| 近藤周平 | |||
| 職名 | 諸士取調役兼監察 | ||
| 出身 | 備中松山 | ||
| 終焉場所 | 神戸 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
近藤周平をもっと深く—局長の養子になり、そして離れた若者
近藤勇には一時期、跡継ぎとして迎えた養子がいました。それがこの周平です。
備中松山藩士・谷家の三男
嘉永元年、備中松山藩士・谷三治郎の三男として生まれました。兄に七番隊組長の谷三十郎、槍の名手の谷万太郎がいます。文久三年の暮れから翌年春ごろ、兄たちとともに新選組に加わりました。
近藤勇の養子に
入隊して間もなく、周平は近藤勇の養子となり「近藤周平」を名乗ります。元治元年六月の池田屋事件では養父に従って斬り込みに加わり、褒賞金十五両を受けました。
養子縁組の解消
ところが兄の三十郎が亡くなったあと、縁組は解かれ、周平は谷の姓に戻ります。理由については、周平が酒色におぼれたからなど、いくつかの説があります。鳥羽伏見の戦いのあと、隊が江戸へ戻ったところで脱走したと伝わります。
神戸で送った後半生
明治五年ごろ大阪府の巡査になりますが翌年辞め、明治十三年に神戸で裁縫の師匠の家に婿入りして播田の姓を名乗りました。のちに離婚し、山陽鉄道の神戸事務所に勤めて暮らしています。明治三十四年十二月二日に亡くなりました。
近藤周平の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 嘉永元年(1848)五月二十日 | 備中松山藩士・谷三治郎供行の三男として生まれる。父は旗奉行を務めた家 |
| 文久三年(1863)暮れ〜元治元年春 | 兄の三十郎・万太郎とともに新選組に入る |
| 元治元年(1864) | 近藤勇の養子となり、近藤周平を名乗る |
| 元治元年六月 | 池田屋事件に養父とともに加わり、褒賞金十五両を受ける |
| 慶応二年(1866)四月 | 兄の谷三十郎が亡くなる。のちに養子縁組が解かれる |
| 慶応三年(1867) | 幕臣取り立てで見廻組並となる |
| 慶応四年(1868) | 鳥羽・伏見の敗戦後、江戸で隊を離れたと伝わる |
| 明治五年(1872)ごろ | 大阪府の巡査となり、谷千三郎(昌武)と名乗る。翌年辞める |
| 明治十三年(1880) | 神戸で裁縫の師匠・播田ツルの家に婿入りし、播田の姓になる |
| 明治二十年(1887)十二月二十九日 | ツルと離婚する |
| 明治三十四年(1901)十二月二日 | 死去 |
近藤周平を読み解く
なぜ近藤は谷家の子を選んだのか
近藤勇は、多摩の農家に生まれ、天然理心流の近藤家に養子に入った人です。新選組の局長となった近藤にとって、跡継ぎをどこから迎えるかは家の格に関わる問題でした。周平の谷家は、備中松山藩で旗奉行を務めた武士の家柄です。故郷を離れて浪人になっていたとはいえ、れっきとした藩士の家の子を養子にすることは、近藤家の格を上げることにもつながったと考えられます。兄の谷三十郎が七番隊組長として重んじられていたことも、この縁組の背景にあったでしょう。
縁組が解かれた理由
縁組が解かれた理由として、周平が酒色におぼれたこと、池田屋事件での失態、近藤に実の子が生まれたことなどが挙げられています。慶応四年、周平が女性を連れて近藤の妻・つねを訪ねたとき、つねが「周平さんも女のためにあんな事になった」と語ったという話も残ります。兄の三十郎が亡くなり、谷家の後ろ盾がなくなったことも、縁組の解消と無関係ではなかったかもしれません。
明治を生きた元・局長の養子
明治の周平は、巡査、婿入り、鉄道の職員と、転々としながら神戸で暮らしました。晩年まで体は古い傷だらけだったと伝わります。のちにプロレタリア作家として知られる里村欣三は、周平の孫にあたります。新選組局長の養子だった若者の後半生は、幕末の華やかな話とは違う、ごく普通の人の暮らしでした。
小説との違い
司馬遼太郎の『新選組血風録』では、周平は谷三十郎の弟ではなく息子として描かれています。小説で新選組を知った人は、史実との違いに気をつけてください。兄の谷万太郎のページもあわせてご覧ください。
はっきりしないこと
養子縁組が解かれた正確な時期と理由、周平が隊を離れた時期は、はっきりしていません。
近藤周平をさらに掘り下げる
近藤勇はなぜ養子を迎えたのか
近藤勇には、江戸に残した妻のツネとのあいだに娘のたまがいましたが、男の子はいませんでした。近藤家は天然理心流の宗家で、近藤自身も先代の近藤周助の養子として家を継いだ人です。流派と家を誰に継がせるかは、近藤にとって大事な問題でした。
そこへ迎えたのが、備中松山藩士の家に生まれた周平です。備中松山藩は、藩主の板倉勝静が老中を務める幕府に近い藩でした。多摩の農家の出である近藤にとって、れっきとした武士の家の子を跡継ぎに迎えることには、家の格を高めるという意味もあったと考えられます。京都で名を上げつつあった近藤が、武士としての足場を固めようとした一手だったのかもしれません。
十七歳で池田屋へ
元治元年六月の池田屋事件のとき、周平は数えで十七歳でした。養父の近藤とともに池田屋へ踏みこんだ近藤隊の中でも、とりわけ若い一人です。局長の跡継ぎとして、最も危ない場に連れて行かれたことになります。
この夜の近藤隊は、はじめわずか十人ほどで、多くの志士が集まる池田屋に斬りこみました。周平がそこでどんな働きをしたのかは詳しく伝わっていませんが、無事に生きのび、褒賞を受けています。養父が息子に手柄を立てさせようとしたのか、それとも人手が足りなかったのか。いずれにせよ、若い周平にとって重い初陣でした。その夜の顔ぶれは池田屋事件に出動した新選組隊士にまとめています。
近藤家を継いだのは誰か
周平との縁組が解かれたあと、近藤家と天然理心流を継いだのは、近藤の兄の子である宮川勇五郎でした。勇五郎は近藤の娘たまと結ばれ、近藤勇五郎として家を守っています。近藤が板橋で処刑されたあと、多摩の人々とともに近藤の遺体をひそかに引き取ったと伝えられるのも、この勇五郎です。
もし周平が養子のままだったなら、近藤家の行く末も違っていたかもしれません。結局、近藤家は多摩の血筋に戻りました。武士の家から迎えた跡継ぎが去り、ふるさとの親族が家を継ぐ。その流れは、近藤勇という人が最後まで多摩の人々に支えられていたことをよく表しています。
明治の神戸で
周平が後半生を過ごした神戸は、開港によって急に大きくなった港町でした。巡査、婿入り、鉄道会社の勤めと、周平の明治は決して華やかなものではありません。局長の養子として池田屋に踏みこんだ若者は、新しい町の片すみで、元新選組であることを大きく語ることもなく暮らしたようです。兄の谷万太郎が大坂で道場を続けたのと比べると、兄弟の明治はそれぞれの形で静かなものでした。
近藤周平と関わりの深い人たち
近藤周平のゆかりの地
- 備中松山藩(岡山県高梁市)—生まれた谷家の藩。
- 池田屋騒動の跡(京都市)—養父とともに斬り込んだ場所。
- 神戸(兵庫県神戸市)—後半生を送った町。
参考にした資料:Wikipedia「谷周平」、「ホタルと新選組 里村欣三の母方の系譜をめぐって」。
池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。
明治の周平
近藤勇の養子だった周平の明治は、追いかけると寂しい歩みです。明治五年に大阪府の巡査となって「谷千三郎」を名乗りますが、翌年には辞めています。明治十三年に播田ツルと結婚して播田姓を名乗り、明治二十年十二月に離婚しました。そのあとは山陽鉄道の神戸事務所の下級職員として働いています。
局長の養子という立場から、鉄道の職員になるまでの落差がこの人の後半生です。なお周平を「谷三十郎の実子」とする説を見かけることがありますが、これは司馬遼太郎の小説の描き方に由来するもので、史料上の異説ではありません。備中松山藩士・谷三治郎の三男という出自が通説です。
新選組をもっと知る本
近藤勇の養子だった周平の評価は、後世の本によって大きく揺れてきました。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』を読むと、その揺れの出どころが分かります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:久米部正親(軍目付)
次の隊士 ▶:近藤芳助(伍長)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

