母成峠の戦いとは?会津藩の読みを外し、一日で会津の入口が破られた戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく

慶応4年(1868)8月21日、会津の東の山中にある母成峠に、新政府軍の大軍が攻め寄せました。会津藩が守りを固めていたのは別の峠です。濃い霧のなか、峠の守備隊は背後から回り込まれて崩れ、わずか一日で会津の入口が破られました。二日後、新政府軍は若松の城下へなだれ込みます。これが「母成峠の戦い」です。

この記事では、会津戦争の行方を決めたこの一日を、なぜ母成峠だったのか、どう戦われ、どう会津城下まで攻め込まれたのかの順に、進軍図とあわせて解説します。その前の戦いは白河口の戦い、峠に立った新選組の動きは会津の新選組で紹介しています。

目次

母成峠の戦いとは?ひとことで言うと

二本松を落とした新政府軍が、会津へ攻め込む入口として選んだ母成峠で、大鳥圭介らの同盟軍を一日で破った戦いです。会津藩は中山峠などほかの道を警戒しており、母成峠の守りは約800人しかいませんでした。新政府軍は約2,200人でここを突破し、猪苗代・十六橋・戸ノ口原を越えて、わずか二日で若松の城下に達しました。

日付 慶応4年8月21日(1868年10月6日)。若松城下への突入は8月23日
場所 陸奥 母成峠(現在の福島県郡山市熱海町と耶麻郡猪苗代町の境)
同盟軍 約800名。大鳥圭介の伝習隊、会津藩兵、仙台藩兵、二本松藩兵、新選組など
新政府軍 約2,200名。板垣退助(土佐)、伊地知正治(薩摩)ら。薩摩・土佐・長州・佐土原・大垣・大村の6藩
結果 同盟軍は一日で崩れ、新政府軍は猪苗代を経て8月23日に若松城下へ突入。会津藩は鶴ヶ城に籠城した

なぜ母成峠が戦場になったのか

二本松が落ち、次は会津

白河口の戦いで白河小峰城を奪った新政府軍は、7月29日に二本松城を落としました(二本松少年隊)。ここまで来ると、会津藩の国境はもう目の前です。

このとき新政府軍のなかでは、次にどこを攻めるかで意見が分かれました。江戸の大村益次郎は、まず仙台や米沢を攻めるよう指示します。けれども現地の板垣退助と伊地知正治は、「会津の兵が国境に出払っていて、城下が手薄な今のうちに会津を攻めるべきだ。雪が降る前に」と主張し、会津攻めが決まりました。

会津藩が警戒していたのは別の道

二本松から会津へ入る道は、いくつもありました。会津藩がもっとも警戒していたのは、二本松から猪苗代へ通じる街道の中山峠です。勢至堂峠や御霊櫃峠など南の道にも兵を置き、会津藩はもともと少ない兵を国境のあちこちに分けていました。

新政府軍の進む道は、板垣が東の御霊櫃峠を、伊地知が北の母成峠を推しました。話し合いの末に決まったのは、伊地知の案です。母成峠は道が険しく、大軍が通るには向かない峠でした。だからこそ、会津藩の守りは薄くなっていたのです。新政府軍は中山峠に陽動の部隊約800を送って会津藩の目を引きつけ、主力を母成峠に向けました。

両軍の顔ぶれと兵力

同盟軍 新政府軍
兵力 約800名 母成峠方面に約2,200名(ほかに中山峠への陽動約800)
部隊 伝習隊 約400、会津藩兵 約200(守将・田中源之進)、仙台藩兵 約100、二本松藩兵 約100、新選組若干 薩摩・土佐を主力に、長州・佐土原・大垣・大村の6藩
指揮 大鳥圭介 板垣退助・伊地知正治が主力1,300、谷干城が約1,000で勝岩へ、川村純義が別働隊300

大鳥圭介は、新政府軍の主力が母成峠に来ることをつかんでいました。けれども、守りの兵が足りません。そこで峠のふもとから頂上にかけて三段の台場(砲台)を築き、兵を奥へ深く並べて、少しでも長く持ちこたえる構えをとりました。

大鳥圭介の肖像写真
母成峠で同盟軍を率いた大鳥圭介(パブリックドメイン)
台場 場所 備え
第一台場萩岡木で作った大砲だけ
第二台場中軍山大砲2門
第三台場勝軍山(母成峠)大砲5門
勝岩台場勝岩峠の脇を守る

戦いの流れ ― 二本松から若松城下まで

母成峠の戦い 進軍図(慶応4年8月21日〜23日)。二本松を出た新政府軍は母成峠を破り、猪苗代・十六橋・戸ノ口原を越えて若松城下へ攻め込んだ
母成峠の戦い 進軍図(慶応4年8月21日〜23日)。会津藩が中山峠を警戒するあいだに、新政府軍は険しい母成峠を破り、二日で若松城下に達した

8月20日:前の日の戦い

戦いの前日、8月20日には、峠の手前で前哨戦がありました。大鳥圭介の伝習隊は30人あまりの死傷者を出しながらも、この日は新政府軍の進みを食い止めています。けれども伝習隊は、宇都宮から白河口、二本松と戦い続けて疲れきっていました。

8月21日朝:三段の台場が次々に落ちる

21日の朝9時ごろ、大砲の撃ち合いで戦いが始まりました。木の大砲しかない第一台場は、たちまち落ちます。第二台場も、新政府軍の山砲と長州藩兵の横からの攻撃を受けて燃え上がりました。峠の脇の勝岩の台場も、谷干城の率いる土佐藩兵に攻め立てられます。

同盟軍は頂上の第三台場で反撃しましたが、新政府軍は奪った第二台場に20門あまりの大砲を並べて撃ち込みました。

8月21日午後:濃霧のなかで背後を突かれる

峠には濃い霧が立ちこめていました。その霧のなか、新政府軍の一隊が間道から回り込み、同盟軍の背後に姿を現します。前と後ろから攻められた同盟軍は大混乱に陥り、会津藩兵は伝習隊を残して退いてしまいました。

最後まで踏みとどまった伝習隊も大きな損害を受け、大鳥の退却命令も届かないまま散り散りになります。午後4時すぎには、勝負はほぼついていました。会津の東の入口は、たった一日で破られたのです。

8月22日:猪苗代城の自焼と十六橋

母成峠を越えた新政府軍は、猪苗代へ向かいました。猪苗代城を守っていた城代の高橋権大夫は、守りきれないと見て、城と、会津藩祖・保科正之をまつる土津神社に火を放ち、若松へ退きます。

猪苗代湖の西の端、日橋川にかかる十六橋は、若松へ向かう道の大切な橋でした。会津藩の佐川官兵衛はこの橋を壊して新政府軍を止めようとしましたが、台風の豪雨のなかを急いで進んできた川村純義の隊に撃ちかけられ、壊しきれないまま退きます。新政府軍は橋を直して渡り、その夜のうちに戸ノ口原へ進みました。

8月23日:戸ノ口原から若松城下へ

23日、戸ノ口原で会津藩は最後の防戦を試みます。藩主の松平容保も、白虎隊などを率いて城下の東の滝沢まで出陣していました。けれども戸ノ口原の守りは破られ、容保は城へ引き返します。この戦いで敗れた白虎隊士中二番隊の一部が、飯盛山で自刃しました(飯盛山に散った少年たち)。

白虎隊を描いた錦絵「白虎隊英雄鑑」
白虎隊を描いた錦絵「白虎隊英雄鑑」(パブリックドメイン)

その日の午前10時ごろ、新政府軍は若松の城下へ突入しました。母成峠を破られてから、わずか二日のことです。会津藩は鶴ヶ城に立てこもり、およそ1か月におよぶ籠城戦が始まります。

会津若松の戦いを描いた錦絵「明治太平記之内 会津若松戦争之図」
会津若松の戦いを描いた錦絵「明治太平記之内 会津若松戦争之図」(パブリックドメイン)

戦いのあと ― 籠城、そして降伏

1か月の籠城

国境に出ていた会津藩の兵の多くは、城に戻ることもできないまま、新政府軍に城下を押さえられてしまいました。鶴ヶ城では、藩士の家族や少年、女性たちまでが籠城に加わります。この間に、仙台・米沢・庄内など奥羽越列藩同盟の藩が次々に降伏し、会津藩は孤立していきました。そして9月22日、会津藩は降伏します。籠城の日々は【現地取材】会津若松城(鶴ヶ城)と会津藩で紹介しています。

大鳥圭介と新選組のその後

土方歳三の肖像写真
土方歳三(パブリックドメイン)

母成峠で散り散りになった伝習隊は、大鳥圭介のもとに少しずつ集まり、会津の西へ逃れたのち仙台へ向かいます。土方歳三も仙台へ向かい、二人は榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地へ渡りました(箱館戦争)。一方、斎藤一はわずかな隊士とともに会津に残り、如来堂で新政府軍と戦っています。

この戦いが示したもの

母成峠の戦いは、守る側が「来ない」と思った場所を突かれた戦いでした。会津藩は広い国境のすべてを守る兵を持たず、来そうな道に兵を集めました。新政府軍はその裏をかき、険しい母成峠を選びます。

そして、ひとつの峠が破られただけで、その先の猪苗代城も十六橋も、守りの準備が間に合いませんでした。国境の外に兵を出していた会津藩は、城下を守る兵がいないまま新政府軍を迎えることになります。母成峠の一日が、会津戦争の行方を決めたといわれるのはそのためです。

現地を歩く ― 母成峠古戦場と鶴ヶ城

母成峠には、いまも台場の跡や戦死者の慰霊碑が残り、古戦場として整えられています。母成峠の古戦場については母成峠古戦場跡で紹介しています。新政府軍が二日で駆け抜けた道の先には、会津の人びとが1か月立てこもった鶴ヶ城と、白虎隊士が眠る飯盛山があります。

筆者の感想

大鳥圭介が鶴ヶ城での軍議で不在のときに攻めてきたと何かで読みました。会津藩が予想していた新政府軍の侵入口とも違っていたんですよね。いずれにしても猪苗代城での防御の態勢や十六橋の破壊の遅れなど、全部が後手後手でした。

まさか険しい母成から来るとは思ってもいなかったのでしょうねー。でも険しいからこそ強固な陣が敷けたともいえるのですけどね。

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あわせて読みたい

参考資料

  • 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社、1968年)
  • 大鳥圭介『南柯紀行』

文・写真:佐藤秀信(錦絵・肖像写真はパブリックドメイン)
※進軍図はイラストです

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