丹波亀山藩/松平家5万石:松平信正 戊辰戦争では新政府の山陰鎮撫使に降伏しその後新政府軍に従った亀山藩

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丹波亀山藩の歩み

慶長十四年(1609年)、徳川氏譜代の家臣である「岡部長盛」が下総山崎藩から移封され丹波亀山藩が再度立藩されました。長盛が亀山藩に入ったのは、大坂城の「豊臣秀頼」への抑えの役割もありました。岡部時代に亀山城下町の原型が出来上がったとされ、慶長十五年(1610年)、徳川幕府は西国大名を総動員して亀山城の築城を行いました。

丹波亀山藩/場所・アクセス・地図 松平家1万8千石:松平信正 戊辰戦争では新政府の山陰鎮撫使に降伏しその後新政府軍に従った亀山藩【幕末維新写真館】

江戸期を通じて多くの大名が入れ替わり立ち替わり城主を務めたが、寛延元年(1748年)、青山氏と入れ替わりで形原松平家の「松平信岑」が亀山藩主となり、亀山藩主家として定着しました。

慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」では新政府の山陰鎮撫使に降伏し、その後は東征に参加しています。(くわしくは山陰道鎮撫総督とは)明治二年六月十九日(1869年7月27日)、伊勢亀山藩との混同を避けるため「亀岡藩」と改称します。明治四年七月十四日(1871年8月29日)の「廃藩置県」により亀岡県となり、同年十一月に京都府に合併されました。

明智光秀の城下・丹波亀山藩

「明智光秀公築城亀山城址」の石柱と南郷池
「明智光秀公築城亀山城址」の石柱。奥の池は南郷池で、亀山城の外堀の名残です

丹波亀山藩は、丹波国(現在の京都府亀岡市)に置かれた藩で、藩主は譜代の松平家でした。居城の亀山城は、かつて明智光秀が丹波攻略の拠点として築いた城として知られ、京都の西を守る要地を治めた藩です。

丹波亀山城の外堀の名残、南郷池と遊歩道
南郷池のほとりの遊歩道

山陰鎮撫使への降伏

戊辰戦争において丹波亀山藩は、京都から山陰方面へと進む新政府軍(山陰鎮撫使)に降伏し、以後は新政府軍に従いました。京都に近い譜代大名として、進軍してくる新政府軍を前に現実的な選択をしたのです。京の西方を押さえる要衝がたどった、幕末の身の処し方を示しています。

丹波亀山藩をもっと深く—光秀の城と、二度壊された石垣

丹波亀山城跡の石垣と石碑
亀山城跡に残る石垣

本能寺へは、この城から出た

亀山城を築いたのは明智光秀です。丹波攻略の拠点としてこの地に城を構え、天正十年、光秀はここから軍を発して老ノ坂を越え、本能寺へ向かいました。歴史を変えた行軍の出発点が、この城下でした。

江戸に入ると、幕府は西国大名を総動員してこの城を大改修します。京都の西の関門を、幕府自身の手で固め直したわけです。以後、譜代大名が次々に入れ替わり、寛延元年(1748年)に形原松平家が入って幕末まで続きました。

「亀山」が二つあるという不便

江戸時代には、亀山藩が二つありました。東海道の伊勢亀山藩と、山陰道のこちらです。書状も人の噂も紛らわしく、実務上たびたび混乱を招きました。

明治二年、丹波側は「亀岡藩」と改称します。理由は記録に明記されている—伊勢亀山藩との混同を避けるため。現在の京都府亀岡市の名は、この改称に由来します。取り違えの多さが、そのまま地名を変えてしまった珍しい例です。

京都にいちばん近い譜代が、戦わなかった

鳥羽・伏見の砲声は、山を一つ越えれば聞こえる距離にありました。譜代大名として京都の西を押さえるこの藩には、態度を決める時間がほとんどなかったことになります。

山陰道へ進む新政府軍が丹波へ入ると、亀山藩は降伏し、以後は東征軍に従いました。同じ「亀山」でも、伊勢の亀山を治めた板倉家からは幕府最後の老中首座が出ています。名前の似た二つの藩が、幕末には正反対の位置に立っていました。

明治に壊され、大正に積み直され、昭和にまた壊された

廃城令で亀山城の建物は失われ、石垣も崩されました。ここまでは全国の城と同じです。この城が変わっているのは、その先でした。

大正時代、宗教団体の大本が荒れ果てた城跡を買い取り、信者の手で石垣を積み直して聖地として整えました。壊された城が、まったく別の理由でよみがえったのです。

ところが昭和十年、当局による弾圧事件が起こると、施設は徹底的に破壊されました。このとき建物だけでなく、積み直されたばかりの石垣までがダイナマイトで崩されています。城が二度、それぞれ違う時代の事情で壊されたことになります。

戦後、石垣はもう一度積み直されました。いま城跡は大本の敷地内にあり、受付を通せば見学できます。明智光秀が積んだ石が、四百年のあいだに二度崩され、二度戻された場所です。

道沿いに残る丹波亀山城の石垣
城の外側、道沿いにも大きな石を積んだ石垣が残っています

丹波亀山藩をもっと詳しく

藩の成り立ち—光秀のあとの城主たち

明智光秀は天正五年(1577年)に亀山城を築いて入り、これが亀岡の近世の始まりといわれます。本能寺の変の後、城には織田信長の四男で羽柴秀吉の養子となった羽柴秀勝(於次)が入り、その早世後は秀吉の甥・豊臣秀勝(小吉)が入りました。その後は城主が短い期間で次々に替わり、のちの小早川秀秋もその一人です。

文禄四年(1595年)には豊臣政権の京都所司代・前田玄以が入りました。玄以は関ヶ原の戦いでやむなく西軍に加わりましたが、家康に西軍の情報を伝えていたため戦後に領地を安堵され、ここに丹波亀山藩が成立しました。玄以の死後、子の茂勝が丹波八上藩に移ると、亀山は一時幕府の直轄地となっています。

譜代大名の入れ替わり

岡部長盛の後も、藩主家はたびたび替わりました。大給松平家、菅沼家(跡継ぎがなく慶安元年・1648年に改易)、藤井松平家、久世家、井上家、青山家と続き、短い期間で他の藩へ移される家が多く見られました。最後の青山家は丹波篠山藩へ移り、入れ替わりに篠山から形原松平家が入って、ようやく藩主家が定まりました。入封の年は資料により寛延元年(1748年)とも二年(1749年)ともされます。

先祖の戦国武将—形原松平家

形原松平家は、松平信光の四男・与副が三河国宝飯郡形原(今の愛知県蒲郡市形原町)を治めたことに始まると伝わります。形原は天然の良港で、周りの深溝松平家などと領地争いが絶えず、4代の松平家広のころには今川方についたり徳川方に戻ったりと揺れ動きました。5代の松平家忠は長篠の戦いで、6代の家信は小牧・長久手の戦いや小田原征伐で手柄を立てています。家康が関東に移ると上総国五井に移され、徳川水軍の一翼を担っていたとみられています。

元和四年(1618年)、家信は故郷の形原で1万石を与えられて大名となり、その後は摂津高槻、下総佐倉、再び高槻、丹波篠山と移って、亀山へたどり着きました。

戊辰戦争での動き

最後の藩主・松平信正は、幕末には佐幕派だったとされます。しかし王政復古の後、旧幕府方が朝敵とされると見切りをつけ、山陰道鎮撫総督・西園寺公望に帰順して新政府軍に加わりました。

藩主家の子孫・明治以降

形原松平家は明治二年(1869年)に華族となり、明治十七年(1884年)に信正が子爵となりました。信正は大蔵省や元老院の役職を経て、貴族院の子爵議員も務めています。

領地のようす

幕末の領地は、丹波国の桑田郡(58村)と船井郡(39村)、それに遠く離れた備中国浅口郡(7村)でした。天保年間の記録では、城のある桑田郡全体の石高4万6千石のうち、亀山藩の領地は1万8千石にすぎず、残りの藩領は他の郡や備中などの飛び地に分かれていました。このまとまりのない領地が、藩の財政を苦しめたともいわれます。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、5万石のこの藩はおよそ1,180人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「亀山藩 (丹波国)」「形原松平家」

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