【現地取材】飯野陣屋と保科家——房総の小藩に息づく幕末・会津とのきずな

千葉県富津市の丘陵地に、江戸時代の小藩・飯野藩の陣屋跡がひっそりと残っています。飯野陣屋(いいのじんや)は、譜代大名・保科家が一万七千石余りの居所として二百年以上治め続けた場所ですが、その血筋をたどると、幕末の会津藩とも深いつながりが見えてきます。濠跡や古墳、境内の神社まで、実際に現地を歩いて巡ってきました。

目次

飯野陣屋とは——保科家一万七千石の居所

飯野陣屋は、慶安元年(1648)に保科弾正忠正貞(ほしな だんじょうのじょう まささだ)が築いた陣屋です。正貞は信州高遠の城主・保科正光のもとに生まれ、早くから徳川家康に仕え、大坂夏の陣でも活躍したと伝わります。大坂城番などの功により上総国・下総国内に所領を与えられ、あわせて一万七千石余りを領する大名となり、飯野を居所と定めました。以後、保科家は転封されることなく、明治四年(1871)の廃藩置県まで実に八代・二百二十三年にわたって飯野の地を治め続けました。二代藩主・正景の代には所領が二万石にまで加増されています。城を持つことを許されなかった小さな藩ながら、陣屋の周囲には土塁と濠が巡らされ、その構えは「三陣屋の一」と称されるほど堂々としたものだったといいます。

飯野藩と幕末——照姫と会津籠城戦

飯野藩の歴史の中でもとりわけ幕末とのつながりが深いのが、藩主・保科正丕(まさもと)の三女として天保三年(1832)に生まれた照姫(てるひめ)の存在です。照姫は十歳のときに会津藩八代藩主・松平容敬(かたたか)の養女となり、二歳年下で後に九代藩主となる松平容保(かたもり)に書道や茶道、礼法の手ほどきをしたと伝えられます。容敬の娘・敏姫が亡くなった後、容保との縁組も話に上りましたが実現せず、照姫はそのまま会津藩の奥向きを取り仕切る立場となりました。慶応四年(1868)、戊辰戦争が会津に及ぶと、三十七歳になっていた照姫は再び会津へと赴き、会津若松城に入城。籠城戦のさなか、婦女子たちの陣頭に立ち、傷病者の看護にあたったと伝えられています。房総の小さな陣屋町にゆかりのある一人の女性が、遠く離れた会津の攻防戦の渦中に身を置いていたことに、歴史の縁の深さを感じずにはいられません。

飯野陣屋のご案内板に描かれた飯野陣屋概念図
「飯野陣屋のご案内」の案内板。本丸・二の丸・三の丸や濠、土塁の位置とともに、境内に残る古墳の配置も描かれている。

陣屋を彩る古墳群

飯野陣屋の敷地には、陣屋が築かれるよりずっと古い時代の古墳がいくつも残っています。案内板の絵図には、三条塚古墳・稲荷塚古墳・亀塚古墳・蕨塚古墳の名が見え、陣屋がこうした古墳群の点在する台地の上に築かれたことがわかります。城を築くことのできない小藩が、地形をそのまま生かして土塁と濠を巡らせ、防御の構えとしたのも納得できる眺めです。

「古墳 三條塚」「飯野陣屋跡」と刻まれた石柱
「古墳 三條塚」「飯野陣屋跡」と刻まれた石柱。奥には濠跡の碑も見える。

現地を歩いて感じたこと

実際に歩いてみると、飯野陣屋跡は思っていた以上にこぢんまりとした、静かな場所でした。案内板のすぐそばにある三条塚古墳には実際に登ってみましたが、雑草が生い茂り、あまり手入れが行き届いていない様子で、少し寂しさも感じました。すぐそばには濠跡も残っており、幅はそれほど広くありませんが、かつてここに陣屋を守る水堀が巡っていたのだと実感できます。境内には飯野神社もあり、参拝してお守りをいただいてきました。歴史の教科書には載らないような小さな史跡ですが、幕末の会津の攻防戦にまでつながる物語を秘めていると思うと、一歩一歩が感慨深いものでした。

飯野陣屋の敷地内に鎮座する飯野神社の鳥居
陣屋の敷地内に鎮座する飯野神社。鳥居をくぐった先に静かな社殿がある。

アクセス(所在地)

飯野陣屋跡は千葉県富津市の飯野地区にあります。濠跡や古墳、飯野神社などが一帯に点在しているため、周辺を歩いて巡るのがおすすめです。史跡としての整備は最小限にとどまっているため、訪れる際は歩きやすい服装で、季節によっては足元の草木にも注意するとよいでしょう。

まとめ

飯野陣屋は、慶安元年(1648)に保科正貞が築き、以後八代・二百二十三年にわたって保科家が治め続けた房総の小藩の拠点です。城を持たない小さな陣屋でありながら、藩主の娘・照姫を通じて会津藩と縁を結び、戊辰戦争の会津籠城戦にまでその名を残しています。濠跡や古墳、境内社が今も静かに残るこの地を歩くと、房総の片隅から幕末の激動につながる歴史の糸を感じることができます。保科家・飯野藩の歩みは全藩情報もあわせてどうぞ。

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