慶応4年(1868)9月5日の早朝、会津若松の城下の北西、神指村の如来堂で、斎藤一の率いる新選組の一隊が新政府軍に襲われました。濃い霧のなか、気づいたときには敵は目の前にいました。わずか十数人の隊士は数百の敵に囲まれ、この戦いで新選組は全滅したと伝えられます。ところが実際には、斎藤一をはじめ何人かの隊士が生きのびていました。
この記事では、如来堂の戦いを、なぜ斎藤一たちは土方歳三と別れて会津に残ったのか、如来堂で何が起きたのか、そして「全滅」と伝えられた隊士たちのその後までを、進軍図を使ってわかりやすく解説します。母成峠の戦いのあと、会津戦争のさなかに起きた戦いです。
如来堂の戦いとは?ひとことで言うと
会津戦争のさなか、土方歳三らと別れて会津に残った斎藤一(当時は山口次郎と名のる)の新選組が、守っていた神指村の如来堂を、濃霧にまぎれた新政府軍に急襲された戦いです。十数人の隊士は数百の敵に囲まれて壊滅し、味方には全員討ち死にと伝わりました。しかし斎藤ら少なくとも数人は囲みを破って逃れ、会津藩が降伏する日まで城外で戦い続けました。
| 日時 | 慶応4年(1868)9月5日の早朝 |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国 会津 神指村の如来堂(現在の福島県会津若松市神指町)。上杉景勝が築きかけた神指城の跡 |
| 同盟側 | 新選組(隊長・山口次郎=斎藤一)。十数人(約20人とも) |
| 新政府側 | 薩摩藩・土佐藩・肥後藩などの部隊。数百人(300余とも500以上とも) |
| 結果 | 新選組は壊滅し、全員討ち死にと伝えられる。実際は斎藤一ら少なくとも数人が脱出し、会津降伏まで戦い続ける |
なぜ斎藤一は会津に残ったのか

母成峠の敗戦と会津城下の危機
慶応4年8月21日、会津の東の入口・母成峠が新政府軍に破られました。新選組も旧幕府軍の大鳥圭介らとともにこの峠を守っていましたが、敗れて退きます。新政府軍は一気に会津の城下へ攻め込み、8月23日には鶴ヶ城の籠城戦が始まりました。
土方歳三との別れ—「誠義にあらず」
このとき、新選組は大きな決断を迫られました。副長の土方歳三は、援軍を求めるため、旧幕府軍とともに仙台へ向かう道を選びます。仙台には榎本武揚の艦隊がやって来ようとしていました。
一方、斎藤一は会津に残ると言いました。「今、落城しようとしているのを見て、志を捨てて去るのは誠義にあらず」。新選組は京都の時代から会津藩に預けられ、会津藩主の松平容保に仕えてきた部隊です。その会津が滅びようとしているのに見捨てることはできない、というのです。隊士たちは話し合い、互いの考えを重んじて二手に分かれました。こうして斎藤のもとに、会津に残る十数人から二十人ほどの隊士が集まりました。

9月5日、如来堂の戦い

如来堂へ
9月に入ると、斎藤の新選組は会津の北西、喜多方の方面で戦いました。9月4日、会津藩の家老・萱野権兵衛が陣を張る高久村のあたりで戦いが始まり、その近くの如来堂の守りが手薄になります。斎藤たちは、それまで如来堂を守っていた衝鋒隊に代わって、この地に入りました。
如来堂は、かつて上杉景勝が会津に築こうとしてやめた神指城の跡にある、阿弥陀如来をまつるお堂です。会津の城下の北西にあたり、大川(阿賀川)を渡って高久へ向かう道の上にありました。

霧のなかの急襲
9月5日の早朝、あたりは深い霧に包まれていました。新政府軍の薩摩・土佐・肥後などの部隊は、只見川の方面で戦う会津兵の背後を突こうと、大川を渡って高久へ向かっていました。その進む道の上に、如来堂があったのです。
霧にさえぎられて、新選組は敵が近づくのに気づきませんでした。気がついたときには、数百の新政府軍が如来堂を取り囲んでいました。十数人の隊士は四方に向かって斬り込み、必死に戦いましたが、数の差はあまりにも大きく、陣はたちまち崩されます。清水卯吉・高橋渡・高橋文次郎・小幡三郎らが、ここで討ち死にしました。

「全滅」と伝えられた新選組
如来堂の知らせは、仙台へ向かう途中の新選組隊士たちにも届きました。そこでは、如来堂の新選組は全員討ち死にした、隊長の斎藤一も死んだ、と伝えられます。土方に従った隊士・中島登が描き残した隊士たちの肖像画「戦友姿絵」にも、斎藤一は如来堂で討ち死にした者として記されています。
ところが実際には、斎藤一をはじめ、池田七三郎・久米部正親・志村武蔵・河合鉄五郎・吉田俊太郎ら、名前のわかっている隊士のうち少なくとも6、7人が囲みを破って逃れていました。久米部正親はのちに、船で逃げたと語っています。
9月10日、大鳥圭介ら旧幕府軍は会津を離れて仙台へ向かい、如来堂で散り散りになった斎藤たちは会津に取り残されました。それでも斎藤は、会津藩の兵とともに城の外で戦い続けます。
その後—会津の降伏と斎藤一
9月22日、鶴ヶ城は開城し、会津藩は降伏しました。それでもなお、斎藤一はすぐには戦いをやめなかったといわれます。松平容保が送った使者の説得を受けて、ようやく投降しました。その後は越後の高田で謹慎の日々を送ります。


1か月にわたる籠城戦のすえ、9月22日に開城した鶴ヶ城(会津若松城)。いまの天守は昭和に再建されたもの(2023年10月撮影)
会津藩が斗南藩(いまの青森県)として再び立てられると、斎藤も会津の人々とともに斗南へ移りました。のちに藤田五郎と名を改め、会津藩士の娘・高木時尾と結婚します。東京に出て警視庁に入り、西南戦争にも加わりました。大正4年(1915)、東京で亡くなった斎藤一は、本人の願いにより、会津若松の阿弥陀寺に葬られています。
戦いの流れ(慶応4年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 8月21日 | 母成峠の戦い。新選組も守っていた峠が破られる |
| 8月23日 | 新政府軍が会津城下に攻め入り、鶴ヶ城の籠城戦が始まる |
| 8月下旬 | 土方歳三らは仙台へ、斎藤一らは会津に残ることに決め、新選組が二手に分かれる |
| 9月初め | 斎藤の新選組が喜多方方面で戦う |
| 9月4日 | 高久村のあたりで戦いが始まり、斎藤たちが如来堂の守りにつく |
| 9月5日 早朝 | 如来堂の戦い。濃霧のなか新政府軍に囲まれ、新選組は壊滅する |
| 9月10日 | 大鳥圭介ら旧幕府軍が会津を離れる |
| 9月22日 | 会津藩が降伏する。斎藤一はのちに投降する |
この戦いが示したもの
如来堂の戦いは、戦局を動かすような大きな戦いではありません。けれども、会津に恩を感じた者たちが、勝ち目のない戦いを最後まで選んだことをよく伝えています。土方歳三は新選組を生かすために北へ向かい、斎藤一は会津を見捨てないために残りました。どちらが正しかったということではなく、ふたつの「誠」が、ここで分かれたのです。
そしてもう一つ、戦場の知らせがいかにあいまいだったかも示しています。「全滅」「隊長も戦死」と伝えられた部隊から、実際には何人もが生きのびていました。斎藤一が明治・大正の世まで生き、会津の地に眠ることになったのも、この霧の朝を生き抜いたからでした。
現地を歩く—如来堂と阿弥陀寺
会津若松市神指町には、いまも如来堂が残り、「新選組殉難の地」として碑が立っています。まわりの田んぼのなかには、上杉景勝が築きかけた神指城の土塁の跡もわずかに残ります。会津若松の市街にある阿弥陀寺には、斎藤一の墓があり、新選組をしのぶ人々が今も訪れています。


筆者の感想
如来堂には、ずいぶん前に一度行ったことがあります。写真は残っていないのですが、田園風景のなかに小さな森があって、その森のなかにお堂がひっそりと建っていたのを覚えています。歴史の背景を知らなければ、なんの変哲もない、のどかな場所に見えるかもしれません。しかし、ここで凄惨な戦いがあったのですね。
濃い霧のなか、気がつけば数百の敵に囲まれていた。十数人で四方に斬り込んで、それでも囲みを破って逃げのびた。斎藤一は、よくもこの急襲のなかを生きのびたと思います。そして生きのびたあとも、会津が降伏するその日まで、城の外で戦い続けたのです。
土方歳三とともに北へ行く道もあったはずです。それでも「今、会津を見捨てるのは誠義にあらず」と残った。京都で会津藩に預けられてから、新選組にとって会津は特別な存在だったのでしょう。明治・大正の世を生き抜いた斎藤一が、最後は会津の阿弥陀寺に眠ることを望んだのも、この霧の朝のことを忘れなかったからではないかと思います。
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参考資料
- 伊藤哲也『史料集成 斎藤一』
- 中島登「戦友姿絵」「中島登覚書」
- 大鳥圭介『南柯紀行』
文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです


