鳥羽・伏見で敗れ、江戸に戻った新選組。局長の近藤勇は、次の舞台を甲州に求めました。幕府の直轄地だった甲府城を押さえ、西から迫る新政府軍を食い止める。隊は「鎮撫隊」と名を変え、近藤は若年寄格・大久保剛として甲州街道を西へ向かいます。しかし慶応4年3月6日、勝沼の柏尾で板垣退助の軍とぶつかり、わずか2時間ほどで敗れました。これが「甲州勝沼の戦い」です。
この記事では、甲州勝沼の戦いがなぜ起き、どの部隊がどれだけの兵と武器で戦い、なぜ敗れたのかを、進軍図とイラストで解説します。よく言われる「近藤は故郷で酒を飲みながらのんびり進んだ」という話が本当かどうかも、史料から確かめます。
甲州勝沼の戦いとは?ひとことで言うと
甲府城を目指した近藤勇の鎮撫隊が、一足先に甲府城に入った板垣退助の新政府軍と、甲州街道の勝沼・柏尾で戦って2時間ほどで敗れた戦いです。柏尾の戦い、甲州戦争とも呼ばれます。
| 日時 | 慶応4年3月6日(1868年3月29日)の正午ごろ〜午後2時ごろ |
|---|---|
| 場所 | 甲斐国山梨郡勝沼村・柏尾(現在の山梨県甲州市勝沼町)。甲府盆地の東の入口 |
| 旧幕府側 | 鎮撫隊(隊長・近藤勇=大久保剛)。新選組に、会津・彦根の藩士、銃隊、日野の春日隊が加わる |
| 新政府側 | 板垣退助の率いる土佐藩・迅衝隊、鳥取藩兵、高島(諏訪)藩兵など |
| 兵力(おおよそ) | 鎮撫隊 約200人(勝沼に着いたときは121人とも) 対 新政府軍 約400人 |
| 結果 | 新政府軍の勝利。鎮撫隊は山中を逃れて江戸方面へ。近藤はこのあと流山で新政府軍に出頭する |
なぜ甲府だったのか
近藤の願いと、勝海舟の思惑
鳥羽・伏見の戦いに敗れて富士山丸などで江戸に戻ると、近藤勇は徳川慶喜に「甲府城を任せてほしい」と願い出ました(鳥羽伏見の戦いとは)。永倉新八は、近藤には甲府城を手に入れて慶喜をそこへ移す計画があったと書き残しています。
当時、旧幕府の軍事の責任者は勝海舟でした。勝はのちに、近藤らは表では恭順を装いながら、裏では一戦を交えるつもりで甲府へ行ったと書いています。一方で、勝自身が「厄介払い」として、あるいは新政府との交渉を有利にする材料として、あえて近藤らを甲府へ送り出したのではないかという見方もあります。いずれにしても、恭順を決めた慶喜のもとで、近藤たちの出陣は旧幕府の正式な戦いとはいえない、あいまいなものでした。
遅れた出陣命令
新政府の側では、2月14日に板垣退助が京都を出て、東山道を東へ進み始めていました。それに対して、近藤に正式に「甲府鎮撫」の命令が出たのは2月28日。2週間の差がありました。近藤は若年寄格に取り立てられて「大久保剛」と名乗り、土方歳三も寄合席格となって「内藤隼人」と名を改めます。
「甲陽鎮撫隊」という名前
この部隊は「甲陽鎮撫隊」の名で知られていますが、じつはこの名前は当時の史料には見つかっていません。明治32年(1899年)に発表された回想が最初で、子母澤寛の小説『新選組始末記』によって広まりました。ただ、同行した佐藤彦五郎の日記や、道中の宿場役人の書状には「鎮撫隊」とあるので、少なくとも「鎮撫隊」と名乗っていたことは確かなようです。
両軍の顔ぶれと兵力
鎮撫隊(旧幕府側)
| 部隊・人物 | どんな人々か | 人数 |
|---|---|---|
| 近藤勇(大久保剛) | 隊長。若年寄格 | ― |
| 土方歳三(内藤隼人) | 副長。戦いの前日に援軍を求めて江戸へ向かい、戦場にはいなかった | ― |
| 新選組 | 永倉新八・原田左之助らの古参隊士と、江戸で集めた新しい隊士 | 約70人 |
| 会津藩士・彦根藩士 | 若干名。彦根藩士の佐々木一は、敗走のときに敵中を斬り開いたと伝わる | 若干名 |
| 銃隊 | 弾内記(浅草の弾左衛門)の配下から集めた兵 | 約100人 |
| 春日隊 | 日野宿の名主で、土方の義兄・佐藤彦五郎が率いた多摩の農兵 | 22人 |
新政府軍
| 部隊・人物 | どんな人々か | 人数 |
|---|---|---|
| 板垣退助 | 東山道先鋒総督府の参謀。土佐藩・迅衝隊の総督 | ― |
| 谷干城 | 迅衝隊の幹部。戦いでは別働隊を率いて鎮撫隊の背後に回った | ― |
| 土佐藩・迅衝隊 | 板垣が洋式に改めた土佐藩の部隊。赤熊(しゃぐま)の被り物で知られる | 約100人 |
| 鳥取藩兵 | 河田佐久馬(景与)らが率いた。山国隊などを含む | 約300人 |
| 高島(諏訪)藩兵 | 甲州街道の案内役をつとめた | 1小隊 |
兵力と武器を比べる
| 鎮撫隊 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 約200人。永倉新八の記録では、勝沼に着いたとき馬丁を含めて121人にまで減っていた | 約400人 |
| 大砲 | 徳川家から6門を与えられたが、運んだのは2門だけ | 野戦砲を持ち、柏尾山の高い所から撃ちおろした |
| 小銃 | 銃隊が中心。寄せ集めで、訓練は不十分だった | 土佐藩は前の年に洋式銃を大量に買い付け、板垣が軍制を洋式に改めていた |
| 兵の質 | 鳥羽・伏見を戦った新選組の古参と、集めたばかりの新兵。道中で脱走が相次いだ | 鳥羽・伏見の勝ちに乗り、京都からほとんど休まず進んできた部隊 |
近藤はのんびりしていたのか
小説の「泊まっては飲み、飲んでは泊まり」
甲州勝沼の戦いの話になると、よく「近藤は故郷の多摩で歓迎を受け、酒宴を重ねながらのんびり進んだので、甲府城に間に合わなかった」と言われます。もとになったのは、子母澤寛の『新選組始末記』の「多摩の壮士が大名になったのだから、歓迎又歓迎、泊まっては飲み飲んでは泊り」という一節です。
佐藤彦五郎の日記が伝える実際の行軍

ところが、隊に加わった佐藤彦五郎の日記を見ると、話はかなり違います。
| 日付 | 行軍(「佐藤彦五郎日記」による) |
|---|---|
| 3月1日 | 江戸・鍛冶橋の屋敷を出る。近藤の生まれた上石原宿を通過し、府中宿に泊まる |
| 3月2日 | 土方の生まれた日野宿を通過。八王子宿で昼食をとり、夜は相模の与瀬宿へ |
| 3月3日 | 甲斐国に入り、上野原宿で昼食、猿橋宿に泊まる |
| 3月4日 | 花咲宿で昼食中、新政府軍が甲府に迫っていると知る。駒飼宿へ急ぐ |
| 3月5日 | 新政府軍がすでに甲府城に入ったことがわかる |
近藤の故郷の上石原も、土方の故郷の日野も、通過しただけで、酒宴どころか昼食もとっていません。江戸を出て3日目には甲斐国に入っています。「のんびり」とはいえない進み方でした。
ただ、故郷で歓迎を受けたのは事実のようです。上石原の古老の話として、近藤は歓迎への感謝と見送りの人々への礼として、宿場を出るまで駕籠に乗らずに歩いて通ったと伝わります。故郷に錦を飾る思いが、まったくなかったとはいえないでしょう。


佐藤彦五郎の屋敷だった日野宿本陣(東京都日野市・筆者撮影)。春日隊はここから鎮撫隊に加わった
本当の遅れは、江戸を出る前にあった
板垣退助のほうは、甲府城に先に入ることが勝負を決めると考え、駆け足で進みました。3月1日に下諏訪で本隊と分かれ、甲州街道を急いで、3月5日に甲府城に入ります。鎮撫隊が勝沼に着いたのは、そのあとでした。


板垣退助が一足先に入った甲府城(山梨県甲府市・筆者撮影)
差がついたのは、行軍の速さというより、出発の遅さでした。板垣が京都を出たのが2月14日、近藤に命令が出たのが2月28日。この2週間の遅れを、甲州街道の上で取り戻すことはできなかったのです。
戦いの流れ

3月5日:土方、江戸へ
甲府城に先を越されたと知ると、土方歳三は早駕籠で江戸へ向かいました。援軍を求めるためだったとされます。頼る先として名前が挙がるのが、旧幕府の洋式部隊「菜葉隊」です。軍服の色から、そう呼ばれたといわれます。佐藤家の記録には、近藤が「かねて約束の菜葉隊」を急いで呼ぼうとしたとあり、ほかに、土方が神奈川まで菜葉隊を迎えに行ったとする永倉新八の話も伝わっています。ただ、どの記録も後になって書かれたもので、細かいところは食い違っています。確かなのは、援軍はどこからも来なかったということです。
近藤のほうは、甲府の町奉行を通じて新政府軍に手紙を送りました。「自分たちは甲府の取り締まりを命じられて来たが、新政府軍にさからうつもりはない。しばらく進軍を止めてほしい」。戦いの準備をするための時間かせぎだったとされます。
柏尾坂への布陣と、大善寺の「よしよし」
近藤は部隊を二つに分け、佐藤彦五郎の春日隊を岩崎山の中腹に、自分の本隊を勝沼の東のはずれ、柏尾坂の上に置きました。
柏尾山には、奈良時代の創建と伝わる古い寺・大善寺がありました。住職が近藤の本陣を訪ね、「戦いになっても寺は壊さないでほしい」と頼むと、近藤は「よしよし」と生返事をくり返すばかりだったといいます。ところが戦いになると、近藤は寺の下の集落には火を放ちましたが、寺には手を出さず、寺の上の高い所から撃たれても撃ち返しませんでした。国宝の薬師堂は、こうして焼けずに残ったと伝えられます。住職はのちに、あの「よしよし」には金鉄の重みがあったと語ったそうです。
3月6日正午:開戦

3月6日の正午ごろ、柏尾坂のあたりで鎮撫隊が新政府軍に発砲し、戦いが始まりました。けれども鎮撫隊はつまずきます。大砲の指図役だった結城無二三が近くの村を回って兵を集めていて持ち場にいなかったため、散弾と榴弾を取り違えるといった初歩的な失敗が起きました。そもそも大砲は2門しかありません。撃ち合いは、はじめから新政府軍が優勢でした。
それでも、刀を抜いての斬り合いになると、鎮撫隊が押し返した場面もあったといいます。当時柏尾に住んでいた人が後に書き残した記録には、近藤らが抜刀して敵陣に斬り込んだ様子が伝わっています。しかし、谷干城の率いる別働隊が鎮撫隊の背後に回って撃ちかけ、正面、背後、そして岩崎山の三方から攻められて、鎮撫隊は進むことも退くこともできなくなりました。彦根藩士の佐々木一が敵中に斬り込んで道を開き、一同はかろうじて囲みを抜けます。
戦いは午後2時ごろには終わり、鎮撫隊は山中に身を隠しながら東へ逃れました。

戦いのあと
近藤、最後の百日へ
敗れた鎮撫隊は、八王子をへて江戸へ引き上げました。このあと、今後の方針をめぐって近藤と永倉新八・原田左之助が対立し、二人は隊を離れます。近藤と土方は五兵衛新田(いまの東京都足立区)で隊士を集め直し、下総の流山へ移りました。そして4月3日、新政府軍に囲まれた近藤は「大久保大和」と名乗って出頭し、4月25日、板橋で斬首されます(近藤勇、最後の百日/流山陣屋)。勝沼の敗戦は、近藤勇にとって最後の戦いになりました。
甲斐の人々と、板垣の「復姓」
新政府軍の側には、もう一つの勝因がありました。乾退助は、京都を出たあと、甲斐の戦国大名・武田信玄の重臣だった板垣信方の子孫であることを示すために、「板垣」に姓を改めていました。甲斐の人々は、武田家ゆかりの「板垣」が帰ってきたと大いに歓迎し、武田家の旧臣の子孫たちが「断金隊」「護国隊」をつくって新政府軍に加わります。脱走者の相次いだ鎮撫隊とは対照的に、新政府軍は土地の人々の心までつかんでいたのです。
筆者の感想 ― 往年の近藤勇らしい備えがなかった
この戦いを調べて、私がまず思ったのは、近藤勇に「往年の押さえ」が見られないということです。
出発が遅れ、甲府城に先に入られ、そのうえ大敗しました。土方が江戸へ走った菜葉隊の援軍も、間に合いませんでした。援軍が必要になることはわかっていたはずです。それなら、はじめから菜葉隊に声をかけ、話をつけてから進軍すればよかったのではないでしょうか。記録の中には「かねて約束の」と書いたものもありますが、結果として援軍は一人も来ていません。京都で池田屋に踏み込んだころの新選組なら、もっと手堅く段取りを整えていたように思えます。
そしてもう一つ。近藤たちは、わずか2か月前の鳥羽・伏見の戦いで、洋式の銃と大砲の強さを嫌というほど思い知らされたはずです。それなのに、勝海舟から少しばかりの軍資金と大砲をもらい、寄せ集めの兵を連れただけで、本当に勝てると思っていたのでしょうか。少なくとも、フランス式の訓練を受けた幕府の伝習隊や、のちに立見鑑三郎(尚文)が率いて強さを見せる桑名藩の雷神隊のような、近代的な戦い方を知る部隊の協力は欠かせなかったと私は思います。
甲府城に入って慶喜を迎えるという夢は、勢いだけでは届きませんでした。大名格の名乗りを得て故郷を通った近藤勇が、わずか2時間で敗れたこの戦いは、新選組の時代が終わったことを告げる戦いだったのかもしれません。
現地を歩く ― 甲州勝沼の戦いの史跡
- 柏尾古戦場跡(山梨県甲州市勝沼町柏尾):甲州街道沿いに古戦場の碑があり、近藤勇の像が立っています
- 大善寺(山梨県甲州市勝沼町勝沼):近藤が「よしよし」と答えたと伝わる寺。国宝の薬師堂が残ります。ぶどうの寺としても知られています
- 日野宿本陣(東京都日野市):佐藤彦五郎の屋敷。鎮撫隊が通った甲州街道沿いにあります(新選組のふるさとを歩く)
- 近藤勇生家跡(東京都調布市):近藤が駕籠を降りて歩いて通ったと伝わる上石原の生家の跡
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参考にした資料
- 「佐藤彦五郎日記」(Wikipedia「甲州勝沼の戦い」所引)
- Wikipedia「甲州勝沼の戦い」「甲陽鎮撫隊」「佐藤彦五郎」
- 子母澤寛『新選組始末記』
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。錦絵はWikimedia Commons(パブリックドメイン)


