【藩名】
陸奥下村藩
【説明】
文政6年(1823年)、老中「水野忠成」や将軍「徳川家斉」の計らいもあって、「田沼意正」は意次時代の旧領の相良へ再び移されることとなり、下村藩は廃藩となりました。ちなみに、田沼氏が再び相良へ戻ることには幕閣の多くが反対したが、家斉はかつて意次が自身の将軍就任に協力したこと、意正自身に見所があったこと、さらに意次の名誉回復の意味もあって反対を押し切ったと言われています。
【廃藩のあと——幕末の下村】
下村は陸奥国信夫郡、いまの福島県福島市佐倉下です。田沼意正が相良へ戻ったあと、下村は幕府領となりました。信夫郡九十一村の内訳を見ると、幕府領四十一村、福島藩十九村、備中足守藩十一村、越後新発田藩七村、下総関宿藩六村、二本松藩四村、棚倉藩二村。信達地方らしく、領主が細かく入り組んでいます。
この地方の幕末を象徴するのが慶応二年(1866年)の信達世直し一揆です。物価の高騰、助郷の負担、そして蚕種や生糸の取り締まりを名目にした荷改め料の徴収に反対して農民が蜂起しました。六月十五日から七日八晩にわたり、四十九か村百六十四戸が打ちこわされています。指導者は金原田村の農民思想家・菅野八郎。武州世直し一揆と並ぶ、この年の代表的な一揆でした。生糸で潤う土地だからこそ、その取り締まりが火種になったのです。
戊辰戦争では福島藩が揺れます。当初は勤皇を表明していましたが、閏四月二十日の世良修蔵暗殺を経て奥羽越列藩同盟に加わらざるを得なくなり、白河城の奪還戦で戦死者を出しました。七月二十八日に開城を決め、九月二日に二本松で謝罪状を提出しています。
下村の陣屋跡には現在、稲荷神社と奥玉神社が鎮座し、陣屋を説明する案内板が立っています。この稲荷は田沼家が篤く信仰したもので、陣屋の一隅に祀られていました。田沼家が相良へ戻ったあとは名主宅に納められ、明治期にいまの場所へ社殿が造られたものです。
【陸奥下村藩・場所・アクセス】
福島県福島市佐倉下
福島県福島市佐倉下
【陸奥下村藩マップ】

