2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
大鳥圭介と大村益次郎。どちらも大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ人で、どちらも医者の家に生まれ、どちらも西洋の兵学書を訳して兵学者になりました。ところが慶応四年(1868年)の戊辰戦争では、大村は新政府軍の軍事を動かす側に、大鳥は旧幕府の伝習隊を率いて戦う側に分かれます。
結果は、大村の勝ち、大鳥の負けでした。大鳥は宇都宮、会津、箱館と転戦し、ほとんどの戦いで敗れています。同じ塾に学んだ二人の「大」は、なぜここまではっきり明暗が分かれたのでしょうか。大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順とも縁のある、伝習隊の物語でもあります。
大鳥圭介と大村益次郎—先に答え
| 適塾の先輩・後輩? | 大村が弘化三年(1846年)に入門して塾頭になり、嘉永三年(1850年)に帰郷。大鳥の入門は嘉永五年(1852年)ごろです。同じ塾の先輩・後輩ですが、在籍した時期は重なっていません |
|---|---|
| 年齢差 | 大村は文政八年(1825年)生まれ、大鳥は天保三年か四年(1832年か1833年)生まれで、七、八歳ちがいです |
| 直接対決 | 確認できません。大村が指揮した上野戦争のとき、大鳥はすでに北関東・会津方面を転戦していました |
| 得意分野 | 大村は戦略・兵站・軍の仕組みづくり。大鳥は兵学書の翻訳、兵の教育、築城などの技術 |
| 大鳥が負け続けた理由 | 根拠地と補給を持たない転戦、寄せ集めの指揮系統、兵力の差などが挙げられます。武器の差だけで説明するのは難しいとされます |
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二人をくらべる
| 大村益次郎 | 大鳥圭介 | |
|---|---|---|
| 生まれ | 文政八年(1825年)、周防国鋳銭司村(いまの山口市)の町医者の家 | 天保三年か四年(1832年か1833年)、播磨国赤穂郡(いまの兵庫県上郡町)の医者の家 |
| 適塾 | 弘化三年(1846年)入門、のち塾頭 | 嘉永五年(1852年)ごろ入門 |
| その後に学んだ所 | 宇和島藩に仕え、江戸で私塾・鳩居堂を開く。幕府の蕃書調所・講武所でも教える | 閑谷学校、適塾、江川太郎左衛門の塾で西洋砲術 |
| 主な訳書 | 『兵家須知戦闘術門』(オランダの兵学書の翻訳) | 『築城典刑』(オランダの築城書の翻訳) |
| 戊辰戦争 | 新政府軍の軍事を指導。上野戦争を一日で終わらせる | 旧幕府の伝習隊を率いて宇都宮・会津・箱館で戦い、降伏 |
| 明治 | 兵部大輔。明治二年(1869年)に京都で襲われ、その傷がもとで死去 | 許されて工部省の技術官僚、工部大学校長、学習院長、清国・朝鮮駐在公使 |
| 亡くなった年 | 明治二年(1869年) | 明治四十四年(1911年) |
適塾で二人は会っていたのか
「適塾の先輩・後輩」という言い方は、同じ塾の出身という意味ではそのとおりです。ただ、二人が塾で机を並べたわけではありません。
大阪大学の資料によれば、大村は弘化三年(1846年)に適塾に入り、のちに塾頭を務め、嘉永三年(1850年)に郷里へ帰って医者を始めました。塾頭になった年は、資料によって嘉永元年とも二年ともされます。一方の大鳥が適塾に入ったのは、上郡町の資料で嘉永五年(1852年)です。大村が去ってから二年ほどあとのことでした。
二人が適塾で知り合ったことを示す記録はありません。同じ師のもとで、同じオランダ語の本を読んで育った、少し年の離れた同窓生、というのが実際のところです。
医者の子が、なぜ兵学者になったのか
適塾は医学の塾ですが、学ぶのはオランダ語そのものでした。オランダ語が読めれば、医学書だけでなく、兵学や砲術、築城の本も読めます。黒船の来航後、幕府や諸藩が何より欲しがったのは、そうした西洋の軍事の知識でした。
大村は宇和島藩に招かれて蒸気船づくりや砲台の設計に関わり、江戸では幕府の学校で教えたのち、長州藩に召し抱えられます。大鳥は江川太郎左衛門の塾で西洋砲術を学び、江川家の翻訳方を経て、幕府に取り立てられました。
二人とも、語学の力で道を開いた人です。ちがったのは、仕えた先でした。大村は長州に、大鳥は幕府に仕えたのです。
大鳥と伝習隊、そして小栗忠順
慶応三年(1867年)、幕府はフランスから軍事顧問団を招き、フランス式の歩兵「伝習隊」をつくりました。これを強く進めたのが、勘定奉行の小栗忠順です。小栗はフランスとの協力で横須賀製鉄所を起こし、陸軍の立て直しにも力を入れていました。
大鳥はこの伝習隊に加わり、歩兵頭、さらに歩兵奉行へと進みます。大鳥が伝習隊に加わる際に小栗に頼んだ、という話も伝わっていますが、確かな史料では確かめられていません。それでも、小栗が整えようとした幕府の新しい軍を、最後まで率いて戦ったのが大鳥だった、とは言えるでしょう。伝習隊が手にしたフランスの小銃については幕府が頼ったシャスポー銃で紹介しています。
慶応四年、二人はどこにいたのか
戊辰戦争の年の二人の動きを、並べてみます。
- 四月十一日ごろ:江戸城の明け渡しに従わず、大鳥は伝習隊などを率いて江戸を脱け出す。
- 四月十九日〜二十三日:大鳥・土方歳三らが宇都宮城を落とすが、薩摩・大垣藩などの新政府軍に取り返される。
- 五月十五日:江戸で、大村が指揮した新政府軍が上野の彰義隊を一日で破る。
- 八月二十一日:会津の入口・母成峠で、大鳥の伝習隊が大きな損害を受けて敗れる。
- 明治二年(1869年)五月:箱館で大鳥ら旧幕府軍が降伏する。
上野戦争のとき、大鳥はすでに北関東から会津方面にいました。宇都宮の戦いで新政府軍の主力になったのも、薩摩藩や大垣藩の兵です。ですから、二人が同じ戦場で向き合ったと言える戦いは、確認できません。
上野戦争のあと、大村は江戸で事実上の新政府軍の司令役として、東北方面の作戦にも関わったとされます。その意味で、二人は離れた場所から、指揮の系統のうえで向き合っていたとは言えるかもしれません。会津方面の戦いは会津の新選組、宇都宮の戦いは宇都宮城と太平山を歩くで取り上げています。
大村益次郎の得意—戦う前に勝負を決める
大村の強みは、戦場での駆け引きより、戦う前の準備にありました。
- 軍の仕組みをつくる力:長州では農民や町人も含めた洋式の部隊を整え、明治には兵部大輔として近代的な兵制の土台をつくりました。その構想は、のちに山県有朋らに受け継がれたとされます。
- 計算に基づく作戦:慶応二年(1866年)の幕府による長州攻め(四境戦争)では、石州口の参謀として幕府軍を退けました。
- 短期で終わらせる指揮:上野戦争では、佐賀藩のアームストロング砲なども使い、彰義隊を一日で破りました。この戦いぶりについて、佐賀の江藤新平は、西郷の胆力とならべて大村の戦略を手紙でほめたと伝わります。
大鳥圭介の得意—教え、築き、訳す
大鳥の強みは、知識を形にする力でした。
- 翻訳と教育:オランダの築城書を訳した『築城典刑』などを残し、幕府の歩兵の教育に当たりました。
- 技術:明治になってからは工部省で殖産興業を支え、工部大学校(いまの東京大学工学部の源流の一つ)の校長を務めました。
- 人をまとめる明るさ:負けても気落ちした様子を見せず、兵がついてきた人だったと伝わります。
大鳥自身が、後年、自分は兵の用い方には通じていたが、実際の戦の指揮はそれほど得意ではなかった、という趣旨を語ったとも伝わります。ただし、その出典は確かめられていません。
大鳥はなぜ負け続けたのか
大鳥の戦いを追った作家・星亮一氏は、その評伝に『大鳥圭介—幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』という題を付けています。たしかに大鳥は負け続けました。その理由として考えられることを挙げます。ここは研究者の指摘と筆者の整理を合わせたものです。
帰る場所と補給がなかった
江戸を出た大鳥の軍には、拠り所となる城も、弾薬や食糧を送り続けてくれる後ろ盾もありませんでした。会津藩などの助けはあっても、戦いながら物資を集める転戦です。これに対して新政府軍は、江戸を押さえ、諸藩から兵と物資を次々に送り込むことができました。
寄せ集めの軍だった
大鳥が率いたのは、伝習隊を中心に、新選組の残党や諸藩の脱藩兵などが加わった軍でした。伝習隊の兵も、江戸で集めた火消しや博徒などが多かったとされます。命令の系統がそろわない軍を、大鳥はまとめなければなりませんでした。
兵の数で劣った
宇都宮でも母成峠でも、新政府軍は諸藩の兵を集めて攻めてきました。一度は勝っても、相手は次の兵を送り込めます。大鳥の側には、失った兵を埋める手立てがほとんどありませんでした。
武器の差は「一因」
新政府軍の最新兵器が勝敗を分けた、とよく言われます。上野戦争での佐賀藩のアームストロング砲の働きはよく知られています。ただ、伝習隊もフランスから贈られた大砲や新しい小銃を持っており、主力の小銃は両軍とも同じエンフィールド銃だったとする解説もあります。武器の差だけで大鳥の負けを説明するのは難しそうです。
結局のところ、大鳥の負けは、大鳥一人の腕の問題というより、幕府という後ろ盾を失った軍の負けだったと筆者は考えます。大村は国家の側に立って戦の準備をすることができ、大鳥はそれを持たずに戦いました。
大村は大鳥をどう見ていたか
箱館で降伏した旧幕府軍の処分が議論されたとき、大村が「大鳥も助けなければならない。賊のなかでいちばん役に立つ男だ」という趣旨を語ったという話が伝わっています。これは野口武彦氏の『幕府歩兵隊』などで紹介されている話で、元の史料までは確かめられていません。また、大鳥らの赦免には黒田清隆の働きが大きかったとする説明もあります。
大鳥の側から大村をどう見ていたかを示す記録は、見つかりませんでした。
勝者は早く逝き、敗者は長く国に尽くした
大村は明治二年(1869年)九月、京都の宿で襲われ、その傷がもとで十一月に亡くなりました。新しい国の軍の形をつくりかけたところでした。
大鳥は許されたのち、明治の日本で技術と教育と外交に四十年あまり尽くし、明治四十四年(1911年)まで生きました。朝鮮駐在公使として、日清戦争の始まりに立ち会ってもいます。
戦に勝った人が早く世を去り、負け続けた人が長く国の役に立った。同じ適塾から出た二人の生涯は、勝ち負けだけでは測れないものを教えてくれます。
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ゆかりの地

大村益次郎
- 大村神社:山口県山口市鋳銭司3406。生まれ故郷にある神社で、近くに墓(鋳銭司3502)もあります。
- 靖国神社の銅像:東京都千代田区九段北3-1-1。明治二十六年(1893年)に建てられた、日本で最も古い西洋式の銅像とされます。
- 遭難の地の碑:京都市中京区、木屋町通り沿い。佐久間象山の遭難の碑と並んで立っています。詳しくは佐久間象山・大村益次郎 遭難の地で紹介しています。
大鳥圭介
- 生誕地:兵庫県赤穂郡上郡町岩木の石戸地区。生家の跡は「いきいき交流ふるさと館」として整えられ、「男爵大鳥圭介生誕之地」の碑があります。
- 銅像:上郡町役場の前に立っています。
- 墓所:東京の青山霊園とされます。
大鳥が学んだ江川塾の跡は、韮山反射炉と江川邸を歩くで紹介しています。
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる|築地・雑司ヶ谷・大宮・倉渕の回り方とモデルコース、ゆかりの地一覧(回る順番と移動時間、エリア別の一覧)
- 【現地取材】小栗上野介の生まれた場所はどこ?生誕地・神田駿河台の小栗家屋敷跡と横須賀のゆかりの地(ヴェルニー公園の胸像と、烏川の河原から運ばれた記念石。神田駿河台の生誕地)
- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。
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小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
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2027年NHK大河ドラマ
『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集
放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。
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参考資料
大阪大学の適塾関係資料、山口県立図書館の大村益次郎資料、国立国会図書館「近代日本人の肖像」(大村益次郎・大鳥圭介)、国立国会図書館憲政資料室、国立公文書館のデジタル展示(大鳥圭介)、上郡町・兵庫県の大鳥圭介紹介資料、宇都宮市の資料、千代田区観光協会、コトバンク(日本大百科全書・世界大百科事典)、星亮一『大鳥圭介—幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』(中公新書)、野口武彦『幕府歩兵隊』(中公新書)、佐賀大学附属図書館の資料。大鳥の生年、大村の塾頭就任年は資料により異なります。大村の大鳥評は伝承として扱っています。


