大久保藩の歩み
延宝七年(1679年)、郡山藩で起こった九・六騒動の当事者の一人「本多政利」は幕府からその責を問われ、六万石の内三万石を返還した上で新たに三万石が加えられるという形で播磨国明石藩に移封されました。
その地で過酷な政治を行い、また巡検視への対応も粗雑だったことを咎められ、六万石から大久保一万石に移封されて大久保藩を立藩することになります。政利はここで藩政の再建を図ったが、年貢率は幕領(天領)だった時代よりも高く、賦課は倍に、その上夫金が新たに取り立てられていました。これら行政上の不届きにより元禄六年(1693年)六月に改易され、政利は庄内藩の「酒井忠真」預かりの身となりました。大久保藩は廃藩となります。
殿様が一度も来なかった大名領
まず場所を正しておきます。この大久保は陸奥国岩瀬郡大久保村、いまの福島県須賀川市大久保です。当サイトは埼玉県として扱っていましたが、誤りでした。お詫びして訂正します。
天和二年(1682年)二月、本多政利が一万石で立藩し、大久保村の字宿に陣屋が置かれました。ところが政利は一度も領地に入らず、江戸の藩邸で暮らしています。そのため陣屋町も形成されませんでした。
そして元禄六年(1693年)六月、行状が改まらず、罪のない女性奉公人を殺害した事件によって改易となります。庄内藩、のち岡崎藩の預かりとなり、宝永四年に岡崎で没しました。十一年のあいだ一度も領地を踏まず、江戸屋敷で人を斬って藩を失ったことになります。
元禄十三年(1700年)、松平頼隆が陸奥岩瀬郡と常陸国内で二万石を与えられ、長沼に陣屋を置いて長沼藩が成立します。大久保村などはその領地となりました。この松平家はのちの常陸府中藩で、所領の大半が陸奥にあったため長沼にも陣屋を置いていました。したがって幕末の大久保村は常陸府中藩の陸奥飛地、長沼陣屋の支配だったとみられますが、村単位での確証は取れていません。
須賀川一帯は奥州街道屈指の宿場町として栄えた土地です。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で八日間滞在したことでも知られます。慶応二年に白河藩主が転封となってからは、白河藩領は二本松藩の預かり地となりました。そして明治元年、須賀川地方は戊辰戦争で大きな打撃を受けています。
大久保陣屋の跡について、自治体の公式な記載は見つかっていません。そもそも藩主が入部せず陣屋町もできなかったので、残るものが乏しいのだろうと思います。近隣の長沼城址には本丸・二の丸・三の丸の跡、土塁や堀の跡が残ります。
本多忠勝の孫たちの争い—九・六騒動
大久保藩の本多政利は、徳川四天王・本多忠勝の孫・本多政勝の子です。政勝は大坂の陣で戦死した忠勝の次男・忠朝の子で、播磨の姫路新田藩の主を経て、大和の郡山十五万石の藩主となりました。
寛文十一年(1671)に政勝が亡くなると、跡継ぎをめぐって家中が割れます。政勝の遺言により、家督は先代・本多政朝の子の本多政長が継ぐことになっていましたが、実子の政利がこれに強く不満を持ったのです。結局、十五万石は政長に九万石、政利に六万石と分けられ、二人のあいだの対立はその後も続きました。この「九万石」と「六万石」の争いを、「九・六騒動」と呼びます。政利側が政長の毒殺を企てたという話まで伝わり、幕府は延宝七年(1679)、政利を明石へ移して事を収めました。大久保の一万石は、その明石でも失政を咎められたあとに残された、最後の領地でした。
名門に生まれた殿様の転落
四天王の一人を祖父に持ち、十五万石の大名の子に生まれた政利は、郡山六万石、明石六万石、大久保一万石と領地を減らされ続け、最後は改易されて他家に預けられたまま生涯を終えました。忠勝の家はほかの家筋が大名として続き、本家筋は三河の岡崎藩主として幕末を迎えています(足助藩の項も参照)。同じ忠勝の子孫でも、行いひとつで道が大きく分かれたことになります。
猪を股で締めた殿様—本多政利と山本周五郎の小説
水戸家の娘を妻に
大久保藩主・本多政利の正室は、水戸藩祖・徳川頼房の娘です。政利が改易されたあと大久保村を治めた長沼藩主・松平頼隆は頼房の五男で、政利の正室の兄弟にあたります。領主が、義理の兄弟に替わったことになります。
九・六騒動と、重い年貢
政利は、郡山本多家の跡継ぎをめぐる「九・六騒動」で、大老・酒井忠清に働きかけて領地の分割を勝ち取った人です。大久保藩の領地は岩瀬郡の十一か村で、幕府領だった長沼領から切り分けられました。大桑原村に残る年貢の割符状によると、年貢は長沼領のころの約二倍で、災害のとき以外は減らされなかったとされます。
庄内、そして岡崎へ
改易された政利は庄内藩に預けられ、元禄六年(1693年)に須賀川を通って送られたとき、市の日だったため大勢が見物したといいます。庄内でも家臣への暴力が続き、元禄十五年(1702年)に岡崎の水野家へ預け替えになりました。罪は死罪に当たるほどでしたが、「狂気の沙汰」として軽くされました。息子の政真は伊予小松藩の一柳家に預けられています。
猪の逸話と、小説のモデル
政利は力持ちで大食いだったといい、明石時代、飼っていた猪が暴れて襲ってきたとき、笑いながら股で頭を締めつけて殺したという話が『明良洪範』に残ります。山本周五郎の小説「茶摘は八十八夜から始まる」は、岡崎に預けられていた時代の政利がモデルです。悪名高い殿様が、小説家の手で人間味のある人物として描き直される。歴史上の「悪役」の見方を変えてくれる話だと思います。



