東京・大田区の洗足池のほとりに、勝海舟夫妻の墓と、西郷隆盛の留魂詩碑が並んで立っています。建てたのは勝です。江戸城の明け渡しを交渉で決めた二人が、いまも隣り合って池を見下ろしています。
2026年10月25日に歩いてきました。墓所、留魂詩碑と留魂祠、勝海舟記念館、洗足軒跡、そして日蓮上人ゆかりの御松庵まで。現地の案内板は、読めるものはすべて書き起こしました。二枚の案内板が食い違っている箇所も見つけたので、そのまま載せます。

先に答え—洗足池で何が見られるか
- 勝海舟夫妻墓所(大田区指定史跡)。勝が生前に描いた五輪塔の絵をもとに作られた墓石
- 西郷隆盛(南洲)留魂詩碑。勝が西郷の三回忌に自費で建てたもの
- 留魂祠、南洲先生建碑記、勝海舟追慕碑、徳富蘇峰詩碑—詩碑のまわりに五つの石碑
- 大田区立勝海舟記念館(旧清明文庫)
- 勝海舟別邸「洗足軒」跡の案内板
- 日蓮上人袈裟掛けの松と御松庵(妙福寺)、名馬池月の像
まず、池を一周する
駅を降りてすぐ池です。地図の看板があるので、先に全体を頭に入れておくと回りやすくなります。



池のほとりに馬の像が立っています。源頼朝の名馬「池月」がこの池で見つかったという伝説にちなむものです。幕末とは関係がありませんが、洗足池といえばこの馬、という顔になっています。
大田区立勝海舟記念館
池の西側、坂を少し上がったところに記念館があります。建物は昭和八年(一九三三)に建てられた旧清明文庫。国の登録有形文化財です。



館内には勝の等身大パネル、胸像、洗足軒の資料が並びます。語録が映像で流れていて、足が止まりました。






勝海舟夫妻墓所—案内板を全文で読む
記念館から歩いてすぐ、「西郷隆盛留魂詩碑/勝海舟の墓入口」と刻まれた石の標柱が立っています。ここから石段を上がります。







大田区教育委員会の案内板(令和七年三月)に、こう書かれています。
勝海舟(大観院殿)とたみ夫人(大慈院殿)の墓。共に青山の石工・鈴木猛麟の手による。
明治三十二年(一八九九)一月十九日夕刻、赤坂氷川邸で倒れた海舟は、近親者に看取られながら七十七年の生涯を終えた(同二十一日発喪)。二十五日午前九時から青山で葬儀が執り行われ、午後一時出棺。海陸軍の儀仗兵・楽隊に前後を守衛されながら海舟遺愛の洗足池へと進み、遺骸は同日中に埋葬された。後日、海舟が生前に描いた五輪塔の絵をもとに墓石が作られ、十一月五日に竣成している。なお、水輪に刻まれた「海舟」の字は、かつて海舟の後見を受けた公爵・徳川家達の揮毫である。
一方たみ夫人は、海舟死後の家中で重きをなし、明治三十八年(一九〇五)五月二十三日に没した(享年八十五)。その墓石は海舟のものに準じて造られ、当初は長男小鹿・栄子夫妻が眠る青山墓地に設けられていたが、昭和二十八年(一九五三)七月に亡夫の横に改葬され、現在に至る。

気になった点が三つあります。葬列が海軍と陸軍の儀仗兵に守られていたこと。墓石のかたちを勝自身が描き残していたこと。そして「海舟」の二文字が、十六代徳川家達の筆だということ。家達は、勝が後見した人です。
たみ夫人が隣に移されたのは、勝の死から五十四年後の昭和二十八年でした。
隣に立つ、西郷隆盛の留魂詩碑
墓のすぐ隣が留魂詩碑です。勝が、西郷の三回忌にあたる明治十二年(一八七九)に、自費で建てました。
刻まれているのは、西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩「獄中有感」。詩も、その筆跡も、勝が遺したものです。


人世の浮沈は 晦明に似たり
縦ひ光を回らさざるも 葵は日に向ふ
若し運を開く無きも 意は誠を推さむ
洛陽の知己 皆鬼と為り
南嶼の俘囚 独り生を竊む
生死何ぞ疑はむ 天の附与なるを
願はくは魂魄を留めて 皇城を護らむ
—獄中感有り 南洲
最後の一行、「願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ」。この句から、留魂詩と呼ばれるようになりました。
区の案内板によれば、碑はもともと葛飾区の浄光寺にあり、大正二年(一九一三)の荒川開削工事にともなって、この地へ移されています。

この案内板が親切で、まわりに立つ石碑を五つに分けて説明してくれます。
- ① 留魂詩碑—明治十二年、勝が自費で建立
- ② 留魂祠—明治十六年(一八八三)、西郷の七回忌に、勝が同志たちに碑の存在を明かし、傍らに建てられた小祠
- ③ 南洲先生建碑記—詩碑の工事を勝に任された玉屋忠次郎が明治十六年に建立。谷中の石工・群鶴が彫り、浄光寺まで運んだ経緯が記されている
- ④ 勝海舟追慕碑—大正二年、勝の門下生・富田鐵之助が建立
- ⑤ 徳富蘇峰詩碑—昭和十二年(一九三七)、勝の門下生の一人だった徳富蘇峰に詩を書いてもらい建てたもの。勝と西郷が江戸庶民の命を救った偉業を称える内容
今回の写真に写っているのは、①留魂詩碑、②留魂祠、⑤徳富蘇峰詩碑の三つです。③南洲先生建碑記と④勝海舟追慕碑は撮り逃しました。案内板の写真で見るかぎり、どちらも背の高いかまぼこ型の石碑です。
そのかわり、案内板には載っていない大きな横長の碑がありました。昭和十四年(一九三九)四月、東京市長・小橋一太が記したもので、慶応三年十二月から明治元年三月にかけての江戸開城の経緯が刻まれています。



留魂祠の由緒—南洲会の板を全文で読む
留魂祠の前に、南洲会が掲げた由緒の板があります。これが今回いちばん心に残りました。

一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)・勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡しを交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが、勝先生は晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。
明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑され、さらに明治十六(一八八三)年、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
この留魂祠は、もと葛飾の寺の境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなお相並んで、我国の将来を見守っておられるのです。
最後の一文です。石碑を並べたのは勝の意思で、そのあと百年以上、二人はここに並んでいます。
勝海舟別邸「洗足軒」跡
池の反対側に、別邸の跡を示す案内板があります。建物は戦後まもなく焼失し、いまは板だけが残っています。

板によれば、勝がこの土地を知ったのは、鳥羽・伏見の戦いのあとのことでした。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者・津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(一八九一)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し…
池上本門寺へ向かう道の途中に、たまたま通りかかった。それが縁でここに住み、ここに墓を作った。土地の仲立ちをしたのが津田梅子の父だった—このあたりは、来てみないと知らない話でした。
建物は茅葺きの農家風だったそうです。勝は「富士を見ながら土に入りたい」という思いから、生前に別邸の裏手の丘へ墓所を造っています。

二枚の案内板が、食い違っています
現地で気づいたことを、そのまま書いておきます。
墓石に刻まれた「海舟」の二文字が、誰の筆なのか。二枚の案内板で説明が違います。
場所は、勝海舟の墓石そのものです。勝の墓は五輪塔のかたちをしていて、区の案内板は「水輪に刻まれた『海舟』の字」と書いています。水輪は、下から二段目の丸い石の部分です。


| 案内板 | 「海舟」の字は誰の筆か |
|---|---|
| 勝海舟夫妻墓所(大田区教育委員会・令和七年三月/監修 勝海舟記念館) | 公爵・徳川家達の揮毫 |
| 勝海舟別邸(洗足軒)跡(洗足風致協会・平成十一年三月) | 徳川慶喜の筆と伝えられる |
別々の石のことではありません。洗足軒跡の板は「石塔の『海舟』の文字」、区の板は「水輪に刻まれた『海舟』の字」と書いています。石塔は五輪塔全体、水輪はその一部です。どちらも、勝海舟ただ一人の墓石を指しています。
年代に無理もありません。墓石が竣成したのは明治三十二年十一月。慶喜(一八三七—一九一三)も家達(一八六三—一九四〇)も存命でした。どちらもありえたからこそ、どちらかが誤って伝わったのだと思われます。
家達は徳川宗家十六代、慶喜は十五代将軍です。どちらが正しいのかは、ここでは判断できません。ただ、新しいほう(令和七年・勝海舟記念館監修)が家達としていることは書き添えておきます。
日蓮上人袈裟掛けの松と御松庵
池のほとりには、幕末より六百年ほど古い伝説も残っています。日蓮上人が池のほとりで足を洗い、松に袈裟を掛けたという話です。「洗足池」の名の由来とも言われます。



あわせて読みたい
参考にした資料
- 現地の案内板(勝海舟夫妻墓所/大田区教育委員会・令和七年三月、監修 勝海舟記念館)
- 現地の案内板(西郷隆盛(南洲)留魂詩碑付近 案内板/大田区教育委員会事務局 文化財担当)
- 現地の案内板(留魂祠 由緒/南洲会)
- 現地の案内板(勝海舟別邸(洗足軒)跡/公益社団法人 洗足風致協会・平成十一年三月)
- 現地の案内板(日蓮上人袈裟掛けの松 由来)
- 写真はすべて2026年10月25日に筆者が撮影


