小栗忠順の家族—妻は林田藩主の娘、養子は駒井家の次男でした

雑司ヶ谷霊園にある小栗家累代之墓

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小栗忠順の家をたどっていくと、血のつながりで続いた家ではないことがわかります。父は他家から婿に入った人でした。跡取りは養子で、しかも別の旗本の次男です。その養子の婚約者も、よそから来た養女でした。忠順自身の子は、本人が斬られたあとに生まれた娘ひとりだけです。誰がどこから来て、どうつながっていたのかを整理してみます。

目次

忠順は実子です。養子だったのは父のほうでした

まず、よく混同される点から。小栗忠順は養子ではありません。父の小栗忠高の実子で、長男です。高崎市も旗本の家の長男として生まれたと書いています。小栗家としては十二代にあたります。三代目の小栗吉忠のときに松平から小栗へ姓を改めた家で、徳川家康と先祖を同じくする清和源氏松平系の流れだと東善寺は伝えています。

養子だったのは、むしろ父の忠高のほうでした。忠高は旗本の中川飛騨守忠英の四男で、十代の小栗忠清の実の娘であるクニ、のちに邦子とも書かれる人の婿として小栗家に入っています。つまり忠順の母が小栗家の血筋で、父は外から来た人でした。中川忠英は家禄千石、目付から長崎奉行、勘定奉行、関東郡代の兼任まで務めた人物です。

忠順が家督を継いだのは安政二年十月で、このとき通称を又一と改めました。家禄は二千五百石です。父の忠高は新潟奉行として赴任した先で病死しています。兄弟については、忠順が八歳のときに生まれた妹がいたものの早世した、という記録が残るだけです。人物そのものの経歴は小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かにまとめてあります。

妻の道子は、一万石の大名の娘でした

妻の道子は、播磨の林田藩一万石の藩主、建部政醇の長女です。政醇は林田藩の八代藩主で、聖岡と号しました。天保十年七月二十日の生まれで、嫁いだのは嘉永二年三月十八日。忠順が二十三歳、道子が十一歳のときの縁組になります。

旗本の家に大名の娘が嫁ぐのは、格として珍しいことではありません。ただ、この縁がのちに効いてきます。婚礼にあたって建部家から小栗家へ移ってきた付人に、元林田藩士の塚本真彦がいました。慶応四年に権田村から落ちるとき、相間川で二人の娘を失ったあの一家です。

道子は明治十八年三月二十七日に四十八歳で亡くなりました。会津から戻ったあとは深川で暮らしています。権田から会津までの二十二日間については小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのかに書きました。

側室がいたという記録は、見つかりません

側室はいたのか。調べたかぎり、それを示す記録は公的な資料には出てきません。

菩提寺である東善寺が公開している略歴は、父、母、妻、妹、養女の鉞子、養嗣子の又一までを一人ずつ挙げていますが、側室という項目そのものがありません。高崎市にも横須賀市にも千代田区にも、国立国会図書館にも記述は見当たりませんでした。

ただし、これは「記録が見つからない」というだけの話です。「いなかった」ことの証明にはなりません。旗本の家で側室のことが家譜に書き残されないのは、それほど珍しいことでもないからです。群馬県立図書館が所蔵する『小栗上野介忠順家系及略年譜』のような、系譜そのものを扱った資料に当たらなければ、ここは結論が出ません。いまの時点では、確かめられていない、とだけ書いておきます。

養子の又一は、駒井甲斐守朝温の次男でした

跡取りとして小栗家に入った又一忠道は、よその旗本の子です。実父は駒井甲斐守朝温。家禄千八百石の幕臣で、使番から目付、大目付、勘定奉行、歩兵奉行、海軍奉行並、陸軍奉行並までを歴任した人でした。又一はその次男にあたります。これは東善寺だけでなく高崎市も記しています。

ここで押さえておきたいのは、又一が小栗家へ迎えられた名目です。高崎市の説明では「小栗上野介の養女の許嫁として」となっています。跡取りとして直接もらわれたのではなく、養女の婚約者という形で入り、そのまま養嗣子になりました。忠順の通称だった又一の名も譲られています。

そして、あまり知られていないことがあります。実父の駒井朝温は慶応四年三月十一日に亡くなっているのです。又一が高崎で斬られたのは、その一か月後の閏四月七日でした(小栗と同じ六日とする説もあります)。父の喪が明けないうちに、実の子が処刑されたことになります。二十一歳。家臣三名とともに斬られ、遺骨は村人が引き取って埋め、いまも高崎市下斎田町に墓があります。処刑にいたる経緯は小栗忠順はなぜ斬られたのかに書きました。

許婚の鉞子は、忠順の母方の従妹でした

では、又一の婚約者だった養女の鉞子は誰の娘だったのか。こちらは血がつながっています。

東善寺の略歴によりますと、鉞子の父は日下数馬という人で、もとは小栗庄次郎、忠順の母クニの弟でした。つまり鉞子は忠順の母方の従妹にあたります。小栗家に養女として入ったのは安政六年十二月、忠順が渡米する前のことで、まだ六歳でした。

慶応四年閏四月、鉞子は十五歳です。婚約者が斬られたその前日に権田村を出て、忠順の母くにとともに善光寺参りを装い、渋峠を越えて会津を目指しました。婚約者の死を、道中のどこかで知ったことになります。

実子は、父の死後に生まれた娘ひとりでした

忠順の実の子として記録に残るのは、国子ひとりです。生まれたのは慶応四年六月十日、会津の南原に置かれた避難所でした。父が斬られてから二か月あまり、養子の又一も同じときに死んでいますから、小栗の血を引く者はこの赤子だけになりました。

東善寺は国子を「唯一の遺児」と書いています。ただしこれは、生き残った子が一人だったという意味です。早世した子がいたかどうかまでは、今回は確かめられませんでした。

家を継いだのは、佐伯藩士の子でした

国子は三野村利左衛門に、のちに大隈重信夫妻に守られて育ちます。そして嫁いだ相手が、矢野文雄、号を龍渓という人物の実の弟にあたる小栗貞雄でした。矢野龍渓が佐伯藩士の子であることは国立国会図書館の記録で確かめられます。つまり小栗家は、豊後の藩士の家から婿を迎えて続いたことになります。

ここで大隈綾子と小栗家の縁にも触れておきます。綾子は忠順の従妹にあたりますが、つながりの核は小栗家ではなく中川家のほうです。父の忠高が中川忠英の四男で、その妹、つまり中川忠英の娘が綾子の母でした。なお「綾子が幼くして小栗忠高の家で育てられた」という話もよく引かれますが、東善寺の公開資料には見当たらず、今回は裏が取れていません。母と娘のその後は小栗忠順の遺児はどう生きたかに譲ります。

碑を建てた蜷川新は、妻の甥でした

権田の終焉の地に立つ「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」の碑を書いたのは、蜷川新という法学者です。この人も家のなかの人でした。母のはつ子が建部政醇の娘、つまり道子の妹にあたります。忠順から見れば義理の甥です。

東善寺が伝えるところでは、昭和四年に建碑の計画が進んだものの、高崎警察署長から「官軍は天皇様の軍隊だから、罪のない者を斬るはずがない」と言われて一度は頓挫しました。困った計画責任者の市川元吉が蜷川に相談し、蜷川が当時の総理大臣であった田中義一に働きかけて実現します。除幕式は昭和七年五月五日でした。顕彰の流れは小栗忠順はいつ再評価されたのかにまとめてあります。

血でつながっていない家の縁が、六十年以上たってから碑になった、ということになります。

参考にした資料

  • 東善寺『小栗上野介忠順の略歴』『小栗道子夫人は林田藩主建部政醇の娘』『三河の小栗』『会津へ逃れた小栗上野介夫人』
  • 高崎市『小栗上野介の関連史跡』『大河ドラマの主人公 小栗上野介忠順』『高崎市文化財情報 小栗上野介忠順の墓』
  • 千代田区観光協会『千代田の人々 小栗忠順』
  • 国立国会図書館『近代日本人の肖像 小栗忠順/矢野竜渓』
  • 国立公文書館『旗本御家人 中川忠英』
  • 群馬県立図書館『関連資料リスト 小栗上野介忠順』

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