| 山野八十八 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 加賀 | ||
| 終焉場所 | 京都(晩年の居住地) | ||
| 終焉方法 | 不明 | ||
山野八十八をもっと深く—「美男五人衆」と呼ばれた隊士の、その後
新選組の中で美男子として知られた隊内の「美男五人衆」の一人に数えられたと伝わる隊士です。明治になってからは京都で、小学校の用務員として静かに暮らしました。
加賀の出身
加賀国の出身です。文久三年、島田魁・尾形俊太郎と同じころに入隊したとされます。元治元年の池田屋事件の夜は、屯所の守りに残っていたため斬り込みには加わっていません。
一番隊に名を連ねる
慶応元年の編成では沖田総司が組長を務める一番隊に名があります。慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いにも加わりました(このとき沖田は病に伏していて出陣していません)。その後は江戸へ下り、隊とともに北へ向かいますが、箱館での降伏より前に隊を離れています。
京都の小学校で
明治以降は京都に住み、菊浜小学校の用務員として勤め、明治二十九年に退きました。新選組の隊士としては珍しく、京都の町で後半生を送った人です。
山野八十八の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 生年ははっきりしない | 加賀国の出身とされる |
| 文久三年(1863) | 島田魁・尾形俊太郎と同じころに入隊する |
| 元治元年(1864)六月 | 池田屋事件の夜は屯所の守りに残る |
| 慶応四年(1868)一月 | 沖田総司の一番隊に属し、鳥羽・伏見の戦いに加わる |
| 慶応四年 | 江戸へ下り、隊とともに北へ向かう |
| 明治二年(1869)ごろ | 箱館での降伏より前に隊を離れる |
| 明治 | 京都に住み、菊浜小学校の用務員として勤める |
| 明治二十九年(1896) | 小学校を退く |
| 明治四十一年(1908) | 戊辰戦争の前に別れた恋人と娘に再会したと伝わる |
山野八十八を読み解く
「美男五人衆」の一人
山野は、顔立ちのよい若い隊士を並べた「美男五人衆」の一人に数えられます。ほかの四人は、馬越三郎・楠小十郎・佐々木愛次郎・馬詰柳太郎です。五人のうち、楠は長州の間者として斬られ、佐々木も若くして命を落とし、馬越と馬詰は隊を離れました。五人のなかで明治まで京都で暮らしたことがはっきりしているのは山野だけです。
池田屋の夜に屯所を守った意味
池田屋事件の夜、斬り込みに加わったのは近藤勇の隊と土方歳三の隊の一部でした。隊士の多くは、屯所を守るなどして留守に残っています。当時の新選組は病人も多く、動ける人数が限られていました。留守を任されることは、手柄から外れることでもありますが、屯所が襲われる危険に備える大事な務めでもありました。
京都で後半生を送った隊士
戊辰戦争のあと、新選組にいたことは、京都では口にしにくいことでした。新政府にとって新選組は、倒した側の手先だったからです。それでも山野は京都に住み、小学校の用務員として働きました。同じころに入隊した島田魁も晩年を京都で過ごし、西本願寺の夜番を務めています。かつて新選組が見回った町で、二人は静かに暮らしていたことになります。
恋人と娘との再会
山野には、京都時代に恋人がいて、戊辰戦争で京都を離れる前に別れたと伝わります。明治四十一年、その恋人と、会ったことのなかった娘に再会したという話が語られています。長い年月を経た再会の話として知られますが、細かな経緯は聞き書きによるもので、確かめられる記録は多くありません。
はっきりしないこと
山野の生年と没年、どの時点で隊を離れたのかは、史料によって違いがあります。鳥羽伏見のあと江戸で隊を離れたとする見方もあります。
山野八十八の後半生をさらに掘り下げる
京都の「番組小学校」で働いた元隊士
山野が勤めた菊浜小学校は、京都の町が自分たちの手で作った「番組小学校」の一つとされます。京都では明治二年、国の学制が出るより三年も前に、町の人々が「番組」と呼ばれる町の組ごとにお金を出し合い、六十をこえる小学校を開きました。日本でいちばん早い学区制の小学校です。
学校は子どもの学びの場であると同時に、町の役所や集会所のような役目も果たしていました。そこで用務員を務めるということは、町の人々と毎日顔を合わせる暮らしだったはずです。かつて京都の町を見回り、町の人から恐れられることもあった新選組の隊士が、明治には町の学校を支える側に回っていた—山野の後半生には、そうした時代の移り変わりがよく表れています。
「敵」の町で生きるということ
明治の京都は、新政府を作った薩摩・長州の人々とかかわりの深い町でした。旧幕府方として戦った新選組の元隊士にとって、決して居心地のよい場所ではなかったでしょう。それでも京都で後半生を送った隊士が何人かいます。
| 隊士 | 明治の京都での暮らし |
|---|---|
| 山野八十八 | 菊浜小学校の用務員を務め、明治二十九年に退く |
| 島田魁 | 西本願寺の夜警を務め、明治三十三年にそこで倒れて亡くなる |
| 馬越三郎 | ガラス商になったと伝わり、明治二十年ごろ壬生の八木家を訪ねる |
島田が勤めた西本願寺は、かつての屯所でした。山野の菊浜も、西本願寺からそう遠くない下京の町です。二人が明治の京都で顔を合わせることがあったのかどうかは分かりませんが、同じころに同じ町の片すみで、元隊士たちがひっそりと暮らしていたことになります。
再会の話が伝えるもの
明治四十一年、山野は戊辰戦争の前に別れた恋人と、その間に生まれていた娘に再会したと伝えられます。別れてから四十年ほどの歳月です。新選組の隊士は、京都で所帯を持ったり、恋仲の相手を持ったりしても、戦いが始まると東へ下らなければなりませんでした。残された人々のその後は、ほとんど記録に残っていません。
山野の話は、聞き書きによるもので細かな点は確かめられません。けれども、隊士一人ひとりに、戦いのほかの暮らしがあったことを思い起こさせてくれる、数少ない話の一つです。
山野八十八と関わりの深い人たち
山野八十八のゆかりの地
- 池田屋騒動の跡(京都市)—この夜、山野は屯所を守っていました。
- 壬生・八木邸(京都市)—京都時代の屯所。
- 京都市下京区の菊浜学区—明治に用務員として勤めた小学校のあった地域。
参考にした資料:新選組の名簿類、京都での後年の聞き取りにもとづく諸研究。
池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。
通説が直った例
山野が京都の小学校に勤めた時期について、長らく「明治四十年まで在職した」と語られてきました。もとになったのは子母澤寛の『新選組物語』です。ところが大正七年に出た『京都小学五十年誌』を調べた結果、実際には明治二十九年七月に退職していたことが分かりました。読み物として広まった話が、学校側の記録で正された一例です。
「美男五人衆」という呼び名も、出どころは同じ系統の聞き書きです。八木邸の八木為三郎が後年に語った話を子母澤寛がまとめたもので、隊の公式な記録ではありません。五人衆に数えられたのは山野のほかに楠小十郎・馬越三郎・馬詰柳太郎・佐々木愛次郎とされ、うち楠は入隊した年のうちに斬られ、佐々木も非業の死を伝えられています。若く見目のよい隊士として名を残した五人の顔ぶれが、そのまま隊の初期の粛清の記録と重なっているのです。
新選組をもっと知る本
山野のように名簿に名が見えるだけの平隊士は少なくありません。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、そうした隊士がどんな日々を送っていたのかを想像するための二冊です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:安富才輔(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:横倉甚五郎(函館新撰組第三分隊教導役)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

