慶応四年正月、妙教寺の本堂を貫いた砲弾
京都市が公開している石碑の記録によりますと、鳥羽伏見の戦いは慶応四年正月三日の夕方に始まり、主戦場はしだいに淀の方面へ移っていきました。翌四日には淀古城域の南端にあたる妙教寺の本堂内陣へ砲弾が飛び込み、五日には淀の地で激しい戦闘が繰り広げられ、幕府軍は八幡方面へ敗走します。妙教寺には現在もその砲弾が保存され、本堂には弾の貫通した痕が残されています。淀の町がそのまま戦場であったことを、いまに伝える遺物です。
老中稲葉正邦と、城に留め置かれた慶喜の願書
幕末の淀藩主稲葉正邦は、嘉永元年に稲葉家十二代を継ぎ、文久三年に京都所司代、元治元年四月には老中へ進んで外国御用取扱も兼ねた人物です。慶応二年にふたたび老中となりますが、慶応四年二月にその職を解かれました。国文学研究資料館の紹介によりますと、上野寛永寺で謹慎していた徳川慶喜は正邦へ三通の願書を託しましたが、正邦は三島宿で官軍に行き会った際に焼き捨てたと偽って難を逃れ、願書はそのまま淀城に留め置かれ、朝廷へ届くことはありませんでした。
発掘が掘り当てた東曲輪の焼け跡
京都市考古資料館の文化財講座の資料によりますと、淀城跡の調査で家老屋敷の火災跡が平面的な広がりとして初めて確認されました。建物の礎石や地面が赤く変色し、火災処理の土坑からは焼けた瓦や土壁、溶けた陶磁器やガラスが出土しています。文献には東曲輪で被災した者として八太監物や稲葉七郎兵衛らの名が挙がっており、発掘の成果がそれを裏づけた形です。なお京都府教育委員会は、本丸と天守台の石垣に伏見城跡と共通する刻印があると説明しています。
淀城について
淀城は京都府京都市伏見区淀本町にあった徳川時代の城です。
豊臣秀吉の時代の淀城は「淀古城」と呼ばれています。

元和九年(1623年)、2代将軍「徳川秀忠」の命により「松平定綱」が三万五千石にて淀城へ入り淀藩を立藩しました。その後、松平定綱は備中へ移封となり「永井尚政」が十万石に入封し城や城下町の拡張へ努めました。永井氏の移封に伴い、石川氏、戸田氏、松平氏と次々と城主が変わりました。


享保八年(1723年)に稲葉正知が十万石で城主となってからは、幕末まで稲葉氏がこの地を治めました。幕末になると薩長と徳川幕府軍との間で「鳥羽伏見の戦い」が勃発し、徳川軍は敗れ譜代大名である淀藩稲葉氏の城で再起を図ろうとするが淀藩は入城を拒否、逆に砲撃を加えました。

明治時代に入ると廃城令に伴い淀城も破却され、現在残された遺構は石垣や水堀、天守台跡などです。さらに、淀城跡公園として整備が進み内堀などの復元が行われています。

淀殿の淀古城と、江戸時代の淀城
二つの淀城 「淀城」と呼ばれる城は、実は二つあります。一つは、豊臣秀吉が側室の茶々のために築いたとされる淀古城で、茶々はこの城にちなんで「淀殿」と呼ばれました。もう一つが、元和九年(1623)に徳川秀忠の命で松平定綱が築いた江戸時代の淀城で、いま城跡が残るのはこちらです。二つは少し離れた別の場所にありました。
水車の城 江戸時代の淀城は、宇治川・木津川・桂川が合わさるあたりに築かれた水の城でした。城には大きな水車が備えられ、川の水を城の中へ汲み上げていたことで知られ、淀の水車は絵や歌にも描かれています。いま城跡には石垣と堀の一部が残り、本丸跡には稲葉家ゆかりの稲葉神社が建っています。
淀城の縄張りと、最後の藩主
二条城から移された天守と、三重の堀
江戸時代の淀城は、本丸と二の丸を中心に、三の丸・西の丸・東曲輪を配した平城です。宇治川・木津川・桂川が集まる低地にあり、内堀・中堀・外堀の三重の堀で囲まれていました。
京都市埋蔵文化財研究所によりますと、天守は改修で不要となった二条城の天守を移したものです。この天守は宝暦六年(1756年)の落雷で焼け、その後は再建されませんでした。天守台は内部に穴蔵をもつ造りで、内堀の水面から約九・五メートルの高さがあります。石垣には伏見城の石材が転用されています。
城には天守のほかに三十八の櫓と二十一棟の門があったと伝わります。城の西と北には、直径約十六メートルの大きな水車が回っていたといいます。
二本松から来た最後の藩主
最後の藩主・稲葉正邦は、陸奥二本松藩主・丹羽長富の七男として生まれ、稲葉家に養子に入った人物です。鳥羽伏見の戦いのとき、正邦は江戸にいました。淀城では、留守を預かる藩士たちが、敗れて退いてきた旧幕府軍の入城を拒みます。この判断には、留守居役の田辺治之助が関わったとされます。明治に入ると正邦は神道の普及に力を注ぎ、明治十八年(1885年)には神道事務局の初代管長となりました。
石垣だけが残った城跡
廃藩置県ののち、城は廃されました。明治七年(1874年)には石垣が解体され、河川改修の資材に使われています。そのため、いま残るのは本丸と天守台の石垣だけです。本丸の南東部は京阪本線が貫き、城跡は昭和四十三年に淀城跡公園として整備されました。発掘調査では、東曲輪から長さ約三十六メートルの米蔵の跡や、水車の跡も見つかっています。
場所・アクセス・地図
京都府京都市伏見区淀本町



