目次
この場所から、幕末はどう見えるか
板橋のこの一角は、新選組の終わりが二重に刻まれた場所です。- 慶応四年四月二十五日—近藤勇が斬首された板橋刑場のすぐそば
- 明治九年五月—永倉新八が建てた、新選組最初期の供養塔
- 碑には土方歳三の名も刻まれ、側面には芹沢鴨から伊東甲子太郎まで、敵味方を問わず百十名が並びます
流山から板橋へ—「大久保大和」と名乗った男
鳥羽伏見に敗れ、甲州でも敗れた新選組は、下総の流山に陣を置いていました。慶応四年四月三日、新政府軍に包囲されます。 このとき近藤は「大久保大和」と名乗り、身分を隠して出頭しました。近藤勇であることが分からなければ、切り抜けられるはずだったのです。 ところがそこに、かつての仲間がいました。加納鷲雄と清原清—伊東甲子太郎とともに新選組を離れ、御陵衛士となった者たちです。油小路で伊東を斬られた側の人間が、近藤の顔を知っていました。 四月五日、近藤は板橋宿へ送られます。そして平尾宿の脇本陣をつとめた名主・豊田市右衛門の屋敷に、二十日間軟禁されました。切腹ではなく、斬首でした
四月二十五日、近藤は板橋宿はずれ、平尾一里塚近くの馬捨て場で斬られます。介錯人は横倉喜三次と石原甚五郎。 ここで注目したいのは処分の中身です。士分に対する切腹ではなく、罪人としての斬首でした。 処遇をめぐっては土佐藩と薩摩藩のあいだで意見が割れ、最終的に土佐が押し切ったと伝わります。谷干城が強硬だったという話、薩摩の有馬藤太が助命を主張したという話が知られていますが、いずれも一次史料での確認は取れませんでした。諸説あり、とだけ書いておきます。 確かなのは、斬首という形で処分されたことです。そしてこの一事が、のちの永倉新八を動かすことになります。 首は塩漬けにされ、京都・三条河原に晒されました。その後の行方は、今も分かっていません。愛知県岡崎市の法蔵寺に運ばれたという話、山形県米沢市の高国寺に埋葬されたという話、土方歳三が宇都宮で負傷して治療を受けていたときに会津の天寧寺へ納めたという話—いずれも伝承の域を出ないようです。
胴はどこへ行ったのでしょうか
胴体についても諸説あります。 よく語られるのは、処刑から三日後、長兄の宮川音五郎と甥の勇五郎が馬捨て場の者に金を渡して場所を聞き出し、遺体を掘り出したという話です。中野坂上の成願寺に立ち寄り、明け方に生家近くへ戻って遺体を洗った—三鷹の龍源寺に墓がある根拠とされています。 一方で、掘り出されずこの地に埋葬されたままだという説もあります。境内に立つ「近藤勇埋葬当初の墓石」の木標は、その説に立つものです。 戒名すら一致していません。板橋の寿徳寺が出したのは「勇生院頭光放運居士」、三鷹の龍源寺は「貫天院殿純義誠忠大居士」、会津の天寧寺は「貫天院殿純忠誠義大居士」。三か所で三通りあります。 首も胴も戒名も定まらない。賊軍として斬られるとは、そういうことだったのだと思います。
明治九年、永倉新八が建てました
そして八年が過ぎます。 明治九年五月、永倉新八—このときすでに杉村義衛と改名していました—が発起人となって、この供養塔が建ちました。協力したのは旧幕府の典医・松本良順。佐倉順天堂の佐藤泰然の子で、新選組の屯所に出入りして隊士を診ていた医師です。碑文の書は、この松本良順の筆によります。 碑の正面にはこうあります。近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓近藤だけではありません。土方歳三の名が並んで刻まれています。裏面には近藤の没日「明治元年辰四月二十五日」、土方の没日「明治二年巳五月十一日」。 そして側面に、百十名。井上源三郎、原田左之助、山崎丞、沖田総司、芹沢鴨、伊東甲子太郎—永倉自身が斬り合った相手まで入っています。戦死四十名、病死・切腹・変死・処刑六十四名という内訳が伝わっています。 建てた明治九年、近藤はまだ罪人でした。賊軍の首魁の墓を、実名を出して建てたことになります。墓域が整えられるのは、会津松平家の地位が回復されたあとの昭和三年になってからでした。 費用をどう工面したのかは、資料では確認できません。松本良順の協力を得た、とだけ伝わっています。
永倉が二度果たした義理
この墓には続きがあります。 当サイトで松前藩のページに書いたのですが、永倉新八の父は松前藩の江戸定府取次役でした。永倉は江戸の松前藩邸に生まれ、十八歳で脱藩して剣の道へ入ります。そして新選組へ。 ところが明治三年、藩の家老・下国東七郎の仲介で藩医の娘と結婚し、婿養子として松前へ移り住みました。藩を捨てた男が、藩がなくなる直前に藩へ戻ったわけです。 その六年後に、この墓を建てています。そして昭和四年、長男の手によって、永倉自身の墓がこの同じ境内に建てられました。「自分が死んだら局長の眠る板橋へ埋めてくれ」と言い遺していたと伝わる、分骨の墓です。本墓は小樽にあります。 捨てた藩に戻り、賊軍とされた局長の墓を建て、最後は自分もその隣に入る。永倉新八という人を一行で言うなら、義理を果たし続けた人、ということになるのでしょう。 駅前の小さな一角ですが、立ち去りがたい場所でした。【近藤勇の墓・場所・アクセス】
- 所在地:東京都北区滝野川七丁目8-10(寿徳寺境外墓地)
- アクセス:JR埼京線「板橋駅」東口(滝野川口)から徒歩1分
- 指定:平成十五年、北区指定有形文化財(歴史資料)。新選組の祭祀を目的とする最初期の供養塔として評価されています
- 境内にあるもの:供養塔/近藤勇の戒名を刻んだ石/近藤勇像/永倉新八の墓/五稜郭戦死者供養碑/「近藤勇埋葬当初の墓石」の木標
- 供養祭:毎年四月二十五日、またはその前の日曜に墓前供養祭が行われています
新選組の隊士たちの墓所は、新選組の墓所めぐりに地域ごとにまとめています。
甲陽鎮撫隊から流山の出頭、板橋での最期までの近藤勇と隊士たちの動きは、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説板・碑文の記載をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。
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