浅野薫【新選組隊士 諸士取調役兼監察 幕末】

浅野薫
職名 諸士取調役兼監察
出身 備前
終焉場所 京都
終焉方法 暗殺

前職は医者だったと伝わります。
入隊は文久3年7月以降とされます。
慶応3年、御陵衛士と気脈を通じ土佐への逃走を図るが叶わず葛野郡川勝寺村で沖田総司に惨殺されました。

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浅野薫をもっと深く——池田屋で二十両、そして追放

本業は医者だったと伝わります。学才も文才もあったといいます。その人が池田屋に斬り込み、隊内で第三位の恩賞を受け、数年後には追放されて斬られました。

褒賞名簿では「浅野藤太郎」

元治元年六月の池田屋事件で、浅野は近藤隊の一員として出動しています。ただし、褒賞名簿に記されているのは「浅野藤太郎」という名です。同一人物とするのが通説ですが、記録上は名が違う点を押さえておきたいところです。

配分はこうなっています。

  • 近藤勇——金十両+別段金二十両
  • 土方歳三——金十両+別段金十三両
  • 沖田総司・永倉新八・藤堂平助・谷万太郎・武田観柳斎・浅野藤太郎——金十両+別段金十両

局長・副長に次ぐ第三ランクです。一番隊組長の沖田や二番隊組長の永倉と同額。この時点で、浅野は隊の中核として遇されていたことになります。

三条制札事件、そして追放

慶応二年九月の三条制札事件では、橋のたもとの斥候を橋本皆助とともに務めました。三拠点に四十人以上を伏せた張り込みで、いちばん前に出る役です。

ところが、この事件のあと浅野は新選組を追放されます。『新選組始末記』は「失態を犯し、その後放逐され、最後は市中で金策を行った」と記しています。何の失態だったのかは、はっきりしません。

最期は諸説あります

死んだのは慶応三年ごろとされますが、月日は分かっていません。伝わる話も割れています。

『新選組始末記』は、沖田総司に斬られたとします。一方、御陵衛士だった阿部十郎の談話ではこうです——浅野は脱走して御陵衛士に加わろうとしたが伊東甲子太郎に拒まれ、土佐へ逃げる手筈を整えてもらっている最中、近藤を説得しようと屯所へ向かうところを沖田に斬られた。

この阿部の証言は最有力とされますが、御陵衛士側から見た話であり、日付も特定できません。「慶応三年ごろ」以上には絞れないのが現状です。

池田屋で二十両を受けた男が、三年後には隊にも御陵衛士にも居場所を失って斬られる。新選組で厚遇されることと、そこで生き延びられることは、別のことでした。

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