佐川官兵衛です。

城を囲む新政府軍の一角を破り、城の外との道を開く。そのための総攻撃でしたが、会津藩は城下の西のはずれ、長命寺のまわりで大きな損害を出して退きます。籠城戦のなかで会津藩が城の外に打って出た、最大の戦い「長命寺の戦い」です。この記事では、その一日を進軍図とイラスト、筆者が撮った鶴ヶ城の写真で解説します。

藩主から盃を賜る佐川官兵衛のイメージ
出撃の前の晩、藩主・松平容保から盃を賜る佐川官兵衛(イメージ図)
目次

長命寺の戦いとは?ひとことで言うと

鶴ヶ城に籠城していた会津藩が、城を囲む新政府軍を押し返そうと、佐川官兵衛を総督にした約千人の部隊で城の西へ打って出て、長命寺を一度は奪ったものの、援軍に押し返されて大きな損害を出した戦いです。

日時 慶応4年8月29日(1868年10月14日)
場所 会津若松城下の西、融通寺町口から長命寺のあたり(現在の福島県会津若松市日新町など)
会津藩 家老・佐川官兵衛を総督とする出撃隊。約千人(約700人とする説もある)
新政府軍 長命寺のあたりに陣を置いた大垣藩・備前藩(岡山藩)など。のちに土佐藩・薩摩藩・長州藩などが援軍に来た
損害 会津藩の戦死は110人とも140人、170人ともいわれ、出撃した隊の隊長のうち5人が戦死。新政府軍の戦死は20人(16人とも)とされる
結果 会津藩の敗北。佐川官兵衛は城に戻らず、城の外で戦いつづけた

なぜ城の外へ打って出たのか

籠城がはじまって一週間

8月21日に母成峠が破られると、新政府軍は一気に会津へなだれこみ、23日には若松の城下に入りました(母成峠の戦い、戸ノ口原の戦い)。会津藩は鶴ヶ城に籠もり、ここから一か月におよぶ籠城戦がはじまります(会津若松城の籠城戦)。

城には藩士だけでなく、その家族や城下の人々も逃げこんでいました。人が多ければ、それだけ食べ物も弾薬も早く減ります。城の外で戦っていた部隊も、少しずつ城に戻ってきていました。城を囲む新政府軍の輪をどこかで破り、外とつながる道を確保しなければ、籠城は長くもちません。

佐川官兵衛に託された出撃

そこで会津藩は、城の外への大きな出撃を決めます。総督に選ばれたのが、8月に家老になったばかりの佐川官兵衛でした。鳥羽伏見の戦いで刀が折れるほど戦い、敵から「鬼佐川」「鬼官兵衛」と呼ばれた人物です。

出撃の前の晩、藩主・松平容保は官兵衛に酒を与え、その出撃をたたえました。官兵衛は「もし勝てなければ、二度と城に戻ってお顔を拝むことはいたしません」という覚悟を伝えたといわれます。

両軍の顔ぶれと兵力

会津藩(出撃隊)

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
会津藩 松平家
23万石
総督・佐川官兵衛。朱雀隊・進撃隊・別撰組・砲兵隊・正奇隊・会義隊など、十隊ほどの寄せ集めで約千人。官兵衛の父・佐川直道も63歳で加わった

新政府軍

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
大垣藩 戸田家
10万石
長命寺に陣を置いていたところを攻められ、一度は寺を奪われた
備前藩(岡山藩) 池田家
31万5千石
城下の西に陣を置き、会津藩兵の最初の突撃を受けた
土佐藩 山内家
24万石
援軍として駆けつけ、長命寺を取り返した
薩摩藩・長州藩 島津家77万石
毛利家36万9千石
土佐藩につづいて援軍に加わったとされる

両軍の条件を比べる

会津藩 新政府軍
兵力 約千人。籠城中の城から出せるかぎりの兵 城のまわりに大軍がいて、呼べばすぐ援軍が来られた
武器 旧式の銃が多く、最後は刀や槍での突撃にたよった 新式の銃と大砲をそろえていた
時刻 本当は夜明け前に出るはずが、朝7時すぎにずれこんだ すでに目を覚まし、迎え撃つ用意ができていた
士気 遺書を懐に入れた決死の覚悟 勝ち戦がつづき、包囲を少しずつ狭めていた

戦いの流れ

長命寺の戦いの進軍図
長命寺の戦いの進軍図(古地図風・イメージ)

遅れた出撃

出撃は夜が明ける前に行うはずでした。暗いうちに敵の陣に近づき、不意をつく。ところが、前の晩に藩主から賜った酒で官兵衛が酔いつぶれてしまい、目を覚ましたのは予定の時刻をすぎてから。部隊が城の西出丸を出て、城下の西の出口・融通寺町口から外へ打って出たのは、朝7時すぎだったといわれます。

この話は佐川官兵衛の逸話としてよく知られていますが、どこまで本当かはわかりません。ただ、出撃が遅れ、新政府軍が待ち受けているところへ突っこむ形になったことは、多くの記録が伝えています。

鶴ヶ城から打って出る会津藩兵のイメージ
朝日のなか、城から打って出る佐川官兵衛の出撃隊(イメージ図)

長命寺を奪う

それでも、会津藩兵の勢いはすさまじいものでした。懐に遺書をしのばせた兵たちは、まず備前藩・大垣藩の陣を破ります。大垣藩が陣を置いていた長命寺を三方から取り囲み、はげしい撃ち合いのすえに突入して、寺を奪い取りました。

長命寺に突入する会津藩兵のイメージ
三方から長命寺に突入する会津藩兵(イメージ図)

援軍に押し返される

しかし、新政府軍は城のまわりに大軍を置いていました。知らせを受けた土佐藩がまず駆けつけ、薩摩藩・長州藩などもつづきます。新式の銃と大砲で撃ちこまれ、会津藩兵は長命寺から押し出されました。

会津藩兵は何度も刀や槍で突撃をくり返しましたが、敵の列を崩すことはできません。出撃した隊の隊長のうち5人が戦死し、兵の損害もふくらんでいきます。官兵衛の父・佐川直道も、この戦いで深い傷を負って亡くなりました。やがて城から退却の命令が出て、会津藩兵は城へ引き上げます。

城へ引き上げる会津藩兵のイメージ
退却の命令を受け、城へ引き上げる会津藩兵(イメージ図)

戦いのあと

城に戻らなかった佐川官兵衛

兵を城に退かせた官兵衛は、自分は城に入りませんでした。負けた責任をとるため、そして出撃の前の晩の誓いを守るためだったといわれます。官兵衛はそのまま城の外にとどまり、少ない兵をつれて新政府軍と戦いつづけました。

9月5日には城の南西の材木町(住吉河原)で新政府軍を破り、うばった武器や弾薬を城へ送りこんで、城への食べ物の道を守ったと伝えられます。会津藩が9月22日に降伏したあとも、官兵衛はしばらく戦いをやめず、藩主の命令でようやく刀をおさめました。

鶴ヶ城の天守と走長屋
鶴ヶ城(会津若松城)の天守と走長屋(筆者撮影)

長命寺に眠る人々

長命寺の戦いで、会津藩は籠城中もっとも多くの兵を一度に失いました。戦いのあと、城下でたおれた会津藩士たちの遺体は長いあいだ葬ることを許されなかったといわれ、のちに阿弥陀寺や長命寺に葬られます。長命寺には145人が葬られ、墓に刻むことを許されたのは「戦死墓」の三文字だけだったと伝えられます。寺の土塀には、いまも銃弾のあとが残っています。

出撃が失敗したことで、会津藩が城の外へ大きく打って出ることはなくなりました。このあと戦いは小さな部隊によるゲリラ戦にかわり、新政府軍は城の包囲をさらに狭めていきます。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

長命寺の戦いというと、どうしても「官兵衛が酒に酔って寝坊した」という話が先に出てきます。たしかにわかりやすい話ですし、出撃が遅れたことが負けた理由の一つだったのも確かでしょう。でも、仮に夜明け前に出ていたとしても、城のまわりにいた新政府軍の数と武器を考えると、勝ちきれたかどうかはわかりません。千人で打って出ても、相手はいくらでも援軍を呼べたのです。

むしろ筆者が考えさせられるのは、戦いのあとの官兵衛です。城に戻れば、命は助かったかもしれない。それでも「再び城に入らず」と言った言葉を守り、城の外で戦いつづけた。そして明治になると警察官になり、西南戦争で政府軍として戦死します。かつて「賊軍」とされた会津の家老が、のちに靖国神社にまつられた。この人の人生そのものが、会津の人たちが明治をどう生きたかを映しているように思います。

筆者は鶴ヶ城を訪れたことがあります。いまは観光客でにぎわう天守の下で、城を出ていった千人と、戻らなかった人たちのことを思うと、あの城の重さがまた違って見えてきます。

現地を歩く ― 長命寺の戦いの史跡

  • 長命寺(会津若松市日新町):戦いの舞台となった寺。土塀に弾痕が残り、会津藩士の「戦死墓」がある
  • 融通寺町口のあたり(会津若松市):会津藩兵が城下の外へ打って出た西の出口
  • 鶴ヶ城(会津若松城)(会津若松市追手町):籠城戦の舞台。西出丸から出撃隊が出ていった
  • 阿弥陀寺(会津若松市七日町):長命寺とともに会津藩士の遺体が葬られた寺
鶴ヶ城の天守台の石垣
鶴ヶ城の天守台の石垣(筆者撮影)

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参考にした資料

  • Wikipedia「佐川官兵衛」「会津戦争」
  • 歴史街道「佐川官兵衛と山川大蔵 会津戦争、男たちの戦い」
  • 人物事典 幕末維新「佐川官兵衛」
  • 鶴ヶ城観光ニュース「長命寺」

文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。写真は鶴ヶ城

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