調布の住宅街に、小さな井戸を囲った一角があります。ここが近藤勇の生まれた家の跡です。そこから甲州街道を西へ十数キロ、日野の宿場には、土方歳三や井上源三郎が通った本陣の建物がいまも残っています。
新選組の中心にいた人たちは、京都の武士ではなく、多摩の農村で育った若者でした。その「ふるさと」を、調布から日野まで歩いてみました。

この場所から、幕末はどう見えるか
多摩の新選組ゆかりの地を歩くと、新選組が「どこから来た集団なのか」がよく分かります。
- 近藤勇は、調布・上石原村の豪農、宮川家の三男—生家は昭和十八年に取り壊され、いまは井戸だけが残ります
- 日野宿本陣は、都内に残るただ一つの本陣建築—新選組が京都にいた文久三年に上棟し、元治元年末に完成しました
- 土方歳三の墓は日野・石田寺の土方家の墓所に—箱館で戦死した土方の遺体がどこに葬られたのかは、分かっていません
調布・上石原—近藤勇が生まれた村
最初に訪ねたのは、調布市野水にある近藤勇生家跡です。調布市の史跡に指定されていて、標柱と、宮川家の屋敷の復元図をのせた説明板が立っています。

調布市教育委員会の説明板によると、近藤勇は天保五年(1834)、宮川久次郎の三男(幼名は勝五郎)としてこの地に生まれました。十五歳で天然理心流の近藤周助に入門し、翌年には目録を得て、周助の養子となります。
宮川家の屋敷は約七千平方メートルもの広さがあり、母屋のほかに蔵屋敷・文庫蔵・乾燥納屋・地下蔵・農具入れの納屋などが並んでいたといいます。近藤は貧しい農家の出ではなく、村でも指折りの豪農の家に生まれた人でした。その家も昭和十八年に取り壊され、いまは屋敷の東南にあった井戸だけが残されています。

天然理心流の道場「撥雲館」
生家跡のすぐ近くには、天然理心流の道場「撥雲館(はつうんかん)」があります。

説明板によると、勇の父・宮川久次郎は、屋敷の中に寺子屋を開くとともに天然理心流の道場を持ち、勇やその兄たち、近くの子どもたちに学問や武術を教えていました。三代目の近藤周助は、月に二、三回ここへ招かれて稽古をつけていたといいます。
いまの撥雲館は、明治九年(1876)に近藤勇の娘・瓊(たま)と結婚して天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎が、父から分けてもらった屋敷の納屋を道場にしたものです。勇五郎は勇の長兄・音五郎の次男で、勇にとっては甥にあたります。「撥雲」の名は、ここを訪れた山岡鉄舟がつけたと伝わります。雲を払いのける、という意味です。
道場はその後、昭和七年に建て直され、戦時中の調布飛行場の建設や、戦後の人見街道の拡幅で二度移築されて、いまの場所に落ち着きました。近藤勇の剣は、明治以後も親族の手で、この村で受け継がれていたのです。
日野宿本陣—佐藤彦五郎の屋敷
調布から甲州街道を西へ進むと、日野の宿場に着きます。ここに残るのが日野宿本陣です。

日野市教育委員会の説明板によると、日野宿本陣は江戸時代の末に、日野宿の名主を務めた下佐藤家の住宅として建てられました。下佐藤家は正保年間(1644〜48)ごろに名主に取り立てられ、隣の上佐藤家と交代で名主を務めてきた家です。正徳六年(1716)には上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められましたが、幕末には下佐藤家も本陣を名乗っていました。
今の建物は、嘉永二年(1849)正月の火事で焼けたあと再建されたもので、文久三年(1863)四月に上棟し、元治元年(1864)の末に完成しています。瓦葺きの背の高い大屋根と入母屋の玄関をもち、甲州道中だけでなく東京都内に残るただ一つの本陣建築として、日野市の有形文化財に指定されています。
この日付は、新選組の歩みとぴったり重なります。文久三年二月、近藤勇や土方歳三たちは浪士組に加わって京都へ旅立ちました。この家の上棟は、その二か月後です。そして完成した元治元年は、京都で池田屋事件と禁門の変があった年でした。当主の佐藤彦五郎は土方歳三の義兄で、屋敷の中に天然理心流の道場を開いていたことで知られます。京都の仲間の活躍を、彦五郎は新しい屋敷の普請を進めながら聞いていたことになります。
井上源三郎資料館—六番隊組長の生家
本陣から歩いてすぐのところに、井上源三郎資料館があります。

説明板によると、井上源三郎は文政十二年(1829)、井上藤左衛門の三男として日野宿に生まれました。天然理心流の近藤周助に入門して剣を学び、文久三年(1863)に浪士組に加わって京都へ上ります。新選組では副長助勤・六番隊長を務め、慶応四年(1868)一月、鳥羽・伏見の戦いのさなか、淀千両松で銃撃を受けて戦死しました。
資料館では、源三郎と、その兄で八王子千人同心だった井上松五郎に関わる資料が展示されています。説明板に挙がっている主な展示品は、源三郎あての天然理心流の免許、近藤勇が松五郎に贈った刀、松五郎あての土方歳三の手紙などです。

源三郎は、近藤勇よりも五つ年上です。試衛館の仲間の中では年長で、若い近藤や土方を支える兄のような存在だったといわれます。鳥羽・伏見の戦いの様子は鳥羽伏見の戦いと新選組にまとめています。
新選組のふるさと歴史館
日野市には、市立の新選組のふるさと歴史館もあります。訪ねた令和三年(2021)十二月は、特別展「甲陽鎮撫—新選組と街道の村々」が開かれていました。

甲陽鎮撫隊は、鳥羽・伏見の敗戦のあと、新選組が名を改めて甲州へ向かった部隊です。その行軍は、まさにこの甲州街道を通っていきました。日野の人々は、京都から戻った近藤や土方を迎え、佐藤彦五郎は春日隊を組んで行軍に加わっています。街道の村々と新選組のつながりに光を当てた展示は、この土地ならではのものでした。甲陽鎮撫隊から流山までの流れは近藤勇、最後の百日にまとめています。
石田寺—土方歳三が眠る寺
日野の石田(いしだ)には、土方家の菩提寺石田寺(せきでんじ)があります。墓地の入口には「土方歳三 墓所」と矢印を刻んだ石が置かれています。

日野市教育委員会の説明板によると、土方歳三義豊は天保六年(1835)、土方義諄の末子として生まれました。青年時代は家業の農業と薬の製造・販売を手伝いながら、近藤周助について天然理心流を学び、近藤勇・沖田総司らと知り合います。

説明板は、土方の最期を「明治二年(1869)、弁天砲台に孤立した味方を救出するために箱館市内に突入したが、午前十時頃腹部に銃弾を受けて戦死した」と書いています。五月十一日、三十五歳。法名は歳進院殿誠山義豊大居士です。
ただし、土方の遺体がどこに葬られたのかは分かっていません。石田寺の墓は、故郷の家族が土方をまつった墓です。土方が倒れた場所についても、一本木関門とする説などがあり、説明板の書き方はその一つです。箱館での最期は箱館の新選組、墓所の全体は新選組の墓所めぐりにまとめています。
高幡不動尊—土方歳三の像
石田寺から南へ向かうと、関東三大不動の一つといわれる高幡不動尊(金剛寺)です。境内には、羽織袴に刀を差した土方歳三の像が立っています。

境内には、近藤勇と土方歳三をたたえる「殉節両雄之碑」も立っています。明治になって、日野の人々が二人の名誉を取り戻そうとして建てたものです。新政府に「賊」とされた二人を、ふるさとの人たちは最後まで誇りにしていたことが分かります。
歩いてみて分かったこと
新選組は「多摩の豪農ネットワーク」から生まれた
近藤勇の宮川家、日野宿の名主の佐藤家、井上源三郎の井上家、そして土方家。どの家も、村の中心にいた豊かな農家でした。天然理心流は、こうした家々に出稽古で広まった剣術です。宮川久次郎は自宅に道場を持ち、佐藤彦五郎も屋敷に道場を開いていました。近藤や土方が京都で浪士をまとめ上げられたのは、ふるさとで豪農たちが築いた人と剣のつながりがあったからです。多摩出身の隊士が学んだ流派は新選組隊士の剣術流派にまとめています。
ふるさとは、戦争と開発で姿を変えた
近藤の生家は昭和十八年に取り壊され、撥雲館は調布飛行場の建設と戦後の道路拡幅で二度動かされました。幕末の建物がそのまま残る日野宿本陣は、それだけに貴重です。いま私たちが歩けるのは、地元の人たちが道場や墓や資料を守り続けてきた場所です。
明治以後も続いた、ふるさとの記憶
撥雲館を継いだ近藤勇五郎、資料館を守る井上家の子孫、石田寺の墓、高幡不動の碑と像。新選組が京都で活動したのはわずか五年ほどですが、多摩ではその記憶が百五十年以上にわたって受け継がれてきました。
訪ねるなら
- 近藤勇生家跡・撥雲館:東京都調布市野水。生家跡は市史跡(昭和五十二年指定)
- 日野宿本陣:東京都日野市日野本町。日野市指定有形文化財(平成十五年指定)
- 井上源三郎資料館:日野市日野本町。取材時は毎月第一・第三日曜の開館でした(最新の開館日と入館料は事前にご確認ください)
- 新選組のふるさと歴史館:日野市神明。特別展は時期によって変わります
- 石田寺:日野市石田。土方家の墓所があります。檀家の方の墓地なので、静かにお参りしてください
- 高幡不動尊(金剛寺):日野市高幡。土方歳三の像と殉節両雄之碑があります
- 取材日:令和三年(2021)十二月二十五日(調布・日野)、令和六年(2024)四月二十八日(日野宿)
近藤勇・土方歳三・井上源三郎の生涯は、それぞれの隊士ページ(近藤勇・土方歳三・井上源三郎)で詳しく紹介しています。日野出身の隊士には、ほかに松本捨助(府中)や大石鍬次郎(日野の佐藤道場で修行)などがいます。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説板(調布市教育委員会・日野市教育委員会)の記載をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。
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