| 近藤 勇 | |||
| 職名 | 局長 | ||
| 出身 | 武蔵国多摩 | ||
| 終焉場所 | 江戸板橋 | ||
| 終焉方法 | 斬首 | ||

近藤勇をもっと深く—「隊で一番強い」とは、誰も言っていません
近藤勇の剣がどれほどのものだったか。これを語るときによく引かれるのが、元隊士・阿部十郎が明治三十三年の史談会で語った証言です。
ところが、その原文を読むと違うことが書いてあります。
沖田総司、これがまあ勇の一番弟子で、なかなかよく仕いました。その次は斎藤一と申します。それから是は流派が違いますが、永倉新八という者がおりました。この者は沖田よりもちと稽古が進んでおりました。
順に挙げて、最後に「永倉新八は沖田総司よりも上だった」と言っています。つまり一に永倉、二に沖田、三に斎藤一。近藤を最強とは、ひとことも言っていません。
ネット上には「阿部十郎が近藤を一番と証言した」という記述が流れていますが、原文はそうなっていません。
ただし、天然理心流という流派の性格は押さえておきたいところです
近藤は嘉永元年十一月に試衛館へ入門し、翌年六月にはもう目録を得ています。七、八か月です。万延元年八月、府中六所宮で四代目の襲名披露をしました。
この流派は剣術と柔術を併せて学ぶものでした。初代・近藤内蔵之助は「剣柔の術交て陰陽合対す。是天地自然の道理なる」と説いています。
近藤自身は竹刀稽古で「ハラ」と「気」を鍛えることを重んじ、小手先の技を嫌いました。現存する近藤使用の木刀は長さ百一センチで、相当な重量があります。剣風は「構えは少し反り加減で、ぴーんと上手く小手へ入ると大概の相手は竹刀を落とした」と伝わります。
虎徹は、本物だったのか
近藤自身は本物だと思っていました。文久三年十月の書簡に虎徹の大小を所持していると書き、池田屋の三日後にはこう記しています。
下拙は刀は乕徹故にや、無事に御座候
ところが現在の通説は「贋作」です。
虎徹は江戸期を通じて贋作が極端に多く、刀剣学者の佐藤寒山は収集家への戒めとして「虎徹をみたらうそと思え」という言葉を紹介しています。そして佐藤彦五郎の孫が「近藤の刀は確かに無銘であった」と明言しています。
面白いのは源清麿説です。武道家・中山博道が昭和十三年の座談会で、養父からの伝聞としてこう語りました—明治二十三、四年ごろ、俎橋のそばに刀屋があり、その親爺が近藤勇に清麿を虎徹だと言って売った、と。
俎橋の近くには神道無念流の練兵館があり、試衛館とも関係が深い場所でした。贋作だとしても清麿作なら切れ味は真物に劣りません。池田屋で無事だったことと矛盾しないわけです。
池田屋に「四人で斬り込んだ」わけでもありません
ここも数字が割れています。近藤自身の書簡では突入は五名(近藤・沖田・永倉・藤堂平助・近藤周平)。一方、褒賞者名簿からは十名と推定されます(安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門らを含む)。
探索は近藤隊十名・土方隊十二名・井上隊十二名の三手に分かれていました。「四人で突入」は、どちらの史料とも合いません。
大久保剛、そして大久保大和
最後の一年、近藤は二つの変名を使い分けています。
- 大久保剛—慶応四年三月一日、甲陽鎮撫隊を率いて江戸を発つ時期から。勝沼の敗戦まで
- 大久保大和—勝沼のあと会津へ向かう前に改称。流山の出頭から処刑まで、この名です
「大久保」は甲府城代を務めた大久保忠礼にちなむとされ、「大和」は大和守という従五位相当の官名を借りたもの。軍勢に対して格を作るための箔付けでした。
流山の投降は「単身」ではなかったようです
慶応四年四月三日、香川敬三隊が流山を包囲します。近藤は「大久保大和」として出頭し、幕府公認の治安隊だと主張しました。
よく「単身で」と語られますが、野村利三郎・村上三郎の二名が警護して同行したと伝わります。出頭先も総督府とする記録と越谷本営とする記録があり、割れています。
正体が露見した経緯もはっきりしています。元御陵衛士の加納鷲雄が証人として呼ばれ、障子の穴から覗いて「大久保大和、あらため近藤勇」と指摘しました。
そして土方歳三が投降を止めたという話には、一次史料の裏づけがありません。記録に残るのは処刑後のほうで、土方は大久保一翁・勝海舟に助命を嘆願し、勝が書いた嘆願書を相馬主計に託しています。ですがその使者は途中で官軍に捕まり、嘆願書は総督府に届きませんでした。
四月二十五日、板橋
板橋宿はずれの馬捨て場で斬首。享年三十五。辞世が残っています。
孤軍援け絶えて俘囚となる
顧みて君恩を思へば涙更に流る
首は刑場前で三日間晒されたのち、板橋宿中宿の名主の門前で塩漬けにされて京都へ送られ、三条河原で梟首されました。その後の行方は分かっていません。岡崎・法蔵寺の首塚に葬られたという伝承があり、昭和三十三年に本山の史料から顛末が判明したとされますが、奪ったとされる人物が当時白河で戦っていた記録があり、疑問が大きいところです。
胴のほうは、処刑三日後に長兄・宮川音五郎と甥の勇五郎が馬捨て場の者に金を渡して場所を聞き出し、掘り起こして三鷹の龍源寺へ運んだと伝わります。遺体に子供のころの足の骨折痕が確認できたとされ、信憑性が高いと言われます。
新選組隊士全456名情報
試衛館から新選組局長へ
近藤勇は、天然理心流の四代目を継いだ剣客で、江戸・市谷の道場「試衛館」に土方歳三や沖田総司らの同志を集めました。浪士組への参加をきっかけに京へ上り、壬生浪士組を経て、芹沢鴨の排除ののちには新選組の局長として組織の頂点に立ちます。池田屋事件での活躍によって、新選組の名は一躍天下に知られることになりました。

局長としての栄光と苦難
近藤は、幕府や会津藩の信任を得て武士としての地位を高め、剣の道場主から一軍の将へと駆け上がりました。しかし時代は倒幕へと大きく傾き、鳥羽・伏見の敗戦後は旧幕府軍として各地を転戦することになります。
流山での捕縛と最期
甲陽鎮撫隊を率いた戦いにも敗れた近藤は、下総・流山で新政府軍に投降し、板橋で斬首されました。剣一筋に生き、身分を超えて時代の表舞台に立った近藤の生涯は、幕末という時代が生んだ立身と悲劇の物語として、今も多くの人を惹きつけています。
首と墓は、なぜ各地に分かれているのか
慶応四年四月二十五日、近藤は板橋で斬首されました。首は京都へ送られ、三条河原でさらされたあと行方が分からなくなります。一方、胴体は板橋に葬られ、のちに親族が掘り起こして故郷近くの寺へ移したと伝えられます。
そのため「近藤勇の墓」とされる場所は一つではありません。板橋駅前の供養塔、三鷹の龍源寺の墓、会津若松の天寧寺の墓(土方歳三が建てたと伝わります)、首を葬ったという伝承のある愛知県岡崎市の法蔵寺の首塚—どれが本当の墓かは、首の行方と同じく確かめようがありません。
近藤勇と関わりの深い人たち
- 土方歳三—試衛館以来の副長。流山で別れたのが最後でした。
- 沖田総司・井上源三郎—試衛館の弟子と兄弟弟子。
- 芹沢鴨・新見錦—壬生浪士組のもう一方の中心。二人を除いて、近藤の新選組が固まります。
- 山南敬助—試衛館の食客から総長に。脱走の末に切腹しました。
- 伊東甲子太郎—参謀として迎え、のちに油小路で討たせた人。その仲間に伏見街道で撃たれ、近藤は肩に深い傷を負います。
- 永倉新八・原田左之助—江戸に戻ったあと、近藤と意見が合わずに離れた組長たち。
- 佐藤彦五郎—日野宿の名主。近藤と義兄弟の契りを結び、門人として支えました。
近藤勇のゆかりの地
- 近藤勇生家跡(東京都調布市野水)—宮川家に生まれた場所。産湯の井戸が残っています。
- 龍源寺(東京都三鷹市大沢)—生家近くの寺で、近藤の墓があります。
- 試衛館(東京都新宿区市谷柳町のあたり)—道場主を務めた天然理心流の道場。
- 壬生・八木邸・池田屋騒動の跡(京都市)—局長として名を上げた京都時代の舞台。
- 近藤勇陣屋跡(千葉県流山市)—最後の陣を置き、出頭した場所。
- 近藤勇の墓と板橋刑場跡(東京都北区)—斬首された刑場の近く。永倉新八らが建てた供養塔があります。
- 天寧寺(福島県会津若松市)・法蔵寺(愛知県岡崎市)—墓と首塚の伝承地。
参考にした資料:近藤勇の書簡(文久三年・元治元年)、阿部十郎の史談会での談話(明治三十三年)、永倉新八『新撰組顛末記』、子母澤寛『新選組始末記』、三鷹市・流山市・岡崎市などの観光案内。
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近藤勇・土方歳三・井上源三郎のふるさと(調布の近藤勇生家跡、日野宿本陣、井上源三郎資料館、石田寺、高幡不動)は、【現地取材】新選組のふるさとを歩くで写真とともに紹介しています。
新選組をもっと知る本
小説で新選組に入った人も、史実から入りたい人も読みやすい本です。『新撰組顛末記』は二番隊組長・永倉新八が晩年に語った回顧録、『新選組始末記』は昭和の初めに関係者の聞き書きをまとめた本で、どちらも後の小説やドラマのもとになりました。
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参考資料:Wikipedia日本語版「近藤勇」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
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