幕末の東北で、いちばん重い会議が開かれた城です。

奥羽越列藩同盟は、この城で結ばれた
白石城は仙台藩領の南端にあり、片倉家が二百六十余年にわたって城主を務めました。仙台藩の支城でありながら、一国一城令のあとも幕府から存続を許された、全国でも珍しい城です。
そしてこの城は、幕末に四つの顔を持っています。
- 奥羽越列藩同盟が、ここで結ばれました。慶応四年閏四月十一日に奥羽十四藩の代表三十三名が集まり、閏四月二十三日に二十五藩で「白石盟約書」を調印しています
- 公議府が置かれました。同盟の政策機関として、諸藩の参謀がこの城で評議を行っています
- 輪王寺宮公現法親王が滞在しました。七月十二日に入城し、以後は白石城と仙台を行き来しています
- 敗戦後、南部利恭が白石十三万石の藩主としてこの城に入り、七十万両の献金で盛岡へ帰りました
現地の案内板が、これを簡潔にまとめています。「明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された」——行政の説明板が書いていることです。
笠間の城を築いた人が、この城も築いていた

案内板の築城の項を読んで、思わず声が出ました。
天正十九年(1591年)、豊臣秀吉は伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。そして蒲生氏の家臣・蒲生源左衛門郷成が城下町を含む城郭を築き、城主となった——とあります。
蒲生郷成。この名前は笠間城の案内板でも見ました。慶長三年(1598年)に笠間城主となり、笠間城を近世城郭に変貌させたとされる、あの人物です。茨城県で唯一の本格的石垣を関東に持ち込んだ「西から来た人」が、その前に白石城を築いていたのです。
主君の蒲生氏郷が会津から動くのに従って、郷成も白石から笠間へ移ったことになります。城を歩いていると、こういう人の移動が城と城をつないでいるのが見えてきます。
そして片倉家へ
慶長三年に上杉領となると上杉家臣・甘糟備後守清長が入り、慶長五年(1600年)、関ヶ原の直前に伊達政宗が白石城を攻略します。慶長七年、片倉小十郎景綱が入城し、以後明治維新まで約二百六十六年、片倉氏の居城となりました。

元和の一国一城令のあとも、仙台藩は青葉城と白石城の二城を許されています。伊達六十二万石の南の押さえとして、幕府もこの城の存在を認めざるをえなかったということでしょう。
閏四月十一日、この本丸に三十三人が集まった

慶応四年閏四月十一日。仙台藩からの招請状を受けて、奥羽十四藩の代表三十三名が白石城に集まりました。列藩会議です。
議題は会津藩と庄内藩の赦免嘆願でした。それが容れられないと分かると、会議は性格を変えていきます。閏四月二十三日、新たに十一藩を加えた二十五藩で「白石盟約書」に調印。五月三日に仙台で奥羽列藩同盟が正式に成立し、五月六日には長岡藩・新発田藩ら越後の諸藩が加わって三十一藩の奥羽越列藩同盟となりました。

三階櫓に上がると、本丸広場が一望できます。決して広くはありません。ここに三十三人が座り、東日本の運命を決めたのです。
そして同盟の政策機関として公議府が置かれ、諸藩の参謀たちがこの城で評議を重ねました。七月十二日には輪王寺宮公現法親王が入城しています。宮を戴いて東日本にもう一つの政権を立てるという構想——いわゆる「東武皇帝」説については、藤井徳行のように「ほぼ確定的」とする研究者もいれば、石井孝や工藤威のように「構想のみで現実性をもたない」と批判する研究者もいて、学術的な決着はついていません。
確かなのは、この城に諸藩の代表と皇族が集まり、新政府とは別の秩序をつくろうとした数か月があったという事実です。
敗戦のあと——南部利恭の白石十三万石

同盟が崩れたあと、この城には思いがけない主が入ります。
明治元年十二月十七日、盛岡藩の南部利恭が白石藩十三万石を下賜されました。戊辰戦争で新政府に敵対した南部家が、旧領を取り上げられて白石へ移されたのです。案内板の歴代城主一覧にも、片倉家のあとに「八、南部彦太郎利恭 明治元年より明治二年七月二十一日まで」と記されています。
ですが南部家は諦めませんでした。七十万両の献金を条件に、明治二年七月二十一日、盛岡への復帰を許されます。白石藩主だった期間は七か月ほどでした。
そのあと白石城には三陸磐城両羽按察府が置かれ、坊城俊章が入城しました。明治三年に廃止。明治七年、城は民間に払い下げられて取り壊されています。
咸臨丸に乗った、白石の四百一人
そして片倉家の家臣たちです。
明治二年二月六日、彼らは白石の傑山寺に集まり、北海道への移住を決議しました。行き先は幌別(現在の登別市)と、のちに「白石村」と名づけられる札幌の一角です。
明治四年九月、旧片倉家臣の一団が松島湾の寒風沢を出港しました。乗った船が咸臨丸——百十二世帯四百一人。もう一隻の庚午丸に八十四世帯百九十四人。
咸臨丸は九月十七日に函館へ寄港し、二十日に出航しましたが悪天候に流され、木古内町サラキ岬の岩礁で座礁・破船しました。地元の救助で乗船者はほぼ助かりましたが、一人が亡くなっています。彼らは庚午丸で小樽へ回り、十月に石狩へ移りました。
太平洋を渡った幕府の軍艦の最後の航海が、この城の家臣団を運ぶ仕事でした。そして札幌市白石区の地名は、この白石から来ています。
平成に建った三階櫓


いま建っている三階櫓・大手一ノ門・二ノ門・土塀は、平成七年(1995年)三月に木造で復元されたものです。明治七年に解体されてから百二十一年後でした。


案内板は白石城をこう締めくくっています。「日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった」。
控えめな言い方ですが、その通りだと思います。仙台六十二万石の支城でありながら、二百六十年のあいだ独立した城主を持ち、幕末には東日本の政治の中心になり、負けたあとは他藩の大名を受け入れ、家臣たちは船に乗って北海道へ渡った。本丸に立つと、その全部が同じ広さの地面の上で起きたことなのだと分かります。
【白石城・場所・アクセス・地図】
白石城は宮城県白石市益岡町。JR東北本線・白石駅から西へ徒歩十分ほど、東北新幹線・白石蔵王駅からは車で五分ほどです。城域は益岡公園として整備され、三階櫓の内部は有料で公開されています(月曜休館の期間あり)。
隣接する白石城歴史探訪ミュージアムでは、奥羽越列藩同盟の資料も見られます。城下には片倉家の武家屋敷(旧小関家)も残っています。桜の季節がとくに美しい場所です。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「白石城本丸跡」
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
