【現地取材】岩崎城跡とは|慶喜が題字を書いた「表忠義」碑と、幕末の三草藩丹羽家につながる城

愛知県日進市の岩崎城。小牧・長久手の戦いで、城兵三百人ほどが池田恒興の大軍に攻められて全滅した城です。戦国の城として知られていますが、幕末歴史ガイドとして見ると、ここは播磨三草藩(兵庫県加東市)の丹羽家の「ふるさと」にあたります。

そして城跡の森の中には、明治四十三年に建てられた「表忠義」碑があり、その題字を書いたのは最後の将軍・徳川慶喜でした。

岩崎城の模擬天守(岩崎城歴史記念館)。昭和六十二年の建設で、当時の城に天守はなかった
岩崎城の模擬天守(岩崎城歴史記念館)。昭和六十二年の建設で、当時の城に天守はなかった
目次

先に答え—岩崎城と幕末のつながり

  • 岩崎城は丹羽氏(一色丹羽家)が四代六十二年にわたって居城とした城
  • 丹羽家はその後、三河伊保→美濃岩村→越後高柳→播磨三草と移り、幕末まで三草藩一万石の藩主だった
  • 幕末の藩主・丹羽氏中は慶応四年に新政府へ勤王誓書を出して上洛し、軍資金を献上した
  • 城跡の「表忠義」碑(明治四十三年)の題字は徳川慶喜の書
  • 先祖は徳川方として討死し、子孫は幕末に新政府側についた。その両方がこの城で見えてくる

城の概要—説明板を読む

本丸近くの説明板「城の概要」
本丸近くの説明板「城の概要」

城跡の説明板には、こう書かれています。

岩崎城は、室町時代末の平山城である。織田信秀(信長の父)により享禄年間(1528〜1531)に築城され、その後、徳川(松平)方に奪われたのち、天文七年(1538)丹羽氏清が本郷城から移ったと言われ、以後、氏識・氏勝・氏次の四代に渉って慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により三河伊保(豊田市猿投町大字上伊保)に一万石の小名として転封されるまでの六十二年間居城しました。

天正十二年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、織田信雄・徳川家康連合軍の後方攪乱を狙った豊臣秀吉方の先鋒池田恒興隊を阻止して、城代丹羽氏重(氏次弟)以下三百余名が討ち死にしたことが、織田・徳川軍を勝利に導いたと伝えられています。

城郭は、本丸、二の丸、東・西曲輪およびそれらを取り囲む堀や土塁等がよく遺存しており、昭和五十九〜六十一年度までの発掘調査の結果、貴重な資料が多数出土しました。

天守は昭和六十二年に建てられた模擬天守で、当時の岩崎城に天守はありませんでした。見るべきは天守より、森の中に残る空堀と土塁です。

本丸を囲む空堀。いまも深さがはっきり残る
本丸を囲む空堀。いまも深さがはっきり残る
空堀の説明板。断面図つき
空堀の説明板。断面図つき
隅櫓跡。本丸東南の張り出し部分で礎石建物の跡が見つかっている
隅櫓跡。本丸東南の張り出し部分で礎石建物の跡が見つかっている

記念館の展示—「丹羽氏の歴史」と「所領変遷」

天守の中は岩崎城歴史記念館になっていて、入館は無料です。ここに、幕末までの丹羽家の歩みをまとめたパネルがありました。

記念館のパネル「丹羽氏の歴史」
記念館のパネル「丹羽氏の歴史」

パネル「丹羽氏の歴史」の後半を書き起こします。

慶長五年(1600)、関ヶ原の参戦後、三河国伊保藩・一万石(御山前城)を与えられ、地方の一土豪から近世の譜代大名に昇格した。その子氏信も大坂の陣等で活躍し、寛永十五年(1638)、美濃国岩村藩(岩村城)二万石へと栄転した。しかし、四代後の氏音のとき、家中騒動が起こり、元禄十五年(1702)、越後国高柳藩一万石に国替えとなる。その後を次いだ薫氏は幕府の信頼が厚く、大坂城の警備役を務めるなど、幕府の要職を歴任し、その領地を元文四年(1739)美作及び河内国の内に移される。そして、寛保二年(1742)、播磨国三草藩一万石を与えられ、氏栄、氏福、氏昭、氏賢、氏中と継承され、明治四年(1871)の廃藩置県を迎え、大名丹羽氏の歴史は終わる。

記念館のパネル「丹羽氏の所領変遷」。尾張から播磨まで六か所
記念館のパネル「丹羽氏の所領変遷」。尾張から播磨まで六か所

隣の「丹羽氏の所領変遷」のパネルは、移った先と年数を一覧にしています。

所領 当主 期間
尾張国【岩崎城】六千貫 氏清—氏識—氏勝—氏次 天文六年〜慶長五年(64年間)
三河国伊保藩・一万石【御山前城】 氏次—氏信 慶長五年〜寛永十五年(39年間)
美濃国岩村藩・二万石【岩村城】 氏信—氏定—氏純—氏明—氏音 寛永十五年〜元禄十五年(65年間)
越後国高柳藩・一万石【高柳陣屋】 氏音—薫氏 元禄十五年〜元文四年(38年間)
美作及び河内国の内へ領地替え・一万石 薫氏 元文四年〜寛保二年(4年間)
播磨国三草藩・一万石【三草陣屋】 薫氏—氏栄—氏福—氏昭—氏賢—氏中 寛保二年〜明治四年(130年間)

尾張から三河、美濃、越後、そして播磨へ。城持ちの二万石から、陣屋の一万石へ。お家騒動で格を下げられながらも、家は明治まで続きました。いちばん長くいたのは最後の三草で、百三十年です。なお、岩崎城の始まりを説明板は「天文七年」、パネルは「天文六年」としていて、一年ずれています。

小牧・長久手の戦いと岩崎城

記念館の図「三河『中入』作戦と岩崎城」。天正十二年四月六日〜九日の両軍の動き
記念館の図「三河『中入』作戦と岩崎城」。天正十二年四月六日〜九日の両軍の動き

記念館の図は、天正十二年(1584)四月の「三河中入り」作戦を描いています。小牧山の家康と犬山・楽田の秀吉がにらみ合うなか、池田恒興・森長可・堀秀政・三好秀次(のちの豊臣秀次)の別働隊が、家康の本拠・岡崎をつこうと南下しました。その途中にあったのが岩崎城です。

このとき城主の丹羽氏次は家康の本陣にいて、城を守っていたのは弟の氏重でした。図には、丹羽氏次が徳川軍の追撃の先導役を務めたことも書かれています。兄は案内役として家康の側で戦い、弟は城で討死した。丹羽家が関ヶ原後に大名になれたのは、この戦功が家康に認められたからだと、記念館の「丹羽氏の歴史」も書いています。

慶喜が題字を書いた「表忠義」碑

森の中に立つ「表忠義」碑
森の中に立つ「表忠義」碑
「表忠義」碑の説明板(音声ガイド20)
「表忠義」碑の説明板(音声ガイド20)

本丸から少し下った森の中に、大きな石碑が立っています。「表忠義」碑です。説明板を書き起こします。

この石碑は、明治四十三年(1910)四月九日、旧尾張藩士・丹羽精五郎氏等を発起人に、丹羽忠道氏の文章で綴られたものです。題字「表忠義」は、徳川幕府最後の将軍・慶喜の書で、小牧・長久手の戦いの際、岩崎城が徳川方の城として戦い、全員討死したことを家康に対する忠義の表れという意味で使用したものと思われます。

(以下は碑文の要約)岩崎城は名古屋の東、南に向かえば岡崎、北方には小牧があるという位置にあり、天正十二年(1584)、敵将・池田信輝(恒興)が城下を行軍しようとしたとき、城を守っていた丹羽氏重十六才は危険を案じていましたが、母親に励まされながら老人、幼い者、婦女等を城外の妙仙寺に避難させ、白馬に跨り長槍を携え打って出ました。家来、里人、商工業者、旧恩ある者などが弓・鉄砲を乱発したことに信輝は激怒し、一万余りの軍勢で城を攻撃しました。三百名に過ぎない城兵は防戦しましたが辰下刻(午前八時〜九時頃)に落城しました。

池田軍は六坊山において首実検を行い勝利を誇っていたところ、後方の総大将・三好秀次の本隊が追撃されたことを知り、驚き長久手まで引き返しますが、ここで徳川勢と戦い敗北します。この小牧・長久手の戦いについて『日本外史』(一八二七年・頼山陽著)は「徳川家康の天下取りは大阪の陣、関ヶ原の戦いにあらず、小牧にあり」と評価しています。

岩崎城の玉砕防戦を後世に伝えるため、岩崎村の人々、遺族及び縁故者、有志の人々により、ここに石碑が建立されました。裏面には氏重以下、長湫城主・加藤景常(四十二才)をはじめ、姓名・また無名騎士十六、足軽約六十、弓手三十八、戦士四十八人の城下の商工業者三十人が討死したことが刻まれています。

明治四十三年、慶喜は七十三歳で、東京で静かに暮らしていました。大政奉還から四十三年。将軍の座を降りた人が、三百年以上前に家康への忠義で死んだ人々のために「表忠義」の三文字を書いた。発起人は旧尾張藩士です。尾張藩は御三家でありながら、戊辰戦争では新政府側についた藩でした。その藩の元藩士が、明治の終わりに慶喜の題字で徳川への忠義をたたえる碑を建てている。幕末を生きた人たちの複雑な気持ちが、この一本の碑に重なって見えます。

碑文に出てくる『日本外史』は頼山陽の歴史書で、幕末の志士たちに広く読まれた本です。「家康の天下は小牧で決まった」という評価も、幕末の人々がこの本を通して知っていたものでしょう。

妙仙寺—藩とともに旅をした菩提寺

碑文で、氏重が老人や女性、子どもを避難させた先として出てくるのが「妙仙寺」です。

丹羽家の菩提寺も妙仙寺という名で、この寺は藩とともに移りました。元禄十五年に岩村から越後高柳へ、延享三年(1746)には高柳から播磨の三草へ。藩主が城を失い、国を替えられても、菩提寺は一緒に旅をしたのです。三草藩は参勤交代をしない江戸定府の大名で、藩主は三草にはほとんど帰りませんでしたが、先祖をまつる寺は領地に置かれていました。

岩崎城から幕末の三草藩へ

では、幕末の丹羽家はどう動いたのか。三草藩の最後の藩主・丹羽氏中は、天保七年(1836)生まれです。

  • 幕府の軍事職:文久三年(1863)九月、旗本を率いる大番頭に就任(慶応三年三月に解任)
  • 新政府へ:慶応四年(1868)二月二十六日、新政府に勤王誓書を提出。三月二十二日に上洛して恭順を示した
  • 戊辰戦争:一万石の小藩として兵を出すかわりに、新政府軍へ軍資金を献上して協力した
  • 明治以降:明治二年に知藩事、明治四年の廃藩置県で三草県に。家督を継いだ子の丹羽氏厚が明治十七年に子爵となった

先祖の氏重は、徳川への忠義のために十六歳で城に散りました。その子孫は二百八十年あまり後、譜代大名でありながら徳川を離れて新政府についています。一方で、明治の終わりにその氏重を「表忠義」とたたえる碑の題字を書いたのは、最後の将軍・慶喜でした。忠義の向きが、時代によってくるりと入れ替わる。それでも家は残った。岩崎城の森を歩いていると、そんなことを考えさせられます。

城跡の建設誌

「岩崎城の建設誌」碑。昭和六十二年の城閣建設の経緯が刻まれている
「岩崎城の建設誌」碑。昭和六十二年の城閣建設の経緯が刻まれている

天守の脇の「岩崎城の建設誌」碑によれば、岩崎城は廃城のあと四百年近く荒れ地となっていましたが、昭和五十九年、落城の日にちなむ四月九日に四百年祭が地元で営まれ、これを機に古城址の整備が進められました。昭和六十二年五月に城閣が竣工し、岩崎城址公園となっています。日進市の人々の、この城への愛着が伝わってくる碑でした。

歩いてみて

天守に登ると日進の町が一望できますが、この城の本当の見どころは森の中です。深い空堀、土塁、隅櫓跡、そして「表忠義」碑。音声ガイドの番号つきの説明板が順に立っていて、ひとつずつ読みながら歩けます。

行く前は「小牧・長久手の戦いの城」としか思っていませんでした。記念館の所領変遷のパネルを見て、この家が三草藩として幕末まで続いたことがつながり、碑の題字が慶喜だと知って、幕末の側からも見える城になりました。三草陣屋跡(兵庫県加東市)もいつか訪ねて、この家の「旅の終着点」を見てみたいと思います。

アクセスと地図

岩崎城址公園の案内図
岩崎城址公園の案内図

岩崎城(岩崎城歴史記念館)/愛知県日進市岩崎町市場67。入館無料、9時〜17時(入館は16時30分まで)、月曜休館(祝日の場合は開館)、年末年始休館。北側入口に無料駐車場があります。電車なら地下鉄東山線の赤池駅から日進市のくるりんばすで約15分。今回は車で、長久手古戦場と組み合わせて回りました。長久手の古戦場とは近いので、一緒に回るのがおすすめです。

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文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)

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