小栗忠順はどう出世したのか——屋敷の中の漢学塾、直心影流の免許皆伝、勘定奉行四度の役職年表

旗本屋敷で書物を読む少年時代の小栗忠順と、庭で木刀の稽古をする人々(イメージ)

勝海舟は、貧しい旗本の家に生まれながら、剣術と蘭学で身を立て、大久保一翁(忠寛)に見出されて世に出ました。立身出世の物語としてよく知られています。

では、小栗上野介忠順はどうだったのでしょうか。どんな師について何を学び、どんな道筋で勘定奉行にまでのぼったのか。この記事では、小栗の修業時代と、役職の移り変わりを年表で追います。

目次

八歳で漢学、先生は屋敷の中にいました

小栗は文政十年(1827年)、江戸・神田駿河台の小栗家の屋敷で生まれました。幼名は剛太郎。子どものころは意地っ張りで、まわりから「頑童」と呼ばれたと伝わります。

八歳から学んだのが、儒学者・安積艮斎の私塾「見山楼」です。この塾は、ほかならぬ小栗家の屋敷の中にありました。小栗は自分の家の敷地で、当代一流の儒学者に学ぶことができたわけです。ここで知りあったのが、のちにフランス通の幕臣として小栗を支える栗本鋤雲でした。

剣術は直心影流の免許皆伝——勝と同じ師の門をくぐっています

武術は、剣術を島田虎之助に学び、のちに藤川整斎について直心影流の免許皆伝を許されたとされます。

島田虎之助は、勝海舟の剣の師でもあります。勝は島田のもとで修業し、天保十四年(1843年)ごろ、二十一歳前後で直心影流の免許皆伝を得ました。のちに正反対の道を歩む二人が、若いころ同じ剣客の門をくぐっていたことになります。

このほか、砲術を田付主計に、柔術と山鹿流の兵学を十九歳から四年間、窪田助太郎清音に学びました。漢学、剣術、柔術、砲術、兵学と、上級旗本の跡取りとして、ひととおりの文武を身につけています。

十七歳で初登城し、番方から出世の道に入ります

小栗が初めて江戸城に登ったのは、天保十四年(1843年)、十七歳のときです。文武の才を認められ、若くして両番(書院番・小姓組番)の一つに入りました。弘化四年(1847年)には西の丸の書院番に登用されています。

両番は、将軍の警護にあたる番方の中でも格の高い役で、家柄のよい旗本の子が最初に入るところでした。ここから使番、目付、そして奉行へと進むのが、上級旗本の出世の道筋です。小栗は、この道をほぼそのとおりに進んでいきます。

嘉永六年(1853年)、ペリーが来航した年には進物番に移り、十三代将軍・徳川家定の近くに仕えました。安政二年(1855年)、父の小栗忠高が新潟奉行在任中に亡くなり、二十九歳で家督を継いで「又一」を名乗ります。

使番から目付へ——井伊直弼の抜擢

大老・井伊直弼の前で、遣米使節の目付を命じられる小栗忠順(イメージ)
大老・井伊直弼の前で、遣米使節の目付を命じられる小栗忠順(イメージ)

安政四年(1857年)、小栗は使番となりました。そして安政六年(1859年)九月十二日、目付に進みます。翌日には、日米修好通商条約の批准書を交換する遣米使節に加わるよう命じられました。

このとき小栗を抜擢したのは、大老・井伊直弼だと言われています。使節の目付は、表向きは一行の監察役ですが、小栗には金銀の交換比率をアメリカと話しあうという役目もありました。井伊は、小栗の経済の知識に目をつけたとされます。同じ年の十一月、小栗は従五位下・豊後守となりました。

勝が、ペリー来航の年に出した海防の意見書を大久保一翁に認められ、そこから蘭書翻訳の役、長崎の海軍伝習所へと、能力で道を切り開いていったのとは対照的です。小栗は、家柄に合った番方の道を順に上がり、目付という「出世の関門」を通ったところで、大老に見込まれました。

帰国後の役職年表——辞めては呼び戻される

万延元年(1860年)九月、アメリカから世界を一周して帰国した小栗は、ここから慶応四年(1868年)の罷免まで、めまぐるしく役職を移ります。

年月日できごと
万延元年(1860年)十一月八日外国奉行に昇進。十二月、渡米の功で200石加増され2,700石
文久元年(1861年)七月二十六日ロシア軍艦の対馬占領事件の処理で意見が通らず、外国奉行を辞める
文久二年(1862年)六月五日勘定奉行(勝手方)に就く
文久二年閏八月二十五日江戸南町奉行に移る
文久二年十二月一日歩兵奉行に就く(勘定奉行を兼ねたとする資料もある)
文久三年(1863年)四月二十三日勘定奉行などを辞め、寄合に。この年、豊後守から上野介に改める
文久三年七月十日陸軍奉行並に就くが、七月二十九日に辞める
元治元年(1864年)八月十三日勘定奉行(勝手方)に戻る
元治元年十二月十八日軍艦奉行に移る
慶応元年(1865年)五月四日ふたたび勘定奉行(勝手方)に。この年、横須賀製鉄所の建設が始まる
慶応二年(1866年)八月十一日海軍奉行並を兼ねる
慶応三年(1867年)十二月二十八日陸軍奉行並も兼ねる
慶応四年(1868年)正月十五日陸軍奉行並・勘定奉行を罷免される

勘定奉行には、文久二年のうちに二度、元治元年、慶応元年と、数え方によって四度就いたとされます。辞めた理由の多くは、上の者に遠慮なく意見して聞き入れられなかったことでした。それでも、財政と軍事の実務を任せられる人がほかにおらず、そのたびに呼び戻されています。

最後の数年は、勘定奉行として幕府の財政を預かりながら、海軍奉行並と陸軍奉行並まで兼ねていました。お金と陸軍と海軍を、一人でまとめて見ていたことになります。

小栗と勝、出世のしかたを比べると

 小栗忠順勝海舟
家2,500石の上級旗本41石余の小普請
学問漢学(安積艮斎)蘭学(永井青崖ら)。自分で蘭学塾を開く
剣術直心影流の免許皆伝(島田虎之助、藤川整斎)直心影流の免許皆伝(島田虎之助)
最初の役両番(書院番)蘭書翻訳の御用
引き立てた人大老・井伊直弼(目付・遣米使節への抜擢)大久保一翁(海防意見書を評価)
出世の道番方→使番→目付→奉行という旗本の本道蘭学と海軍の専門家として取り立てられる

小栗は、家柄が開いてくれた道を、実力で最後まで上りつめた人でした。勝は、家柄がない分、学問と人とのつながりで、本来なら届かない役にまで引き上げられた人でした。

同じ剣の師についた二人は、まったく違う階段を上り、慶応四年の正月、ちょうど入れ替わるように役を去り、役に就くことになります。その経緯は、小栗忠順の罷免とはで書いています。

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この記事の情報源

日本大百科全書・国史大辞典(ジャパンナレッジ)の小栗忠順・勝海舟の項、幕末幕臣動向「小栗忠順」の役職記録、ウィキペディア日本語版の小栗忠順・勝海舟の各項目、BUSHOO!JAPAN「小栗忠順」などをもとにまとめました。役職の日付や勘定奉行の回数の数え方は、資料によって違いがあります。剣術の免許皆伝は、主にウィキペディアの記述によるもので、一次史料は確認できていません。

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