阿部十郎【新選組隊士 伍長 幕末】

阿部十郎
職名 伍長
出身 出羽
終焉場所 北海道
終焉方法 病没

文久三年以降に入隊したが元治元年の池田屋事件前に脱隊しました。
しかし、慶応元年頃に再入隊しました。
その後伊東甲子太郎らと共に新選組を脱退し御陵衛士となり鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍として参加、奥州を転戦しました。
維新後「安富才助」を殺害しました。
弾正台巡察、北海道開拓使を歴任した後、北海道でりんご園を経営していました。

阿部十郎の肖像
阿部十郎の肖像(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
目次

砲術に長けた隊士

阿部十郎は、出羽の出身と伝えられる隊士で、砲術に通じていたことで知られます。新選組に加わったのち、尊皇攘夷の志を同じくする伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、御陵衛士(高台寺党)の一員となりました。

壬生の八木邸の門前(京都市中京区)
壬生の八木邸の門前(京都市中京区)。新選組が最初に屯所を置いた家です(現地取材の記事・筆者撮影)

証言を残した生き証人

伊東が暗殺された油小路事件のあと、阿部十郎は薩摩藩などの庇護を受けて生き延びました。維新後は、新選組や御陵衛士をめぐる当時の様子について貴重な証言を書き残しています。当事者の視点から幕末の京都を語り伝えた点で、後世の歴史研究に寄与した人物です。

二度脱走して、二度とも命がありました

新選組の法度は脱走を許しませんでした。ところが阿部十郎は二度隊を離れ、二度とも生き延びています。文久三年七月より前に「阿部槙蔵」の名で壬生浪士に加わり、伍長と砲術師範をつとめました。一年ほどで一度脱け出して大坂に潜みますが、慶応元年正月のぜんざい屋事件で、大坂の焼き討ちを企てた土佐勤王党の大利鼎吉を谷三十郎・万太郎の兄弟らとともに討った功によって、脱走の罪を許されて戻ります。そして慶応三年三月、伊東甲子太郎らとともに、今度は御陵衛士へ移りました。

近藤勇を撃ちました

慶応三年十一月十八日の油小路事件の日、阿部十郎は鷹狩りに出ていて難を逃れました。その一か月後の十二月十八日、伏見の墨染で近藤勇を襲い、鉄砲で撃ちます。弾は近藤の肩と胸のあいだに当たり、近藤は重い傷を負いながらも落馬せず、奉行所へ逃げ込みました。

「沖田・斎藤・永倉が最強」の出どころです

新選組でいちばん強かったのは誰か、という話でよく引かれる順があります。沖田総司、次いで斎藤一、そして永倉新八—この並びのもとになっているのが、明治になってから阿部十郎が史談会で語った談話です。「沖田総司、これがまあ勇の一番弟子で、なかなかよく仕いました。その次は斎藤一と申します。それから是は流派が違いますが、永倉新八という者がおりました。この者は沖田よりもちと稽古が進んでおりました」。三十年以上のちの回想であり、しかも語っているのは隊を離れて近藤を撃った側の人です。そのことを踏まえて読む必要があります。

同じ史談会で、近藤を撃ったときのことも語っています。撃ったあと槍でとどめを刺す役目だった篠原泰之進と加納鷲雄が、気後れしたのか槍を捨てて逃げてしまった、と。これも阿部の側の言い分であり、その後、篠原らとは音信を絶ったといいます。

出羽の百姓の子でした

天保八年八月二十二日、出羽国由利郡羽広村の百姓・阿部多郎兵衛とヨネの次男として生まれ、のちに出羽亀田藩士・高野林太郎の養子となって武士の身分を得ました。維新後は弾正台、開拓使、北海道庁に出仕し、役を退いてからは札幌で果樹園を営んでリンゴを作っています。明治四十年一月六日、東京で亡くなりました。七十一歳です。

坂本龍馬暗殺で新選組が疑われたいきさつは、坂本龍馬暗殺と新選組—なぜ疑われ、隊士たちは何を背負ったのかにまとめています。

三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)
三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)(現地取材の記事・筆者撮影)

阿部十郎の生きた時代—御陵衛士の屯所・高台寺月真院

御陵衛士 阿部十郎は、慶応三年(1867)三月、伊東甲子太郎とともに新選組を離れて御陵衛士に加わりました。御陵衛士は、孝明天皇の陵を守る役目を名目に、朝廷の側に立って活動しようとした集団です。屯所は、東山の高台寺の塔頭・月真院に置かれたことから「高台寺党」とも呼ばれました。

近藤勇への報復 十一月の油小路の変で伊東を討たれた御陵衛士の残党は、翌十二月十八日、伏見街道の墨染で近藤勇を狙撃しました。このとき鉄砲を撃ったのが阿部十郎だったと伝えられます。月真院はいまも高台寺の近くに残り、門前には御陵衛士屯所跡の碑が立っています。

入隊したころの新選組の顔ぶれ

壬生の時代の隊

阿部十郎が加わったのは文久三年以降とされ、壬生に屯所があった時代です。文久三年の発足時には二十四人ほどだった隊は、募集を重ねて大きくなり、元治元年六月の池田屋事件のころにはおよそ五十人、慶応元年ごろの最盛期にはおよそ二百人に達したとされます。発足したころの主な顔ぶれは次のとおりです。

  • 局長:芹沢鴨、近藤勇、新見錦
  • 副長:土方歳三、山南敬助
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一、平山五郎、平間重助、野口健司 ほか

近藤・土方の体制へ

文久三年九月に芹沢鴨が、それに先立って新見錦が隊を去ると、隊は近藤勇を局長、土方歳三を副長とする体制に固まりました。阿部はのちに伊東甲子太郎に従って御陵衛士に加わり、新選組とは敵対する側に回ります。阿部が後年に残した証言は、新選組と御陵衛士の内側を知る貴重な記録となっています。

参考資料:Wikipedia日本語版「阿部十郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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