| 安藤早太郎 | |||
| 職名 | 副長助勤 | ||
| 出身 | 三河挙母 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 傷死 | ||
挙母藩脱藩後知恩院の一心院に入り文久3年頃に入隊しました。
野口健司切腹の際は介錯を勤めました。
池田屋事件の変で負傷し、その傷がもとで死亡しました。
挙母藩士時代に奈良東大寺で行われた通し矢で名を馳せた人物でした。
安藤早太郎をもっと深く——一昼夜で八千六百八十五本を射通した男
新選組の隊士で、入隊前に日本記録級の武芸の記録を残している人は、そう多くありません。
東大寺大仏殿での大矢数
天保十三年(1842年)四月二十日の酉の刻から、翌二十一日の未半刻まで。東大寺大仏殿の西回廊、距離百六・八メートル。
安藤早太郎はここで一昼夜の通し矢に挑み、総矢数一万一千五百本のうち八千六百八十五本を射通しました。成功率七十五・五パーセント。
この数字は俗説ではありません。通し矢の記録一覧に、安藤早太郎の名で残っています。尾張藩の儒官から「古今第一」と称されたと伝わります。
※通し矢というと三十三間堂が有名ですが、この記録は東大寺でのものです。
三河の藩医の子、そして脱藩
出身は三河国挙母藩——いまの愛知県豊田市。藩医・安藤宣山の子とされます。武芸は日置流の弓術と、無外流の剣術。
嘉永四年(1851年)に脱藩し、京の知恩院や一心寺に入りました。虚無僧になったとも伝わります。
そして文久三年五月までに壬生浪士組に在籍していたことが、幕府への上書に連名していることから確認できます。同年六月の新選組結成時には副長助勤——組長格です。
池田屋の裏庭を守って、深手を負いました
元治元年六月五日、池田屋。安藤は近藤勇隊に所属し、奥沢栄助・新田革左衛門とともに裏庭の防御を担当しました。
正面から斬り込んだのは近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助です。安藤たちは逃げようとする志士を裏で食い止める役でした。
猛攻を受けて深手を負い、元治元年七月二十二日に死去します。奥沢栄助は即死、安藤と新田は負傷後の死亡で、この三人が池田屋の死者として括られます。
会津藩からの恩賞は別段金二十両。浅野薫や沖田・永倉と同じ額です。
「別人ではないか」と長く疑われていました
この人には、面白い研究史があります。
子母澤寛が『新選組遺聞』で安藤を「二十五、六歳」と描いたため、挙母藩士の安藤早太郎とは年齢が合わず、同名の別人ではないかと長く言われてきました。
ところが平成三十年(2018年)、豊田市郷土資料館が新出史料をもとに同一人物との見解を発表します。会津藩編纂の『維新階梯雑誌』(宮内庁宮内公文書館蔵)の隊士名簿に、安藤早太郎が「三州」「四十才」と記されていたのです。
ただし正直に書いておくと、これで年齢の問題がすべて片づいたわけではありません。「四十才」を採ると生年は文政八年ごろとなり、天保十三年の通し矢のときに十七歳前後になってしまいます。生年には諸説あります。
墓は壬生寺と聞名寺にあります。壬生を歩けば、この人の墓の前を通ることになります。
新選組隊士全456名情報
老練の武士・安藤早太郎
安藤早太郎は、新選組に加わった隊士のなかでは年長の、経験豊かな武士でした。武芸に通じ、諸士調役兼監察といった役割を担って、若い隊士の多い新選組にあって落ち着きをもたらす存在だったと伝えられます。
池田屋事件での負傷
1864年(元治元年)の池田屋事件では、近藤らとともに斬り込みに加わって奮戦しました。しかしこの戦いで負った傷がもとで、のちに亡くなったと伝えられます。歴史に名を残す華々しい戦いのなかで、命をかけて新選組の名を高めた古参隊士の一人です。

