記録の少ない新選組隊士12人—足立麟太郎・井上新左衛門・伊藤鉄五郎ほか

記録の少ない新選組隊士十二人をまとめた記事のカード画像

新選組には、名簿によって数え方は変わるものの、四百人を超える隊士がいました。そのうち大半は、名前と役職、せいぜい出身地しか伝わっていません。当サイトでは以前、そうした隊士にも一人ずつページを設けていましたが、書けることが少なく、同じ説明が何度も重なっていましたので、ここに十二人をまとめました。

並べてみると、記録の残り方にはいくつかの型があります。近藤勇の身のまわりにいた局長附の三人、永倉新八の記録にだけ名がある二人、名前の字が揺れて一人なのか二人なのか分からない二人、そして最後の数か月を箱館で過ごした二人などです。分からないことは分からないと書き、資料によって話が違うところはそう書いています。新しい資料が見つかった隊士は、あらためて一人のページとして書き直します。

目次

この記事でとりあげる隊士

足立麟太郎(局長附)

足立麟太郎
職名 局長附
出身 美濃
終焉場所 不明
終焉方法 病没

慶応三年に入隊しました。鳥羽伏見の戦いで負傷し江戸に帰還後に脱走します。維新後は開拓使や札幌区会議員などを勤め大正までの長寿を得ました。

北海道へ渡り、大正まで生きました

慶応三年に局長附として入り、鳥羽伏見で傷を負って江戸へ帰ったのち隊を脱けました。ここまでは同じ年の局長附の三人にほぼ共通していますが、足立麟太郎はそのあとの歩みがはっきりしています。維新後は開拓使に入り、札幌区会議員までつとめて、大正の世まで生きました。美濃の出です。

新選組から北海道へ渡った者は、ほかにもいます。近藤勇を撃った側の御陵衛士・阿部十郎も、維新後は弾正台から開拓使、北海道庁へ進み、役を退いてからは札幌で果樹園を営んでリンゴを作りました。近藤を撃った者と、近藤のそばに仕えた者が、のちに同じ札幌で暮らしていたことになります。

局長附という役

史料での呼び名は「局長付見習」で、局長・近藤勇の身のまわりに仕える役でした。護衛でも伝令でもなく小姓にあたり、見習の字がつくとおり、入って間もない者や下の立場の者が就いています。慶応三年は、六月に隊士が幕臣に取り立てられ、十一月に坂本龍馬が討たれ、十二月に近藤が撃たれた年です。その年に入った局長附の三人の行く末は、井上新左衛門が討ち死に、足立麟太郎が長寿、一色善之丞が行方知れずと、きれいに分かれました。

井上新左衛門(局長附)

井上新左衛門
職名 局長附
出身 不明
終焉場所 伏見街道
終焉方法 戦死

慶応三年に入隊しました。伏見墨染で御陵衛士残党に近藤が襲撃された時に護衛として奮戦し討ち死にします。

近藤勇が撃たれたその場で、討ち死にしました

伏見墨染で近藤勇が襲われたのは、慶応三年十二月十八日の夕刻です。油小路で伊東甲子太郎らを討たれた御陵衛士の生き残りが、ひと月後に近藤を狙いました。鉄砲を撃ったのは阿部十郎とされ、富山弥兵衛とする話もあります。近藤は肩を撃たれながらも落馬せず、伏見奉行所へ逃げ込みました。井上新左衛門は、その場に護衛として付いていて討たれた一人です。

撃った側の阿部十郎は、三十年以上のちに史談会でこのときのことを語っています。鉄砲のあとに槍でとどめを刺す役目だった篠原泰之進と加納鷲雄が、気後れしたのか槍を捨てて逃げてしまい、近藤が助かったのはそのためだ、という言い分です。もし二人が逃げなければ近藤はそこで死に、井上新左衛門の名も違う形で残ったかもしれません。

近藤のいない鳥羽伏見

傷を負った近藤は大坂城へ移って幕府の医師・松本良順の手当てを受け、翌月の鳥羽伏見の戦いでは隊の指揮をとれませんでした。隊を率いたのは副長の土方歳三です。井上新左衛門の死は、新選組が京都を離れる直前に局長の身辺を守った、最後の働きでした。ただし、墨染で死んだのが誰だったのかについては、石井清之進のところで書くように、記録が分かれています。

一色善之丞(局長附)

一色善之丞
職名 局長附
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 脱走

慶応三年に入隊しました。鳥羽伏見の戦いで負傷し、江戸帰還後に脱走します。以後の消息は不明です。

脱けたところで、記録が途切れました

慶応三年に局長附として入り、鳥羽伏見で傷を負って江戸へ帰ったあと隊を脱けました。その後は分かりません。足立麟太郎と途中までほとんど同じ道をたどりながら、一方は大正まで消息が追え、こちらは江戸で記録が切れています。

新選組の法度は隊を脱けることを許しませんでした。ただし江戸へ帰ったあとの慶応四年の春は、甲陽鎮撫隊として甲州へ出て敗れ、流山で近藤が投降するまで、隊そのものが形を失っていく時期です。この時期に去った者について、隊の側が行き先を書き留めた記録はほとんど残っていません。一色善之丞の消息が途切れるのも、その一つの表れです。

石井清之進(平隊士)

石井清之進
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 不明

近藤勇を守って死んだ、とされる隊士

この人には、慶応三年十二月十八日の墨染の襲撃で近藤勇に同行し、馬丁とともにその場で斬られたという話が伝わっています。石井勇之進と書く資料もあります。襲撃そのものが確かなことは、井上新左衛門のところに書いたとおりです。

ただし、根拠は永倉新八の記録だけです

この人物の名は、永倉新八の記録にしか出てきません。篠原泰之進の日記や島田魁の日記にもとづく墨染事件の記述には、供の者や隊士が死んだことが出てこず、同じ日に死んだとされる井上新左衛門と同一人物ではないかという指摘もあります。近藤を守って死んだもう一人なのか、井上新左衛門と同じ人なのか、確かめる手だてはいまのところありません。

永倉は明治九年、近藤勇と土方歳三の供養塔を板橋駅に近い滝野川(いまの東京都北区)に建て、その側面に隊士の名を刻みました。晩年には、自分の記憶と手控えをもとにした「同志連名記」も残しています。永倉が書き留めたから、この名前は残りました。そして、永倉が書き留めたことのほかに根拠がありません。

石井伊之助(平隊士)

石井伊之助
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 不明

永倉新八の「同志連名記」にのみ記載されている隊士です。

「同志連名記」にだけ残る名前

この隊士について伝わるのは、永倉新八の「同志連名記」に名があること、それだけです。出身も、入隊の時期も、最期も分かりません。

新選組の名簿には、島田魁の遺品で慶応元年ごろの隊士を記した『英名録』、慶応三年六月に幕臣に取り立てられたときの名簿、永倉の「同志連名記」など、いくつもの系統があり、載っている顔ぶれが一致しません(隊士名簿はなぜ食い違うのか)。一つの系統にしか出てこない名前は、短いあいだしか在籍せず、ほかの名簿が作られたときに居合わせなかったと読むこともできますし、記憶違いや別名の重複と読むこともできます。

「石井」姓で永倉の記録にしか出てこない人物は、石井清之進とこの人の二人です。同じ人を二度書いたのか、別の二人なのかも分かりません。なお、箱館まで戦った石井勇次郎は、ほかの記録にも名がある別の隊士です。

稲吉竜馬(平隊士)

稲吉竜馬
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 不明

天狗党から来たと書く資料があります

資料によってはこの隊士を「稲芳竜馬」と記し、短い来歴を添えています。下野の出身で、別名を稲葉五六郎あるいは伊藤竜馬といい、水戸天狗党が筑波山で挙兵したとき、獄につながれた同志を助け出そうとして役人を斬り、追われて京へ上って新選組に入ったが、身元を疑われてひそかに脱走した、という内容です。典拠の史料名が示されておらず、天狗党の側の記録でも確かめられていませんので、表の出身は「不明」のままにしてあります。

もし伝わるとおりなら、この人は追われる側から追う側へ回ったことになります。筑波山の挙兵は元治元年三月で、一党はのちに京を目指して西へ向かい、越前で降伏して三百五十人余りが斬られました(天狗党の乱とは何だったのか)。新選組には隊士の身元調べと隊内の監視を受け持つ監察の役があり、調べられて困る過去があれば、ひそかに抜けるのがいちばん安全な道です。話としては筋が通りますが、筋が通っていることと、あったことは別です。

稲芳雄三郎(平隊士)

稲芳雄三郎
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 不明

名鑑にだけ、もう少し踏み込んだ記述があります

典拠の史料名を示さないまま、この隊士について一歩踏み込んだ記述を載せている隊士名鑑があります。弘化二年の生まれ、出身は下総佐倉、慶応元年四月に江戸で入隊し、慶応三年六月より前に隊を離れた、という内容です。どの史料に拠ったのかが分からないため、表は「不明」のままにしてあります。

慶応元年四月の江戸といえば、土方歳三・伊東甲子太郎・斎藤一らが隊士を募りに下っていた時期にあたります。「慶応三年六月より前に離隊」という書き方は、幕臣に取り立てられたときの名簿に名が見あたらないところから逆算したものかもしれませんが、そう断った資料は見あたりません。出身が下総佐倉であれば、老中・堀田正睦の佐倉藩(堀田家十一万石)の城下から出た若者ということになります。

稲吉竜馬と同じ人ではないか、という説

稲吉竜馬を「稲芳竜馬」と記す資料があるため、姓の読みが同じになるこの人と同一人物ではないかという説があります。ただ、こちらは下総佐倉、稲吉竜馬は下野の出とされ、前歴もまったく重なりません。どちらの記述も典拠が示されていない以上、同じ人とも別人とも決められません。

甘地一撰(平隊士)

甘地一撰
職名 平隊士
出身 常陸土浦
終焉場所 不明
終焉方法 不明

慶応元年に入隊しました。鳥羽伏見の戦いで戦死とも江戸帰還後に脱走とも言われています。以後の消息は不明です。

常陸土浦から来た、と伝わる隊士

慶応元年に入隊し、最期については鳥羽伏見で戦死したとも、江戸へ帰ったあと脱走したとも言われて、定まっていません。「常陸土浦出身」という記述も、二つの最期の説も、出典をたどることができませんでした。活字の隊士名鑑が原典とみられますので、ここから先は、そう伝わっているという前提でお読みください。

土浦藩は土屋家九万五千石で、最後の藩主・土屋挙直は水戸藩主・徳川斉昭の十七男です。水戸と深くつながった藩で、元治元年三月には土浦のすぐ北の筑波山で天狗党が挙兵し、城下の近くも戦乱に巻き込まれました。甘地一撰が入隊したとされる慶応元年は、その翌年にあたります。

二つの最期

鳥羽伏見での戦死と、江戸へ帰ったあとの脱走では、まるで正反対です。それが両方伝わっているのは、この人の最期を確かめた人がいなかったということかもしれません。新選組の隊士名簿にはいくつもの系統があり、こうした食い違いは珍しくありません。

岩崎一郎(平隊士)

岩崎一郎
職名 平隊士
出身 盛岡
終焉場所 不明
終焉方法 病没

慶応三年頃に入隊しました。鳥羽伏見の戦いに参加して江戸に帰還します。後に脱走して彰義隊に入ります。以後は沼津に居住し旧隊士の竹内元太郎や結城無二三らと交流。明治三年に勝海舟のもとを訪れ翌4年に没しました。

別名は「南一郎」

盛岡の出で、慶応三年ごろの入隊とされます。鳥羽伏見の戦いに加わって江戸へ帰り、近藤勇の甲陽鎮撫隊を経て、敗れたあとは彰義隊へ移りました。上野戦争のあとは沼津での謹慎を命じられます。この隊士を調べると「南一郎」という別名に行き当たり、その名で沼津でのその後が伝わっています。

沼津で、旧隊士たちと

慶応四年五月、結城無二三が降伏して沼津で謹慎となったとき、すでに沼津にいた南一郎と再会したと伝わります。明治二年には石川武雄を加えた三人で江戸に潜み、日野の佐藤彦五郎、つまり土方歳三の義兄を訪ねています。そして明治四年一月八日、沼津の郊外で何者かに殺され、のちに結城無二三らが墓碑を建てました。表は終焉方法を「病没」としていますので、亡くなり方が食い違います。明治三年に勝海舟を訪ね、翌年に亡くなったという点は一致しています。

この話の出どころは一つです

典拠は、結城無二三の息子・結城禮一郎が父から聞いた話をまとめた『旧幕新撰組の結城無二三—お前達のおぢい様』(大正十三年)に集約されます。しかも結城無二三本人の新選組在籍は、慶応三年六月の名簿にも永倉新八の「同志連名記」にも名がなく、一次史料で確かめられていません。沼津での再会も明治四年の死も、結城家の回想という一つの系統から出た話です。それでも、隊を離れた者のその後が日付まで残っているのは珍しいことです。

伊藤鉄五郎(伍長)

伊藤鉄五郎
職名 伍長
出身 山城京都
終焉場所 白河城攻防戦
終焉方法 戦死

元治元年12月以前に入隊し三条制札事件に出勤。鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還します。その後、奥州白河小峰城の奪取戦に参戦し戦死しました。

白河で戦う姿が、絵に残っています

京都の出で、元治元年に入隊し、伍長、のちに差図役を務めました。慶応二年の三条制札事件にも出ています。この人がほかの隊士と違うのは、絵に描かれていることです。隊士の中島登が戦死した仲間を追慕して描いた『戦友姿絵』(市立函館博物館蔵)に、伊藤鉄五郎は白河で戦う姿で描かれています。

鳥羽伏見、甲州勝沼、そして白河

慶応四年正月の鳥羽伏見、三月の甲州勝沼と負け戦を重ね、白河口の戦いで戦死しました。没日は五月一日ごろとされますが、閏四月二十五日とする説もあります。享年二十九。白河口は会津藩と新政府軍が繰り返しぶつかった激戦地で、同じ新選組の蟻通勘吾もここで重い傷を負っています。

墓については、誤認の指摘があります

新宿の西念寺に「伊東鉄五郎」の墓碑があるとされてきましたが、これは「伊奈鉄五郎」という別人の墓で、「奈」を「東」と読み違えたものだという検証が出ています。本人の表記も「伊藤」と「伊東」で揺れており、名前の読み違いひとつで墓の主が入れ替わってしまう例です。

五十嵐伊織(函館新選組第一分隊)

五十嵐伊織
職名 函館新選組第一分隊
出身 会津
終焉場所 函館弁天台場
終焉方法 降伏

明治二年に青山次郎らとともに入隊し函館弁天台場の攻防戦にて負傷します。その弁天台場にて降伏し豊津藩に引き渡されます。以後の消息は不明です。

最後の三か月に入隊し、台場で撃たれました

会津の出です。鶴ヶ城が開城したのは明治元年九月で、故郷を失った直後に、この人は海を渡っています。明治二年に青山次郎ら一党とともに入隊し、函館新選組の第一分隊に入りました。五月十五日には弁天台場で降伏していますから、隊士でいられたのは長く見ても三か月ほどです。近藤勇にも沖田総司にも会ったことのない、蝦夷地の砲台の新選組だけを知る隊士でした。

弁天台場は箱館湾の入口を押さえる砲台で、五稜郭と同じ武田斐三郎の設計です。海には強くても、背後の市街を取られると孤立する造りでした。明治二年五月、箱館の市中が新政府軍に押さえられ、台場は海から艦砲射撃を受け、陸からも攻められて兵糧も尽きます。五十嵐伊織が傷を負ったのは、この戦いのなかです。五月十一日には土方歳三が一本木関門で戦死し、四日後に箱館奉行・永井尚志以下が降伏しました。

降伏のあと、五十嵐伊織は豊津藩(もとの小倉藩)へ引き渡されたとされます。会津から蝦夷地へ、そして豊前へ。そこから先の消息は分かりません。

上田安達之助(函館新選組第一分隊)

上田安達之助
職名 函館新選組第一分隊
出身 江戸
終焉場所 函館弁天台場
終焉方法 降伏

大橋山三郎の弟。新選組への入隊時期は不明です。明治二年弁天台場にて降伏しました。後に名古屋藩に引き渡され、以後の消息は不明です。

名簿に「大橋山三郎の弟」とあります

江戸の出で、函館新選組の第一分隊にいました。名簿には「大橋山三郎の弟」と書き添えられていますが、入隊の時期は分かっていません。兄と姓が違う理由も、兄が箱館まで来ていたのかも、名簿からは読み取れません。慶応四年十月に旧幕府軍が蝦夷地の鷲ノ木に上陸したとき、江戸も会津もすでに落ちていました。戻れないと分かっていた海を、この人は渡っています。

明治二年五月十五日、弁天台場で降伏しました。この日、隊士たちは相馬主計を隊長に選び、恭順の書状に連名しています。上田安達之助はその後、名古屋藩へ引き渡されました。同じ台場で降伏した五十嵐伊織が豊津藩へ送られたように、降伏した者はいくつもの藩に分けて預けられています。以後の消息は分かりませんが、降伏した者の多くは翌年までに許されていますので、生きて東京へ帰った見込みは低くありません。くわしくは箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏にまとめています。

ほかの隊士を見る

新選組の隊士は新選組隊士全456名の一覧にまとめています。名簿ごとに顔ぶれが違う理由は幕末の新選組、隊士名簿はなぜ食い違うのか、隊の歩みは新選組の年表をご覧ください。

参考資料:永倉新八「同志連名記」、結城禮一郎『旧幕新撰組の結城無二三』、市立函館博物館蔵『戦友姿絵』の解説、博物館・自治体の公開資料ほか。資料によって日付や名前の書き方が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

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