伊藤与八郎【新選組隊士 平隊士 幕末】

伊藤与八郎
職名 平隊士
出身 不明
終焉場所 不明
終焉方法 離隊

文久三年に入隊しました。
池田屋事件前に離隊します。
以後の消息は不明です。

目次

伊藤与八郎をもっと深く—池田屋の前に、隊を離れています

文久三年に入隊し、池田屋事件の前に離隊しました。以後の消息は分かっていません。

この時期の離隊が意味すること

文久三年に入ったということは、壬生浪士組の時代から在籍していたということです。八月十八日の政変で働いて「新選組」の名を与えられた、あの時期を経験しています。

そして池田屋は元治元年六月五日。この人は、隊がいちばん有名になった夜を見ずに去りました。

池田屋に出動した隊士には、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助のほか、蟻通勘吾や浅野薫らがいます。恩賞は近藤の三十両を筆頭に、平隊士でも十七両。そこに居合わせた者と、その前に去った者とで、記録の残り方はまるで違ってしまいました。

初期の新選組は、人がよく抜けています

文久三年から元治元年にかけて、隊を離れた人は少なくありません。

そもそも壬生浪士組は三派に分かれていました。近藤勇の試衛館派、芹沢鴨の水戸派、そして殿内義雄・家里次郎の派です。三月に殿内が四条大橋で暗殺されると、その派の同志は次々に脱走しました。四月には家里が大坂で切腹させられています。

家木将監も文久三年に入ってすぐ離隊しました。結成まもない隊は、まだ人を留めておける組織ではなかったのです。

そして記録が切れます

出身も、生没年も、離隊の理由も分かりません。名簿に「文久三年入隊、池田屋事件前に離隊」とだけ残っています。

離れたあと、この人がどこで幕末を過ごしたのかは想像するしかありません。ただ、京都に残っていたなら、二年後の池田屋の噂は耳に入ったはずです。

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隊が「新選組」になった年に、居合わせています

入隊を文久三年六月ごろとする資料があります。池田屋事件の前に離れたという記述と合わせると、この人が隊にいたのは長くて一年ほど。ところがその一年が、壬生に集まった浪士の一団が新選組という名で呼ばれるようになった、まさにその期間にあたります。

八月十八日の政変

入隊から二か月ほどの文久三年八月十八日、会津と薩摩が手を組んで長州を京から追い出す政変が起きました。壬生浪士組はこのとき御所の門の警備に出ており、その働きが認められて「新選組」の名を与えられたと伝えられています。ただし名を与えたのが誰で、それがいつだったのかについては資料によって食い違いがあり、政変の直後とも、もう少しあとともいわれます。いずれにせよこの政変が、一つの浪士集団を京の治安組織に変えた転機でした。

そして一か月後、芹沢鴨が殺されます

同じ年の九月十八日、芹沢鴨が壬生の八木邸で斬られ、新見錦もこの前後に消えています。隊の主導権が近藤勇と土方歳三の側へ移った夜です。翌元治元年六月五日には池田屋事件が起き、新選組の名は一気に知れ渡ります。伊藤与八郎が去ったのはその直前でした。隊が知られる前に入り、知られる直前に出ていったことになります。

この隊士について書いた資料が、ほとんどありません

正直に書いておきますと、伊藤与八郎について記述している資料を、ひとつしか見つけられませんでした。出身も役職も、離れた事情も、その後も分かりません。隊の名簿に名が残っているだけの人です。それでも入隊と離隊のおおよその時期が伝わっているおかげで、この人がどの季節の京にいたのかは分かります。無名の隊士について書けることは、たいていそこまでです。

伊藤与八郎の生きた時代—大坂の力士との乱闘

大坂での事件 文久三年(1863)六月、大坂へ下った壬生浪士組の芹沢鴨・近藤勇らの一行は、北新地へ向かう途中で大坂相撲の力士たちと道を譲る譲らないで争いになり、斬り合いとなりました。力士の側に死者が出たこの事件は、浪士組の荒々しさを世に知らしめるものでした。

その後の和解 のちに浪士組と大坂相撲は和解し、京都で相撲の興行が開かれる際には、浪士組が警護にあたったとも伝えられます。結成まもない浪士組が、乱暴者の集まりから京都の治安を担う組織へと変わろうとしていた時期の出来事です。伊藤与八郎が隊に加わったのも、この文久三年です。

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