池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊

夜の三条小橋のたもと、提灯の灯る旅館の前に集まるだんだら羽織の隊士たち(池田屋事件のイメージイラスト)

元治元年(1864)六月五日の夜、京都・三条小橋の旅館池田屋で、新選組は尊王攘夷派の志士たちと斬り合いました。新選組の名を一気に広めたこの池田屋事件に、実際に出動したのは誰だったのでしょうか。この記事では、事件そのものではなく「隊士」に目を向けて、その夜の顔ぶれをまとめます。事件の流れは【現地取材】池田屋騒動の跡で詳しくたどっています。

目次

三手に分かれた三十四人

その夜、新選組は祇園会所に集まったのち、三手に分かれて鴨川の両岸を探索しました。

  • 近藤隊(十名):近藤勇が率い、木屋町・三条方面へ
  • 土方隊(十二名):土方歳三が率い、祇園・縄手方面へ
  • 井上隊(十二名):井上源三郎が率いる

あわせて三十四名です。はじめに池田屋を突き止めたのは近藤隊でした。わずかな人数で斬り込み、あとから土方隊・井上隊が駆けつけています。

近藤隊の十人

池田屋に斬り込んだ顔ぶれについては、記録によって違いがあります。近藤勇自身の手紙は、斬り込んだのを近藤・沖田・永倉・藤堂・近藤周平の五人としています。永倉新八の手記と褒賞の名簿からは、次の十人が近藤隊だったと考えられています。下の表では、近藤の手紙に斬り込んだ五人の一人として名が見える近藤周平もあわせて載せています。

隊士その夜のこと
近藤勇局長。斬り込みを率いる。三日後の手紙に「刀は虎徹ゆえか無事」と記す
沖田総司斬り合いのさなかに戦線を離れる(理由は持病とも暑さによる疲労とも伝わり、永倉の記録には書かれていない)
永倉新八愛刀が刃こぼれするまで戦い抜く
藤堂平助真っ先に斬り込み、額を斬られて血が目に入り、戦線を離れる
近藤周平近藤勇の養子。事件のあと褒賞を受ける
谷万太郎谷三兄弟の次男。槍の名手
武田観柳斎のちに組長をつとめる。軍学に通じた隊士
浅野薫医者だったと伝わる隊士。褒賞として二十両を受ける
安藤早太郎裏口を固めて負傷し、およそひと月後に亡くなる
奥沢栄助・新田革左衛門裏口の守り。奥沢はその場で討死し、新田もひと月後に亡くなる

新選組の側の死者は、奥沢栄助と、のちに傷がもとで亡くなった安藤早太郎・新田革左衛門の三人でした。

駆けつけた土方隊・井上隊

近藤隊の知らせを受けて、土方隊と井上隊が池田屋に駆けつけ、主に屋外を固めて、逃げ出した志士の捕縛にあたりました。屋内に斬り込んだと伝わる隊士もいます。サイトに個別ページがある隊士のうち、この夜に加わったことが分かっている人は次のとおりです。

陰で働いた監察

池田屋にたどり着くきっかけは、その日の朝に捕らえた古高俊太郎の自白でした。古高に目をつけ、志士たちの動きを探ったのは監察の隊士たちです。島田魁は、事件のきっかけを作った監察の一人とされます。山崎烝も探索で働いたと伝わりますが、褒賞の名簿には名がありません。

その夜、池田屋にいなかった隊士

また、屯所に残った隊士や病気の隊士も多く、この夜に出動できたのは隊士のおよそ半分だったともいわれます。

池田屋の夜を読み解く

祇園祭の町で

元治元年六月五日は、祇園祭の山鉾巡行を二日後に控えた夜でした。いまの暦に直すと七月八日にあたり、京都の町は祭りの準備でにぎわっていたはずです。新選組が祇園会所に集まったのも、人の出入りが多い祭りの時期であれば、隊士が集まってもさほど目立たないという事情があったのかもしれません。

その朝、新選組は四条小橋の商人・枡屋喜右衛門こと古高俊太郎を捕らえていました。厳しい取り調べのすえ、古高は尊攘派が御所に火を放ち、その混乱に乗じて要人を襲う計画を語ったとされます。ただ、志士たちが集まる場所がどこなのかまでは分からず、新選組は鴨川の両岸を手分けして探すことになりました。三手に分かれた探索は、この「場所が分からない」という事情から生まれたものです。

会津藩の兵は、なぜ遅れたのか

この夜の捕り物は、もともと会津藩や桑名藩などの兵とともに行う手はずだったといわれます。ところが約束の刻限になっても藩兵は現れず、近藤勇はわずかな人数で池田屋に踏みこむことを決めました。藩兵が駆けつけたのは、斬り合いがあらかた終わったころだったと伝えられます。

もし藩兵を待っていれば、志士たちは会合を終えて散っていたかもしれません。少ない人数で先に踏みこんだ近藤の判断が、結果として新選組の名を天下に知らしめることになりました。一方で、この夜の新選組の死者三人のうち二人が裏口を守っていた隊士だったことは、人手の足りない中での戦いがいかに危ういものだったかを物語っています。

その夜、池田屋にいた志士たち

志士出身その夜
宮部鼎蔵熊本藩尊攘派の中心人物の一人。深手を負い、自刃
吉田稔麿長州藩吉田松陰の門人。この夜に命を落とす
北添佶摩土佐この夜に命を落とす
望月亀弥太土佐囲みを破って逃れたが、力尽きて自刃
松田重助熊本藩この夜に討たれる
桂小五郎長州藩会合に早く着きすぎていったん外に出ていたため、難を逃れたと伝わる

熊本・長州・土佐と、尊攘派の中心となった土地の志士たちが集まっていたことが分かります。この夜に仲間を失った長州藩の怒りは、翌七月の禁門の変へとつながりました。熊本出身の新選組隊士・尾形俊太郎がこの夜、屯所の留守居だったことも、あわせて覚えておきたい事実です。

事件のあと—褒賞と隊の拡大

池田屋での働きに対して、幕府と会津藩から新選組に褒賞金が出され、隊士一人ひとりにも働きに応じた金額が配られました。近藤周平の十五両、浅野薫の二十両、伊木八郎の十両と別段金五両などが、それぞれの隊士ページに記されています。

名を上げた新選組は、このあと江戸などで隊士を募り、大きくなっていきます。同じ年の十一月には副長助勤を長とする小隊の編成ができ、組長の下に伍長を置く十組の形が整うのは翌年(元治二年)三月とされます。

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参考にした資料:近藤勇の書簡、永倉新八『新撰組顛末記』『浪士文久報国記事』、池田屋事件の褒賞者名簿にもとづく諸研究。人数や顔ぶれには記録による違いがあります。

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